第二話 歯車的人生の片鱗
私は課長の言葉に驚きはしたものの、顔に出すことは無かった。それにしても大阪に配属されてまだ一年も経っていないのに異動とは……。役立たずは他所へ行けという会社の意思表示なのだろうか。
どことなく腑に落ちない私は「なぜですか」と課長に尋ねた。私の問いに対して課長は端的に答えた。
一つ目に今神戸では人手不足に陥っているということ、二つ目に自分が独り身で一番身動きが取れるということ、三つ目に今住んでいるところから通える範囲だということ、四つ目に大阪の現場担当者だけでなく色々なエリアの現場担当者を見て勉強してほしいと言うこと。
以上の理由から私が抜擢されたという。なるほどなるほど、会社というものは自分の想像以上に社員を自由に扱えるらしい。就業規則というものを入社する際に読んだが、確かにその通りの内容だった。いつかこういう事態になるであろうことは予測していたが、これほど早く訪れるとは思いもよらなかった。
黙っている私に課長はどこか苛々した様子で「すまないが行ってくれるか?」といういやらしい、本当にいやらしい質問をしてきた。辞令に逆らえるわけがないということを分かった上で、本人の口からイエスを捥ぎ取るための質問。課長には悪いが私は口のみならず全身の穴という穴から反吐が出る思いがした。
しかし私は冷静に考えた上でイエスと答えた。仕事内容は特に変わらないし、住むところも変わらない。事務所と仕事場が少し変わるだけなら生活にそれほど支障はないだろうと判断したからだ。
私の返事に課長はコンビニ弁当の値札シールのように薄っぺらい笑みを浮かべると、「ありがとう。向こうの人はお前を必要としている。向こうに行っても頑張って欲しい」と月並みな言葉を綴った。課長は悪い人間ではないが、決して強い人間ではないことは若輩者の私にも分かっていた。彼の立場のことを考えるとやはり私はイエスと答えるしか無いし、大阪に配属された直後の私はたくさんのミスを犯し、それらを彼に何度もフォローされた恩もある。義理は必ず果たすのがこの腐ったご時勢で貫く私の信念だ。結局のところ、理由はどうあれこの場は唇を噛みしめ無言で頷くしか私には方法は無かった。
その後、私は神戸にある事務所の所在地やそこで働く同僚となる人物達の事を教わった。急な話だが神戸には一週間後に移ることになるそうだ。また、今抱えている業務の引継ぎの準備や、現在使用しているPC等の届けは事務員さんがやってくれるとのこと。私は無駄なことを考えさせず神戸での業務にしっかり準備できるよう取り計らってくれている課長の段取りには頭を下げた。
◆ ◆ ◆ ◆
「野菜天うどん大でーす」
三角帽を被った店長の娘がえくぼのある笑みを浮かべながら、カウンター越しにお盆ごと私の前に料理を置いた。鮮やかな色合いの野菜のてんぷらが乗った、麺大盛りのうどんだ。
今晩は無性に外食がしたかった。異動という急な話に無意識の内に戸惑い、そわそわしていたのかもしれない。私は仕事が終わった後、家への最寄り駅から一つ前の駅で降り、なじみのうどん屋へ足を運んだ。幸い客は一人もおらず、のんびりと過ごせることに私は幸せを感じていた。
私がこの店で頼むものはいつも野菜天うどん大。普段はコンビニ弁当なのでどうしても肉が多く野菜が少なくなるため定期的にこのうどん屋へ行って新鮮な野菜を摂る。でも腹いっぱいは食べたいという私の切なる思いをもあるので、そのための『大』である。私の渇いた空腹を満たしてくれる一品である。
通常、てんぷらのラインナップはオクラ、かぼちゃ、紅しょうが、しいたけ、ナス、エビ、ちくわ、以上各一つずつが基本形だが、二月程前から紅しょうがとナスが多く乗るようになった。店長曰く『お得意様だから』らしい。大変ありがたい心遣いである。紅しょうがの程よい辛さは冷えた身体を良く暖めてくれる。四月の寒さはまだ身に堪える日があり、そんな日はこの温かい紅しょうがで乗り切るのが私の癖になっていた。
