第十六話 まどろみ
――夕焼け。
空は楓のような赤茶色に染まり、色鮮やかな光は空をどこまでも包んでいる。輝く暖かな光によって私は目を覚ました。
まだ寝ぼけて視界が定かではない瞳の向こう側には、遊具で遊ぶ幼児がぼんやりと数人見える。
……遊具?
改めて、二、三瞬きをして周囲を確かめると異様なことに気づいた。幼児用の椅子、玩具、やたら色鮮やかな室内。ここは……、
「保育園?」
しかも見覚えがある。そうだ。ここはかつて幼い自分が通っていた保育園だ。
そしてふと自分の姿を見直してみれば、おお、なんということだ、完全に幼い頃の自分ではないか!
夢だ。いや間違いないこれは夢だ。時間帯が時間帯だったため現実と混同したのだろう。そんなことがあるのかとにわかに信じがたいことではあるが。
「ばいばい、仁くん!」
唐突に声をかけられた。声のした方を向くと、なんとなく見覚えのある幼い女の子がにこりと笑って手を振っている。艶やかな黒髪は短くおさげにまとめてあり、にこっとむいた白い歯がまばゆい。幼いながらもきれいな顔立ちをしているから、きっと将来は美人になるのだろうなと思った。
私はとりあえず笑いながらばいばい、と手を振りかえした。今の自分の声とはまるで違う高い声に、思わずどきりとする。
幼い女の子は「またねー」と言いながら、先生に手を連れられて元気よく外へ出て行った。行く先を見てみると、母親らしき人物が立っていた。パリッとしたスーツを纏う姿はできる女を連想させる。スーツの女は先生と少し談笑した後、女の子の手をつないで去って行った。ふむ、今はいわゆるお迎えの時間らしい。どうりで教室の中は園児の数がまばらなわけだ。
お迎えの時間ということは、じきに私の父親がやってくるのだろう。私は外をぼんやりと眺めながら父の登場を待った。
「じゃあな、仁。また明日なー」
やんちゃそうな男の子に手を振りながら、私は何度目かの送り出しをした。幼い頃の私は友人が多いようだった。それが上辺だけなのかどうかは判断ができないが。
空の茜色はだいぶ色を失い始めていた。夜の気配。黒い時間の到来を予感させる空気が満ち始めていた。
教室内には自分を含めてあと三人しかいない。外にはもう子供の姿はない。隣の教室からのやかましい声もいつのまにか止んでいる。
私は手近な椅子に座ると、ぼんやりと壁を見回した。汚らしい……もとい純粋な絵心で描かれた無垢な絵がずらりと並べられていた。テーマは海と書かれている。各絵の下には作者の名前がある。私は思わず自分の絵を探してしまい、そして自分の作品を見てがっかりした。案の定下手である。だが色彩センスは悪くないと思った。タイトルが『海』であるのに対し、他の絵が赤と茶とか、なぜそれをチョイスするのか分からない色だったことに対し、我が作品は青、緑、白、黒、紫を基調としたグラデーションに富んだ作品であったのだ。主な画材がクレヨンだったため、ごり押し感はあるが一生懸命描ききった印象はある。朱筆で花丸を頂いているところを見る限り、先生方の評価も良かったのだろう。
そのまま他の絵を何とはなしに見ていくと、ふと妙な絵が目に入った。
青系の色のみで描かれた絵だ。用紙の半分以上を占める海原部分はセルリアンブルー一色。画用紙の白い点すら見えず、徹底的に塗りつぶされている。その上の部分には雲と思しき丸みを帯びた不定形の絵が数点、色はコバルトブルーだろうか。そしておそらく空と思われる残った部分はウルトラマリン。これまた強烈な色彩で、わずかな白さえ憎み切っているように思えるほど鬼気迫る勢いで塗りつぶされている。浜辺から見た夜の絵を描いているのか、それても深海の絵を描いているのか、はたまた常人には理解もできないようなものを描いているのかわからない。
そしてその下の名前欄にはイヴアナ・カーン・ロビンソンとカタカナで書かれてある。どうやら外国人らしい。幼い女の子にしては非常にきれいな筆跡である。どういう経緯でここの保育園にいるのかさっぱりだが、果たしてこんな人間いただろうか。あやふやな記憶を手繰ってはみるものの、明確なことは思い出せない。
「おい仁、お前もやるか、これ」
神妙な顔で絵を眺めていたら、隣の方から声をかけられた。首を向けると少年二人がボードゲーム――人生ゲームか――をやっていた。幼児のくせにやたらリアルなゲームをしているのだなと思いつつ、私は丁重に断ることにした。子供とゲームをやりたい気分ではない。
「ごめん。僕苦手だから」
「そっか。やりたくなったら言えよな」
短いやり取りの後、少年二人はボードゲームを始めてはしゃぎ出した。そういえば小さい頃は自分のことを僕と言っていたな。いつから『俺』とか『私』になったのだろう。日本語は面倒くさい。英語なら『アイ』で事足りるというのに。
手持無沙汰になった私はふらりと立ち上がり、教室内をうろうろし始めた。懐かしい景色だ。何もかも懐かしい。
それにしても小さい頃の視点とはかくも低いものだったのか。ありとあらゆるものが大きく見える。今では大したことが無いちょっとした小物でもまるで巨人の道具のように思えてくる。幼い頃というのは、きっと無意識のうちに世界の巨大さを感じているのだろう。そして知識がないため世を理解するには己の想像に頼るしかない。しかし考える方法が想像するくらいしかない幼児は、想像に想像をどんどん重ねていく。それによってさらに想像力は掻き立てられ、夢想の日々はとどまることを知らない。きっとそれが小さい子供の最大にして唯一の強みなのだ。子供の視点、子供心を大切に、と聞くがその通りだ。
