第十三話 黄金からの目覚め
今回で物語前半終了です。
楓と肩を並べて人気の少ない寂れた道を歩いていると、向こうの方に巴の姿を見かけた。この灰色の風景の中で彼女の鮮やかな姿はとても目立つ。その存在感――個の重さとでも言うのか――に私はほんの少し嫉妬を感じ、嫌な気分になった。
「散歩でもしてたの?」
赤茶の髪を振りながらこちらへ来た巴は、首を傾げて私の顔を覗いてきた。端正な顔だ。思わず私は彼女から視線をそらし、そして小さく「いや、別に」と呟いた。
「ふーん。そう」
巴はあっさり離れると続いて私の隣に並んだ。彼女は何を考えていたのか。そんな小さな事を考えることすら億劫になる。
そして二人に挟まれて私はミランの待つ事務所へと向かう。きっと断頭台へ連行される者の気持ちとはこういう気分なのだろう、と私は思った。
「……」
それにしても先ほどからやたらと巴からの視線を感じる。ちらりと横目で巴の方を見ると、タイミングの悪いことに目が合ってしまった。彼女の上目遣いと白重幽菜の上目遣いが重なり、思わず頭を振る。
白重幽菜には悪いことをした。せっかく私みたいな人間に約束をしてくれたのに、私はあっさりと反故にしたのだ。つくづく私の女運は悪いと思う。その点に関しては本当に残念だった。しかし、
「……」
本当のところ、どうなのだろうか。この奇想天外な事態は果たして『真実』なのか。
巴と楓を横目で見るが、彼女らは前を向いて歩いているだけ。二人の横顔からは何を考えているのか予想がつかない。
私は鼻でため息をつくと、今一度白重幽菜の出現とその目的に関して考え始めた。
まず、白重幽菜の一般的な印象とはどういうものか考える。
容姿端麗で賢く、そして礼儀正しい。世の中にそうたくさんいないだろうと思われる才女。少なくとも表向きは、大多数の人間が彼女に対してそのような人間像を抱いているだろう。かくいう私もそう思う。
そしてそんな優れた人間との、神様のいたずらとでも言える奇妙な出会い。そしてなぜだか意気投合し、そこから派生する現実感の薄いフィクションじみた展開が続く。単純に世の男子として考えれば、願ってもいないような春が来た!と万歳したくなるような喜ばしき事態だろう。
だがもともと疑り深い性格の私にとってやはり腑に落ちない点が多すぎる。身も蓋もない言葉でいえば『胡散臭い』のだ。一時は私のこころをかなりの割合で彼女が占拠していたが、悪徳商法のようなイメージがこころの隅の隅辺りで根の深いカビのようにずっと居座り続けていたのだ。漠然とではあるが、彼女はクロだ、と。
それらを踏まえ、ミラン達が言う妄想地味たことが真実だと仮定しよう。その場合、白重幽菜とは私の命を狙ってくる刺客となる。なるほどそちらの方が私個人の意見としては合点がいく。しかしその話には証拠が無いため信じられない。決定的な証拠。すなわち彼女がどこから送られてきた刺客でなぜ私を狙うのかということを完全に裏付ける証拠が必要だ。もしくはミラン達の誇大妄想を現実と裏付ける証拠でもいい。いずれにせよ私を頷かせるような真実が必要だ。
「あー、そういえば」
黙って考えていると唐突に巴が口を開いた。完全に思考モードに入っていた私はなんだよ、と不機嫌な声で返事をした。
「仁の荷物、東京の事務所に送ったんだけど、引越し屋の梱包が少し雑だったから中身壊れてたらごめん」
……はい?
「特に食器はヤバイかなー。あと機械関係も。でも楽器類はこのあたしが直々に厳重に養生しておいたから大丈夫よ。持つべきものは友で良かったわね」
「いやおい何言ってるんだよお前は」
思わず足が止まってしまう。荷物を東京の事務所へ送っただと?一体どういうつもりだ。驚愕の発言に私の思考は雲散霧消した。
「だから荷物を向こうの事務所に送ったのよ。そもそもあたしたちの拠点は東京にあるのよ?当然のことをしたまでじゃないの」
「いや、だが俺は……」
言いかけて言葉が詰まる。
それは楓の視線があったからか?
それとも巴の発言に対し私自身の覚悟には戸惑いがあったからか?
