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第十五話  休息2

「到着だ。ここが今日からボウヤの会社であり家でありホームであり住処であり拠点だ」

 上野駅を降りて歩いて二十分くらい経った頃、ミランはある建物の前で足を止めた。私は思わず目の前に立つ建物を見上げる。  

 ぱっと見は普通の三階建てのテナントビルだ。灰色で少しくすんだ外壁は大阪の事務所とよく似ている。両脇には小さい個人商店の店と民家があり正面は道路。どこにでもある道沿いの建物といった出で立ちである。

「一階が事務所で二階から上が住居スペースとして使用している。まぁ入りたまえ」

 ミランに促されて中へと入る。

 ――ツンとした紙の匂い。ほの暗い景色の中、書物と埃にまみれたようなにおいが鼻についた。

「案の定酷いわね。窓開けましょ、窓。マスクでもしなけりゃやってられないわ」

 巴が口を手で押さえながら言った。確かに埃がひどい。雪のように積もっているわけではないが、古い倉庫の中に入ったような居心地の悪さを感じる。

「ここ最近忙しくてこっちへ戻れなかったからな。仕方がないさ」

 言いつつミランはぱちりと電気を点ける。ジジ、と不快な通電音がした後、天井から明りが灯り、周囲の風景が映し出された。

 ここは建物自体の幅が狭いため、奥行のある間取りになっているようだった。ミランが使用していると思われる大きなデスク、中央には打合せ用のソファとテーブル。案の定埃まみれで、手ですくうとすぐに玉ができてしまう。壁際には本棚と無数の本。む、何だあれは。漫画が置いてある。本の種類はかなり乱雑で、漫画から雑誌、実用書から医学書まで多岐に渡っている。一体どんな趣味をしているのだろう。

 建物の奥へ向かうと簡易的なキッチンと冷蔵庫があった。食器棚やテーブルも用意されており、さながらスタッフ控室といったところか。

「思っていたより酷いがさっそく掃除だ。ボウヤとモラは一階。巴と楓は2階。三階は私が行う。私は途中で出かけるが、掃除はしっかりしておけよ」

 ミランは一通り指示をするととたとたと階段を上がっていった。

「じゃ、あたしらも始めるか。行こう楓」

「分かりました」

 続いて巴と楓も上へ向かい、とうとう一階には私とモラだけが残された。

 傍らのモラは私の顔を見上げている。くりっとした緑目は相変わらずのポーカーフェイスだ。指示を出せ、ということなのだろう。

「モラ、掃除道具はどこ?」

 私が尋ねると、彼女は階段脇のクローゼットを開け、そこから箒と塵取りを取り出した。どうやらそこが掃除用具入れになっているらしい。

「よし、じゃあ俺たちも始めるか」

 私は埃くさい空気で一度深呼吸すると、モラに掃除開始を告げた。彼女は頷くと、私に箒を渡した。


◆ ◆ ◆ ◆ 


「――まぁこんなものだろう」

 掃除を始めて三十分程経った頃、ミランが事務所を出て行った。ダメもとで要件を尋ねてみたが『答えられん』と一蹴されただけだった。

それから一時間後。

 埃くさく、何処の古い大図書館のようだった一階は洗い立てのコットンシャツのような清潔さを取り戻した。もう部屋の明るさが全然違う。埃は見当たらず、空気も清浄。我ながら素晴らしい掃除さばきだと感心する。

 モラの動きも良かった。背が低いので高いところが苦手なようだったが、仕事ぶりは大変丁寧で素早く、なおかつこちらの指示通りに動いてくれる。文字通り私の手となり足となっていたのだ。有能な部下を持つ上司の気持ちが少し分かった様な気がする。

 そんなモラは現在掃除道具をせっせと片付けている。甲斐甲斐しくバケツを両手で持つ姿が微笑ましい。

「片付けたら少し休もう」

 そうモラに声をかけると、私はキッチンへ向かった。

 フロアキャビネットからヤカンを取り出して水を注ぎ、ガスコンロの火を点ける。掃除の最中、キッチン周りを物色して現在保管してある道具や食材を調べたのだが、どうやらここに住む人間はあまり料理をしないらしい。フライパンや鍋、包丁など必要最低限の物はあるがほとんど使用感は無く、唯一ヤカンの底面がだけが黒く煤けているだけだった。おそらくインスタントやコンビニ商品ばかり食べているのだろう。もしくは外食ばかりしているか。まぁその人の生活の仕方だから他人がとやかく言う話ではないか。