はふはふしながら夢中で麺を頬張っていると、誰に言うでもなく店長が「物騒やなぁ」と呟いた。
私は声の方を向くと、店長は丸型のパイプ椅子に腰掛けて天井に吊ってある小さな液晶テレビを見ていることが分かった。思わず釣られて目を向けるとテレビには『猟奇的殺人による被害者、一人増加!』というテロップが流れていた。ここ最近東京で発生している猟奇殺人の被害者がまた増えたようだった。今回犠牲になった人物は五十六歳の会社役員。現場は自宅からも会社からも離れた雑居ビル同士の昼でも暗い隙間で、全身の血を抜かれて居るにも拘らず血痕は僅かしか残っていないという実に奇妙なものだった。キャスターやインターネット上の話では『吸血鬼を騙った何者かの仕業』という話が持ちきりで、国を騒がすちょっとした事件になっていた。
怖いですねと私が口にすると「こっちは関西だから大丈夫やろう」と、気にしていても仕方が無いといった体で店長は私の言葉を切って捨てた。
「慎ましく生きとったら、お天道様が護ってくれるやろ」
そう言った店長の言葉が胸に刺さり、思わず私は無言になった。
「でももし犯人が現れたら、どうしたらええやろ」
店長の娘が物憂げな声で言った。店長曰く彼女は大学三回生で、弓道部をしているそうな。背は低めでどちらかというと幼児体型だが、黒くて艶のある髪をポニーテールで結い、そこから覗くうなじには歳相応の艶やかさがある。くりっとした二重の瞳も印象的で、まるで日本人形のような印象を私は受けていた。大学ではさぞかしモテていることだろう。
そんな彼女がなぜか私の方を見てどうしたらええやろ等と言うので「ダッシュで逃げるしかないね」とあっさりと答えた。すると彼女はなぜかため息をついた。そして彼女の様子を見て店長はお前の場合は大丈夫だろと言う。
「お前には武術があるやろ。そんじょそこらの男を吹き飛ばすことなんてわけないくせによく言うわ」
がははははと豪快に笑う店長。傍らの娘はむすっとした顔で「うるさいバカ親父!」と喚く始末。それに火がついたのか「なにおう!?」と眉間に皺を寄せて噛み付いてくる店長。客の前で親子喧嘩をするなと言いたいところだが、彼らがここまで素の状態を見せてくれるということはそれだけ迎え入れられているということなのだろう。それはきっと喜ばしいことだ。余所者の自分を多少なりとも受け入れてくれる彼らの好意に私は無言で感謝をした。
「ケッ。兄ちゃん、にやにやしとんじゃねぇよ」
つまんねぇとでも言いたげな顔で店長が舌打ちをする。なにやら自分はにやにやしていたらしい。
「父さんのせいで見っとも無いとこ見られた……」
片や娘は意気消沈してブルーになっている。娘の言葉にまたヒートアップしたのか「なんやと俺のせいなんか!」と再び店長が吠えた。「他に誰がおるんよ、デリカシーゼロ!」と娘は返す。この二人の掛け合いを見ていると、やはり血は争えないのだなと私は噛みしめるように思った。
私は彼らの微笑ましい光景を眺めながら、残っているうどんをゆっくりと食べ始めた。平和という当たり前の幸せを感じている。心も身体も安らぐこの場所は、いつの間にか私にとってもう一つの故郷のようなところになっていた。
◆ ◆ ◆ ◆
楽しい夕飯を終えていつも通りの暗い帰り道を歩いていると、後ろの方からりん、と鈴の音が聞こえた。私は一度立ち止まるが、振り向かずに歩いていく。
またあの猫だ。灰色の猫。最近良く遇う。向こうは自分の存在を知らせるように決まって一度りん、と鈴の音を鳴らしてくるのである。そして野良猫に用事など無い私は決まってそれを無視する。猫に限らず野良の動物は良からぬ病気を持つと聞く。ましてや噛まれでもしたら面倒だ。動物自体は大好きだが、大人になった今、年甲斐も無く野良猫と道端で戯れるのははしたないと私は考えていた。
――りん。
再び鈴の音が鳴る。その音は夜の暗闇を切り裂くような妙に澄んだ音で、そして耳に残る音だった。踵を返すような音が後ろからし始めた頃、私はマンションの入り口に立っていた。