――、――。
「ん?言いたいことがあるなら言いなさいよ。これからあんたはあたしの部下になるんだから相談に乗るわよ」
「……はい?」
私の頓狂な返事に巴は苛ついたように腕を組む。そしてやたらと無い胸を張って偉そうに仁王立ちする。
「何度も言わせないでよ。あんたはあたしの部下になるのよ。あたしの手となり足となり……。ええ、しっかり働いてもらうわ。言っとくけど同い年だからって調子に乗るんじゃないわよ。こっちの方が裏社会では先輩なんだから。いいわね?分かったら返事」
「いや巴。ちょっと待ってくれ」
「返事!」
「はい。だからちょっと待ってくれ」
「まったくもう、何?あんたもう俗世間から足を洗ってミランの傘下に加わったんでしょ?だったらそうなるのが森羅万象の摂理ってェもんでしょう」
「トモエ」
割って入ったのは他でもない、楓である。彼女は巴をまっすぐに見据えると、小さく首を横に振った。その動作に巴はすべてを理解したのか、「ああ、そういうことなの」と寂しそうな声で呟く。そして蔑むような目を私に投げかけてきた。私は巴の視線から逃げるように――傍からでもそう見えただろう――再び歩き出す。一呼吸おいて後ろの方から足音が聞こえ始める。
「あんたも意外と意気地がないのね。化け物のくせにさ」
そんな言葉が私の背中にぶつけられた。私は変わらず歩き続ける。
「そんなに怖いわけ?世間を捨てるのが。別に死ぬわけじゃないじゃん。むしろあんたのいう『普通』に生きた方がよっぽど死んでるんじゃない?魂的な意味でさ」
巴の言葉が言い得て妙だと思ってしまう自分が憎らしい。
――そう、そうなのだ。もう自分でも分かっているはずだ。
それしかない。それ以外ない。その方が楽。その方が馴染む。具体的な言葉に起こせる理由がなくとも、これまで生きて積まれてきた経験が無意識や感覚として心身ともに染み付いているのだ。だから、本当のところはもうそれでいいと覚悟できている。
――のだが、なぜか踏み出せない。その理由はなんだ?
楓の言葉が蘇る。常識、という言葉。私はそれに縛られているという。社会という茨の網にがっちり囚われているという。
それは例えばこんなものだ。生きるための金、世間体、暗黙の全体主義、情報操作等々。数え上げればきりがない。そして何よりも、
出る杭は打たれる事に対する恐怖だ。
その恐怖こそが社会の本質。日本という国において、統制をとるための強大な首輪だ。
つまりそう、私は国に飼われているのだ。飼われ続けている間、ある程度の様々な保険が手に入る。安心感が得られる。私はこの二十二年間、反吐が出ると感じているその社会構造に完全に依存しているのだ。
しかし今の自分は、いつの間にか取り付けられていたその首輪が実は必要以上に首に食い込んでいることに気づいてしまった。……いや語弊がある。もともとサイズが合っていないのだ。だから苦しい。何時までたっても馴染まない。この国規定の首輪は私にとって小さすぎるのだ。
だから楓やミランは『常識』を捨てろと言うのだ。常識の茨、社会の首輪にとらわれるということは、その社会自体を回転させるために必要な事柄――ぱっと見はそうではなくても――しか発想出来なくなる恐れがある。一種の思想統制とも言えるだろう。それはもはや本当の意味での個人という存在をうやむやにし、隠してしまうことになる。人によっては社会に馴染むことこそが存在意義だという人もいるだろうが、少なくとも私はそうではないようだった。
故に楓は『常識』にとらわれず自分自身を見つめろと言ったのだ。何の制約もない、自由な精神の探究へと。
気が付くと事務所の前に到着していた。ミランにどう顔を合わせるものだろう。少し気まずい。
「ほら、入るわよ。突っ立っていたら邪魔でしょ」
巴は一瞥をくれると不機嫌そうな顔で中へと入っていく。その後ろを楓が続く。
「……」
足がなかなか動かない。事務所前の少しひらけた場所に立ちすくむ私の足は、臆病風に吹かれて金縛りにあったようだった。
……いや、何か違う。奇妙だ。おかしい。
――。
何かを喋ろうと口を動かそうとしたが、驚いたことにぴくりともしなかった。何度同じことをしても結果は変わらず、他の部位を動かそうとしてもびくともしない。どれほど力んでも全く動かない状態は、まるで見えないコンクリートに体を固められているようだった。
体が、本当に動かない。
その事実をはっきりと理解した瞬間、急激に焦りが溢れ出した。なぜこうなる。どうして動かない。まったく心当たりがないので余計に困惑し、こめかみ辺りから汗がじんわりと湧いた。
例え様のない恐怖を感じる。危険を感じる。明らかに異常事態だ。金縛りなんてあったことないが、こんなタイミングで発生するなんて聞いたことが無い。
(助けてくれ!)
