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第一話 定まり始めた特異点

 次の日の朝。八時四十五分の朝礼が終わると、私は荷物を担いで足早に事務所を出た。二千円で購入した青い肩掛けカバンの中身は差し金、鉛筆、カタログ、上靴等工事現場で必要になる最低限の道具を無理矢理詰め込んである。本来なら車で現場に回るのだが、新人である私にはまだ専用の車がない。故に現場近くの駅まで行った後は歩きだ。場所によっては駅から小一時間くらいかかる場所もざらにある。最初は軽い旅行気分。しかし慣れると苦痛以外のなにものでもない。しかし無駄な肉が落ちるという思わぬ副作用があるので少しだけ嬉しくもある。

 現場は一日に大体三、四件。朝九時に出て、事務所に戻るのは十七時。それまでずっと歩きっぱなし。現場間は電車で移動するため、その間目を閉じて浅い惰眠を全身で貪る。大して回復しないが、気分的にはだいぶ変わる。しかし、情け容赦なく何食わぬ顔で忍び寄り、水色のささやかな休息の時間をいとも容易く破壊する会社用の携帯電話が、小さくはあるがしつこい振動で現実へ引き戻そうとするのが辛い。電話がかかるということは、何か好からぬことが起きたからだ。プライベートの電話ならいざ知らず、0か1かを求められる世界の電話の内容など碌なものではない。ましてや好きでもない仕事の電話である。

 だがそんなコトは誰もが思っていることだろう。十中八九、自分だけがこんな考えをしているはずがない。自分だけが特殊という考え方は、非常に甘い。今のこの世には想像しうる大抵の物が既にあり、それは物だけではなく思想、思考など目に見えないものも含む。極めて普通の世界で生きてきた自分が想像可能なことなど、もうすでにこの世に産み落とされ、さんざん手垢まみれになった大衆浴場の碧くぬめる老いた木の桶のようなものだ。非常に陳腐でつまらない、ナルシスティックでロマンチシズムに溺れた自己満足だ。

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ 


 ガタン。

 今日最後の現場を終え、事務所に戻る電車の中、私は夕陽に包まれながらまどろみ、隣に座っている女性の香水に鼻腔をくすぐられ懐かしい思い出をめくっていたのだが、肝心なところで蠱惑的な幻想を引き裂かれた。急ブレーキをかけた電車というのは、思いのほか揺れる。

 ゆっくりと瞼を開くその先には、やはり眩しい夕陽がそこにあり、私の記憶を無造作に探るように目の奥を焦がしてくる。輝く光にかき混ぜられ、つい先ほどまで鑑賞していた記憶がかすむ。

「停止信号です。少々お待ちください」

 まるで機械信号のような淡々とした口調で車掌の声が車内を疾る。目の前に座っている頭の毛がだいぶ薄くなり額に四つも五つも皺を刻んだ中年男性が険しい顔をして目線を上に向けた。まるで車掌の声を睨みつけるよう。彼の瞳には苛立ちとほんのちょっぴりの憎しみと、そしてエゴが混ざり合ったよどんだ色をしていた。グレイの背広は高そうだが皺が少々目立ち、左手首の見飽きたセイコーのようなシチズンのような分からないどこでも見かけるような銀の腕時計が、まだかまだかと丸い牢獄の中に閉じ込められた短針と長針を急かして駆け巡らせている。

 明日は我が身、という言葉がある。深い言葉だ。そして怖い言葉だ。

 視線を中年男性の後ろにそびえる夕陽に向ける。あの夕陽が爆発したら、この世界はどうなるのだろう。そんなことあるわけないのだが、漠然と思ってしまう。

 あの男の顔面を渾身の力をこめて殴ったらどうなるだろう。あの華奢な女の白い細い背中に飛び蹴りを浴びせたらどうなるだろう。私は警察にお世話になるのだろうか。冷静を保っていられるだろうか。それとも発狂するだろうか。感情のたがが外れて本能のままに、『街』を破壊し始めるのだろうか。

 色々な可能性を考える。絶対にそんなことしないのだが、もし――という風に。これも何かの病だと聞いた。だがどうでもいい。そんな些細なことはどうでもいい。まったく必要の無いことだ。

 重要なのは自分の居所を見つけること。もしくは、気づくこと。それさえしっかりと手に入れば、後はどうでもいい。

 そして停まった電車はまだ動かない。くだらない妄想と思想を繰り広げてだいぶ時間が経ったはずだ。にも拘らず、電車は低く小さい機械音を立てながら前進しない。中年男性以外の客もいい加減苛々してきたのか、周囲の乗客もざわめきだした。

 短気な連中だ――と私は思った。しかしそれは違うことだと気づく。こうして事務所に戻るのが遅くなるのが嬉しいから、憎しみが生まれないのだ。薄らありがたいとすら感じている。我ながらまったくもって会社にとって不必要な人材だ。こんな人間を雇った人事のお偉方は見る目がないとつくづく思う。

 人間である限り人間を完全に見抜くことなんてできないと私は考える。進化の過程で複雑な思考を可能にしてしまった人は、不幸なのだろうか。それとも幸せなのだろうか。少なくとも今の自分はきっと幸せなのだろう。客観的に見て。本心は別として。なぜなら自分という存在価値は相対的なものだから。自己満足を極めてしまうような、唯我独尊な人間もいるかもしれないが、私はそこまで自分を好きになれそうにない。

 ガタン。

 電車の車輪が金切り声を上げて再び動き出す。電車にもし意思や知恵があるとしたらどんな気持ちなのだろう。毎日同じレールを同じスピードで走り、重たい荷物を抱え、一日が終われば車庫に戻る。それの繰り返し。どんな気持ちなのだろう。こんな気持ちなのだろうか。

 電車に意思があるわけなど無い。機械にこころは存在しない。だが、もしこの世すべての存在に人と同じような確固たる意思があったら、どうなるのだろう。今の生活より少しは面白くなりそうな気がする。

 平和が一番だとは思う。だが、飽きるのは絶対に厭だ。変化のない日々を過ごすのは、電車と一緒だ。人間らしく生きたい。私は機械ではない。

 そんなことを考えているといつの間にか目的の駅に到着し、ほぼ無意識に列車を降りていつもの階段を上がり、改札を抜け、事務所へと向かう。駅と合体しているビルの中にあるため、駅から事務所までは非常に近い。

 エレベーターに乗り込み六階で降りるともう事務所だ。すれ違った名も知らぬ社員に会釈をしながら自分の席に向かう。

 広いフロアにいくつかの部署が点在している事務所で、私の部署のメンバーは自分含めて七人いる。課長、係長、同僚四人。当然ながら全員年上だ。極めてできた人間ばかりなので人間関係で苦痛を感じたことは無かった。相談にも快く乗ってくれる。良い先輩に恵まれて幸せだと私は思う。

 席に着き、ノートパソコンを開いて電源を押そうとした瞬間、課長が私の名を呼んだ。

 返事をして課長の元へ向かうと「少し時間をくれ」と言われ、打ち合わせ室に来いと指示される。とくに仕事のミスを犯していないが、何かあったのだろうか。私は不快な静電気のような嫌な予感を得た。きっとめんどうな話だ。

 誰も居ない打ち合わせ室に連行され、パイプ椅子にお互い座ると、一呼吸置いて課長がゆっくりと口を開く。「神戸へ行ってもらう事になった」そんな言葉を、課長は言った。


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