 ヤカンの具合を眺めていると、掃除道具を片付け終えたモラがひょこっと現れた。緑の視線が再び私に注がれる。

「今コーヒーを淹れるからな。待ってろ。ちゃんと手を洗っとけよ」

 モラは私の言葉に頷くと洗面所へ向かった。程なくして水を流す音が聞こえてきた。

 まったく、モラの行動は幼い妹のようでなかなかに可愛げがある。まさか正体は使い魔で猫で不死身だなんて誰も思わないだろう。正直今でも信じがたい。

 そしてぐつぐつとヤカンの中身が活発になってきた頃、階段を降りてくる足音とけだるそうな声が響いてきた。

「だぁああああ。しんど。しんどいわ。ジン、コーヒーちょうだいよー」

 さながら暑さにうだって下敷きをうちわ代わりにしている女子高生のようである。巴らしいと言えばそうだが、だらしのない女と言わざるを得ない。

「お、すごいキレイになってる。やるわねジン。家庭的な男はきっとモテるわよ」

 そしてキッチンに登場するなりうわ言を述べる巴。そうかい、と彼女の言葉を流しながら私は棚の引き出しを開けてインスタントコーヒーとミルクを四つ取り出した。

「どうよここの感想は?大阪とは全然違うでしょ」

 手近な椅子に腰かけながら巴が言った。

「そうだな。体裁自体は確かに事務所然という趣だな。だが何の事務所なんだかさっぱり分からん。看板も出てないし、何屋なんだよここ」

「知る人ぞ知る何でも屋ってところね。周囲の人に相談できないこととか世間体を気にする話題とかを陰で処理する店。ジンだってあるでしょ?好きな子の下着が欲しいけど自分で手に入れようとするのは怖いから誰かにやってもらおう、とか」

「あるわけ無いだろバカタレ」

「冗談よ。むしろあったら殴ってたわ。そのうちミランから説明あると思うけど、端的に言えばアンダーグラウンドなネタを商売にしているわけよ。というかこっち側の住民の本業は大なり小なり皆そうね。副業で表側で仕事をしている連中もいるみたいだけどね」

 ――アンダーグラウンド。

 比較的耳に慣れた言葉ではあるが、その中には身の毛もよだつ様なこともきっと含まれているはずだ。巴と楓が握っていた銃を思い出し、少し暗澹たる気分になる。

「まぁジンならすぐ馴染むでしょ。何だかんだ言ってあんた順応力あるし」

 巴はそういって欠伸を一つするとテーブルに突っ伏した。長い赤茶の髪がさぁっと広がる。蕩けてしまった赤いスライムとに見えなくもない。

「お疲れ様です」

 忍者の如く気配もなく現れたのは楓だ。彼女は私の後ろをすっと横切ると、小姑のように埃がたまりそうな戸棚の狭い部分を指でなぞる。一瞬険しい表情をしたが、その結果に満足にしたのかうんうんと頷いた。

「随分と綺麗になりましたね」

「掃除自体は嫌いだが、やるとなったら徹底的にやるからな」

「そうなのですね。頼もしい言葉です。その調子で今後の仕事にも精を出してください」

「……ああ」

 仕事、と聞いてふと脳裏をよぎったのはトーワエンジニアリングの記憶だ。

 入社したてにお世話になった本社の人たち。大阪で共に過ごした課長、先輩たち。そして一週間足らずで別れることになった神戸の人たち。そして現場で世話になった大工や工務店、色々な業者の人たち。そして鶴製麺の親子。あっという間だった。私の鈍色の社会人生活は一年も経たずに幕を閉じた。

 そんな中、自分のミスを助けてくれた人たちに恩を返すことができないことが、正直悔しかった。借りた恩を返すのは人として当然だ。義理人情を忘れた人間は、悪魔以外の何物でもない。

今後、何らかの形で借りを返せたらいいが果たしてそんな時が来るのだろうか。何を恩返しすることができるか見当もつかないし、今私を悩ませている事柄の一つである。

「ご主人、手を洗ってきました」

 傍にやってきたのはモラだ。彼女も自分のように悩むことがあるのだろうか。その無表情さは表面上だけのものなのか、それとも本心を隠すための仮面なのか。思わずそんなことを思ってしまった。

「座っていろ。それとご主人なんて呼ぶな恥ずかしい。名前で呼んでくれ」

「しかし」

「いいから。人前でそんな呼ばれ方をされたら周りに何を思われるかわかったもんじゃない。仁でいいよ」

「ジン」

 ジン、ジン、と噛みしめるように私の名を復唱しながらモラは椅子に座った。そう何度も言うな。恥ずかしい。

「ジン、今日の晩御飯は何にするつもり?」

 テーブルに突っ伏したまま、首だけこちらを向けて巴が言った。私はカップに湯を注ぎながら答える。

「めんどくさいから焼き飯と味噌汁でも作ろうかと思ってるよ。今日は一先ず米と野菜類、あと日持ちのしそうな物を買う予定だ。車が無いから一度に具材を購入できないからな」