声にならない叫びは誰にも届くことなく、自分自身の体の中で反響するだけ。体という殻に閉じ込められた意識だけが暴れまわっており、あぶら汗ばかりが流れていく。
「ようやく見つけましたよ。約束を破るなんて、冷たい人」
唐突に後方から声をかけられた。驚いて飛び上がる代わりに心臓が激しく脈動した。
距離はあったが聞き覚えのある声だ。澄み切った川のように聞こえやすく、穏やかな声質。だが、先ほどの声音は氷のように冷たく、刃物のように刺々しい気配を感じた。
「私、悲しいです。せっかくのセッションを反故にされてしまって。ピアノの鍵盤が泣いてしまいます」
声は次第に近づいてくる。やばい。とにかくやばい。
後ろを振り返れないのに背後から近づいてくる気配、そして金縛りというあり得ない身体異常から生まれる恐怖は尋常ではない。お化け屋敷の百倍は怖い。いやそんなことよりまずい。このままだと、あまり考えたくはないが、その、
……殺されるんじゃないだろうか、俺。
ガラァ、――どさッっ。
死の恐怖を認識した瞬間、頭上の方から窓を開く音がした。そして次の瞬間何者かが目の前に落ちてきた。意外なことに着地はしっかりできていたようで、そのまま地面からすっくと立ち上がる。
上から落ちてきたのは女だった。またしても見覚えのない女だ。しかも十五、六くらいの少女。彼女は体がすっぽり収まるような紺一色の丈の長い外套を羽織り、その姿はさながらファンタジーに出てくる魔法使いだ。北欧で見かけるような彫の深い美しい顔立ちで、幼さはまだ残っているが将来は相当な美人になるだろうと思われる。どこか憂鬱そうで伏せ目がちな大きな両眼は美しい翡翠色で、色白の肌と腰辺りまで届く白金のような薄い金髪によく映えており、その姿は絵画に秘められる芸術性を感じさせられた。
正直、私は彼女に見惚れた。今だかつてこんな美人に会ったことが無い。ミランも相当美人ではあるが、それとは系統の違う美しさだ。よくテレビや雑誌で異国の美人を目の当たりにするが、目の前で見るのと間接的に見ることの差を痛感させられた。例えていうなら観光地だ。圧倒的な自然美を誇る観光地をテレビで見るのと、実際に現地に行った場合との違い。私はかなりの衝撃を受けた。
「おや、あなたはあの時の」
美少女の姿に釘付けにされていた私は、再び背後から上がった恐怖の声にはっとした。
白重幽菜。もはや確定していた。ミラン達はやはり真実を語っていたのだ。私は己の愚かさに苦虫を噛み潰したような顔をしたかったが金縛りでできなかった。
緑目の美少女は立ち上がるなり私の傍へ駆け寄ってきた。頭一つ分背の低い彼女に近づかれて柄にもなくどぎまぎしてしまう。何かの香水だろうか、彼女からは花のような優しげなにおいがした。
彼女は凍りついた私の両腕を小さな細い手で握ると、何かを念じるように目を閉じた。すると不思議なことに、彼女に握られているところから体が溶けていくような感覚が生また。それらは次第に全身に広がっていく。止血していた部分を開放して血液が流れていくような感覚だった。
そしてあっという間に金縛りの違和感は消失した。急に動くようになった体は、まるで百年の眠りから覚めたように弱弱しく、思わず転げそうになったところを目の前の少女に支えられた。
「まさか私の術を解くとは。意外と器用なんですね、あなた」
ようやく後ろを振り返ると、案の定、数十メートル先に白重幽菜が腕を組んで立っていた。馴染の長い黒髪のポニーテールは風になびき、白いブラウスと黒いロングスカートというモノトーンで決めた清廉な美しさを見せつけながら、彼女は私の顔を見るとにやりと笑った。私はそんな彼女を睨み付けると、「何のつもりだ」とどうでもよさそうな質問をした。
「もう知っているのでしょう?だから白綱さんはここにいる。まったく、やっぱりこうなってしまいましたね。そこの野良猫を殺した時に、白綱さんを待ち伏せした方が良かったわ。しかし不思議ね。なぜ生きているのかしら。量産型のホムンクルスなのかしら」
白重幽菜の言葉はもはや人外じみており、私の知る『優等生のできる女』像とはかけ離れていた。目の前にいる白重幽菜であった人物は、ミランから聞かされた私の命を狙う刺客に変貌していた。
「……ん、野良猫って、お前モラなのか」