子供心のまま大人になれというわけではないが、そういった視点を失うことは偏向思考の第一歩につながる。そして成長してしまえば否が応にも知識が入ってくるし、体が大きくなればその分世界は小さく見える。大きくなった分、今まで見えていた部分が陰になり意識することが無くなり、成長することによって小さな頃夢想していたことが少しずつ打ち砕かれ、現実を直視させられる。所詮こんなものだ、と。結局は大したことはない。ちょっとした知識があれば容易く解明できることなのだ、と。
そうやって多くの想像を現実に破壊されてしまうことによって夢を失うのだろう。自分もその一人だ。この世界で何をやっても無駄。ただただ、世の中を回すために自分を浪費していくだけの毎日。人形劇で踊らされているからくり人形と一緒なのだと。
我ながら寂しい考え方だとは思う。だが限りなく事実である以上、それに目を瞑ることはできない。逃げることは嫌いだ。
そんなことを考えていると、視界の片隅にうごめく何かが見えた。紅葉のような赤茶色の髪、白い肌。女の子のようである。
彼女は絵本を読んでいるようだった。うずくまり、本で顔を隠すように、ひっそりと教室の隅にいる。
――知らず、近づいていた。
「何してるの?」
私の問いに彼女はびくっと肩を震わせ、おずおずと本の隙間から顔を出してきた。美しい垂れ目がちの大きな青い瞳が私の顔を捉える。
外国人だ。きっと先ほどのイヴアナとかいう女の子だろう。
「……」
彼女は何も答えない。いや、もしかして答えられないのか?日本語が話せないのではないか。だが入園時にそのへんのチェックはするだろうし、むむむ、どうなんだろうか。
「本、読んでる……」
あれこれ考えていると、か細い声で彼女が答えてきた。答えるなり顔を隠してしまい、身体を小さく縮める。恥ずかしいというよりおびえている様子だ。何が彼女をそうさせるのか……。
「おーい、仁。あんまりそいつに話しかけない方がいいぞ」
後ろから先ほどの少年の声が聞こえてきた。
「そうそう、そいつこっちに来てからずっとそんな感じだもん。話しかけてもうじうじして面白くないし、ほっとけよー」
「そんな奴ほっといてこっちきて遊ぼうぜ、仁」
「あ、ああ、うん」
微妙な空気に思わずたじろぐ。こっちにきてから、ということはどこかから転入してきたのだろう。そしてそれからいくらかの時間が経っている。きっと教室の連中に馴染めないうちに、彼らから愛想を尽かされてしまったせいで孤立してしまっているのだ。
「悠太くん、明くん、お母さんたちが来たわよー」
先生の声にはーい、と声を揃えて少年たちは返事をして立ち上がった。
「じゃあなー仁。また明日遊ぼうな」
私は彼らに手を振りながら、去っていく様子を見守った。後に残ったのは私と、彼らが残したボードゲームと、外国人の少女だけ。
自分が幼い頃、果たしてこんな状況になったことがあっただろうか。思い出せない。こんな特殊な状況だったらそう簡単に忘れられないと思うのだが。
いやしかしこれは夢だ。きっと幼い頃の記憶と別の記憶が色々とごちゃ混ぜにされて、オリジナルのシーンを見せられているのだろう。そうじゃなければ理解できない。
嘆息をつきながら再び椅子に腰を掛ける。そして天井を見上げた。何時になったら覚めるのだろうか、この妙な夢は。
――と、思った刹那、
ばきぃいいいい!
天井を突き破って巨大な何かが落ちてきた。
黒い――いや灰色だ。毛だ。大変もふもふしている。
そして、でかい。おいおいでかいぞ!なんだあれは猫か!?いやそんなことよりまずい!押しつぶされる!ああだめだ畜生!間に合わない間に合わない間に合わな――…………。
「――むぐ。」
顔の上に何かが乗っている。毛皮っぽい肌触りだがしっとりとしてどこか気持ちがいい。
その顔に乗っているものは暴れたりせず、さながら仮面の如く私の顔に覆いかぶさっているだけだ。そして生き物なのだろう、優しい温度と鼓動が顔面から感じる。なんにせよ、非常に呼吸がし辛い。
私は身じろぎしながらゆっくりと起き上がった。起き上がると同時に顔面のもふもふが離れる。
頭を振りながらゆっくりと目を開けると、灰色の猫の首根っこを掴んだ巴が立っていた。相変わらずの不機嫌そうな顔である。
「ようやくお目覚め?そろそろ買い物に出かけたら?」
「んん、ああ、今何時?」
「十七時四十五分」
「なにっ、もう十八時か。すまん眠りすぎた。すぐに出る」
「まぁあんたが買い物に行こうが行くまいがあたしには関係ないけどね。ただ、ミランが帰ってきて晩御飯の準備が何もできてなかったらきっと怒るでしょうね」
「悪かったよ。このベッド、寝心地が良かったからつい……」
「変態発言はそこまでにしておきなさい」
モラを床に降ろしながら巴が怖い声で言った。そういえばこのベッドは巴が使っていたのだった。これは失言である。
「じゃああたしは家に帰るから。ちなみに楓はもう帰ったわ」
「分かった。ごめんな。遅くまで残らせて」
「別にいいわ。慣れてるし」
それじゃあね、と言い残し、巴は部屋から出て行った。まだ頭がはっきりしていない中、私はしばらく巴が去ったドアを見つめていた。
「にゃお」
お座りしているモラが私に話?かけてきてふと我に返った。ああ、そうだ。買い物へ行かなければ。
私は一度あくびをして眠気の残滓を飲み込んだ。
大きな窓から見える景色は黄昏時。夜の気配がゆっくりと近づいてきている。黒い時間の到来を予感させる冷たい空気が満ち始めていた。