「そうね。あたしの車もこっちに来るのはもう少し後だし。ちなみにジン、晩御飯はあたしと楓の分は要らないからね」

「どういうことだ?お前たちは外で食うのか?」

「自分の飯くらい自分家で作って食べるわよ。こっちの家の掃除もしたいしね」

「そうか、二人はこことは別に家があるんだな」

「ええ。だけどジンはここで暮らすことになるでしょうね。あんた一人じゃいろいろと危ないし」

「認めたくないがそうだな。普通に一人暮らしするなら何ともないが、状況が状況だからな」

「ええ。だからモラに変なことするんじゃないわよ」

「おまえしつこいぞ」

「うるさいわね。いい加減コーヒーちょうだいよ」

 私は鼻でため息をつくと、盆にコーヒーを乗せて三人が座るテーブルへ運んだ。

 起き上がった巴は私が差出した湯気が立つコーヒーを早速手に取ると一口つける。

「やっぱ仕事終わりはあっついコーヒーよね。文字通りほっとするわね」

「さむいぞ」

「場を和まそうとしただけなのにいちいち突っ込まないでくれる?」

 四人……いや三人と一匹で進む一服は極めて穏やかだった。皆長旅で疲れた上に、事務所へ戻った途端大掃除をしたのだ。くたびれて当然と言えば当然だった。

「ところでミランはどこへ行ったのかしら」

 巴がぽつりと呟いた。ちびりちびりとコーヒーに口をつけていた楓が口を開く。

「本部へ連絡に行っているのかもしれませんね」

「ジンを確保したことを?」

「ええ」

「まぁ、ありうる話ね」

 本部とはなんだ。という当然の疑問が湧いて出たが、口には出なかった。先ほど巴が言ったようにどうせミランから説明があるだろう。

 そんなことより疲れた。自分で思っている以上に疲労が溜まっているようでやけに体が重い。無意識のうちに気張りすぎて精神的に参っているのかもしれない。ふぁーあ、と思わずあくびをこぼしてしまう。

 その様子を目ざとく見ていた巴がふふ、と小さく笑った。珍しく優しげな笑顔だ。巴のそういう顔は大変に美しいと思う。普段から今のような風に過ごしてくれればいいのだが。

「大きなあくびね。夕方まで少し眠ったら?適度な午睡は身体に良いわよ」

「ああ、そうだな。ひと眠りさせてもらおうかな」

「でしたら上でお休みください。案内します。ついでに白綱さんの部屋を軽く説明しましょう」

「そうか。すまん」

私はコーヒーを一気に飲み干すと、立ち上がった楓に促されて二階へと向かった。狭い階段をとつとつと上がっていくと、一本の長い廊下に出る。廊下の左右には互い違いに部屋が三つ並んでおり、一番奥に4つ目の部屋があった。

「白綱さんは一番奥の部屋です。ほかの部屋は客人用だったり、倉庫だったり、その時々において用途が決まります」

 楓の説明を受けながら、自分の部屋だという一番奥へと向かう。

 そして木製の合板に鉄のドアノブというありふれた扉を開くと、フローリングの八畳間が出現した。

 部屋の奥には小さなベランダが見える大窓がある。隣家の二階の窓と向かい合わせなのが少々気まずいが、日当たりもよく過ごしやすそう印象を受けた。

 部屋の隅には折りたたみ式でできた四つ足のテーブル、座椅子、簡素なベッドがある。単純な寝泊りをするにあたって不便はなさそうだった。

「四つある部屋の中で一番大きな採光が望める部屋です。良かったですね」

「助かるよ」

「ちなみにそのベッドは巴が使っていた物です」

「……いや、別に聞いてないけど」

「念のためです」

 何が念のためなのかさっぱり分からない。あとで巴に感謝でもしておけとでも言いたいのだろうか。

 ともあれ楓の言うように午後の日差しが良く入って大変気持ちがいい部屋だ。日向ぼっこしながら昼寝を取るには持って来いの部屋である。

「では、ごゆっくりどうぞ」

 楓は無機質な言葉を残すとさっさと部屋を出て行った。一人残された私はぐるりと部屋を見回した後、ベッドに横になった。固めのマットがぎしりと軋む。それと同時に少し埃っぽい古い臭いがした。

「……巴の匂いか」

 古臭さとは別に、お香のような臭いが鼻に入ってきた。巴からよくする匂いというか香り。改めて彼女が使用していたということを実感し、恥ずかしさと気まずさが体の内から湧いてくる。楓に言わなければきっと気づかなかっただろうに、余計なことを。何が念のためだ。

 図らずも浮かび上がった煩雑な感情を唾棄するように目を閉じると、視界の向こうは暗闇で覆われる。そして疲労は重石となり、私の体に圧し掛かって睡魔が待つ暗い深淵へと瞬く間に沈めていくのだった。


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