白重幽菜の発言からふと発覚した事実に驚いた。傍らに立つ少女は私の問いに無言でうなずくと、「私の名は、モラ」と小さな声で呟いた。なんで猫が人間の姿をしている。もうわけがわからなかった。疑問が頭の中に溢れては消えて溢れては消える。後でミランに質問攻めしなければならない。
「私は、あなたを護る」
モラは自分に言い聞かせるようにそういうと私の前に立ち両手を広げた。どういうつもりなのか、何を考えているのかわからない。
「愚かですね。あなたじゃあ役不足なのは身を持って知っているでしょうに」
白重幽菜はそう言うとこちらへ向かって歩き出した。右手がやたらと光っている。懐中電灯を持っているわけでもないのに輝いている。なんなのだ、あれは。危険な感じがするが……。
「そこまでにしてもらおうか」
突如存在感のある声が再び頭上から響いた。白重幽菜は声の方を向くと顔をしかめる。ミランだ。顔をしかめるということは、白重幽菜はミランのことを知っていたということか。
「うちの使い魔や部下をいたぶるつもりなら、命が無いと思え。これは警告だ。貴様のような下っ端が我々に手を出すな」
「結社のはみ出し者がよく言いますね。それと以前までの私と思っているのでしたら、痛い目を見るのはそちらの方ですよ」
言って白重幽菜は自分で自分の体を抱きしめる。そして苦しむように少し体をかがめた瞬間、彼女の背中から灰色の巨大な翼が生えた。
「濁翼!?」
ミランが驚愕の声を上げる。いつもの余裕で満ちた様子とは明らかにミランの違う声色と、白重幽菜のあまりの変わりっぷりに度肝を抜かれて腰を抜かしそうだった。
「ボウヤ、逃げろ!」
「無駄ですよ!」
ミランが言い切る前に、巨大な翼をはためかせて白重幽菜が突撃してきた。すさまじい速度。フルスロットルで急発進したバイクのように、風を貫きながら一気にその姿が近づいてくる。彼女の右手の光は真っ赤に変わり、鬼火のように揺らめいている。なんというかまずい。逃げなければ、逃げなければ!
しかし冷静な頭とは裏腹に体はぎこちなく、強張ってまともに動かない。
間に合わない。白重幽菜が来る。いや待てその前にモラがいる。こんな小さくて華奢な体がどうやってあの攻撃から俺を護るのだ。モラを逃がさなければ。モラが殺されてしまう。助けなければ。助けなければ!
「――!」
私はモラの華奢な体を後ろから掴むと、そのまま横へ突き飛ばした。その刹那、両目を見開いたモラの驚き顔が流れて見えた。美人だ。可愛げもある。危機的状況にまったく関係ないことを思い浮かべた頃には、白重幽菜の狂気に歪んだ恐ろしい顔と炎のように赤い右手が目と鼻の先に迫っていた。
終了。そんな言葉が思い浮かんだ瞬間、
バキィいぃぃ!
見えない壁に、白重幽菜は火花を散らされながら弾かれた。
即座に訪れる困惑の空気。白重幽菜さえ驚きの顔を隠せていない。シャボン玉の膜のように、虹色のベールのような輝きを持つ壁がいつの間にか事務所全体を包んでいた。指でつつけば簡単に消えてしまいそうな見た目だが、白重幽菜の突撃を傷一つなく弾き飛ばすということはかなりの強度を持っているのだろう。
「ジェリコの壁……!誰がこんな結界を」
いつの間にか隣にやってきたミランが呟いた。モラのように上から飛び降りたのだろうか。三階から降りてよく無事なものだ。一体どういう肉体をしているのだ。こいつらは。
「小賢しい真似を……」
憤怒の形相で立ち上がった白重幽菜は、悔しそうにシャボン色の壁を睨み付けた。彼女の獣じみた変貌ぶりに私は改めて恐怖を感じ始めていた。
「ご覧のとおり、おたくらには効果抜群の防御壁だ。破壊したければ聖櫃でも持ってくるんだな」
勝ち誇ったようにミランは言った。しかし言葉の内容は理解不能である。
「……ふう。また来ます。今日は少し分が悪いようですから」
しばし沈黙した後、白重幽菜は先ほどまでの落ち着きを取り戻したようだった。灰色の翼は段々と小さくなり、ほどなくして消えた。目の前の壁といい、マジックショーでも見ているようだ。
「賢明だ。そして二度と我々の前に現れないでくれ。おたくらと違い、無益な殺生は好まないのでね」
「あらそう。しかし残念ですが対策を練ってまた伺いますわ。ジェリコの壁は予想外でし
たが、次は通じませんよ、ミラン」
白重幽菜は吐き捨てるように言うとあっさりと踵を返した。そしてそのまま雑踏へと消えていく。そしてミランの気配が消えた後、目の前の虹色の壁も空気に溶けるように消失した。
「何なんだよ、もう」
緊張感が切れたせいか、私はその場にへたり込んだ。目の前には何事もなかったかのように、灰色の人気のない街並みが続いている。
「体は無事ですか」
駆け寄ってきたのはモラだ。このやたら殺風景な中で彼女の派手な姿は目立つ。
「痛むところはないですか」
モラはやたらと私の体が気になるようだった。翡翠色の両目は無表情ではあるが、どことなく心配そうにそわそわしている。
「大丈夫だよ。モラは大丈夫か」
「はい。無事で何よりです」
モラは私の発言に満足したのか、すっと穏やかな顔になる。無表情だが、端正なその顔立ちに思わずそのまま見とれた。
「巴、楓、出てきていいぞ」
ミランが言うや否や、物陰から巴と楓がゆらりと現れた。そして彼女らが手に持つものを見て私は驚いた。……それにしてもあと何回今日は驚けばいいのか。感性が麻痺してしまいそうだ。
「何よ。そんなに銃が珍しいの?」
野暮ったそうに言ったのは巴だ。彼女の両手には黒光りする拳銃が握られていた。本物だろうか。モデルガンにしてはディティールが細かく、重量感のある見た目をしている。片や楓は狙撃銃のような銃身の長いタイプの物を持っていた。こちらもごてごてとスコープやらなんやらが装着されており、どう見てもモデルガンには見えない。
「あの結界は楓の仕業か?」
「はい。いずれ刺客に急襲される日が来るだろうと予測していましたので、事務所に入り始めた日に念のため仕掛けておきました」
「事務所に入り始めた日って……。相変わらず先読みが的確ね、あんたは」
「備えあれば憂いなしということだな。うむ、上野の事務所に戻ったら色々と仕掛けておくか」
ミランは腕を組んでうんうんと頷くと、「ところでボウヤ」と私に顔を向けた。真剣な顔だ。
「これまでの出来事で、我々の話は信じてくれたのだろう?そして君はどちら側の人間なのかも分かったはず。君の意見を聞こう」
ミランの言葉は相変わらず大げさだがとても率直でまっすぐだ。嘘偽りのない、自分の思った言葉を素直に話す彼女ならではと言ってもいい。だからこそ常識を捨てろなどという大それたことを息を吸うように言えるのだ。その恐れを知らぬ態度にはある種の憧れすら感じる。
――それで、いいのだ。
きっと血は争えないのだろう。表舞台の陰で生きる父親を持つ私は、やはり同じような世界でしかまともに生きられないのだ。
これまでの生活を捨てるということに対し一抹の不安はある。巴や楓の武装を見る限り、先ほどのような戦闘もきっと日常茶飯事なのだ。おそらく命を失う機会に何度となく遭うことになるのだろう。
しかしこのからっぽのこころには、今までには無かった感情が芽生えていた。今朝巴と楓にマンションから連れ出された時にも少し浮かんだ感情。期待感――いや違う、わくわくする感情にとても近いが、微妙にニュアンスが異なる。なんだろうか。高揚感がある。
からっぽのこころが息を吹き返したとでもいうか、やけに心臓の鼓動を感じるのだ。生まれて初めてベースに触れた時にもあった。これこそが自分、と感じる瞬間。それを今私は全身から感じていた。
ふと視線を感じて隣を向くとモラが無表情な瞳を私に向けていた。それはまさしく灰色の猫の瞳で、まっすぐで透明な視線が私に注がれる。しかしそこにすれ違いはなく、私は緑に輝く彼女の瞳を己の目でしっかりと受け止めることができた。
そして気づけば太陽は東の空からその姿をようやく現したところだった。黄金が少し入り混じった朝の青空は、この灰色の街並みにも等しく与えられる。それは視線を変えるだけで鮮やかな世界を見つけることができるということを気付かされるようだ。
私はミランの目を見つめた。相変わらず目つきが悪い。正直酷いと思う。小さい子供が見れば十中八九泣くだろう。
しかし今はその瞳が頼もしく見えた。好きなわけではない。まだ疑いは残っている。しかしこころはもう行く先を変えるつもりは無かった。
言葉は自然と出た。
「何と呼べばいいですか?」
ミランはにやりと笑うと、
「ボスと呼べ」
「わかりました」
私はあえて一度言葉を区切り、
「『ミランさん』」
皮肉を込めてそう答えた。刹那、一陣の風が吹いた。
きっとその瞬間から私の世界は変わった。基、これまでのつまらない世界を、己の殻を破壊されたのだ。
……ミランのげんこつと共に。