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第九話 わかれ

後半ほんの少しグロ注意です。

 神戸に来て最初の金曜日。こちらの業務にも慣れてきて仕事も別段問題なくこなしている。しかし今日に限って私は少し――ほんの少し心が逸っていた。

 明日の土曜日に、私は白重幽菜と共にセッションすることになったのだ。

 あの居酒屋で話していたことが現実となったことに心が浮ついていないと言えば嘘になる。そう、私は今、猛烈に焦っている。私の標準装備である、世界最高水準の無表情さを出すことができる冷静の仮面が、今にも破壊されそうになっていた。

 女とセッションすること自体は全然構わない。だが相手が白重幽菜であれば話は別だ。あの女は色々な意味で危険なのだ。

 ――危険、なのだ。そう、危険なのだ……。

 そんなことをひたすら考えているとあっという間に終業時刻になった。いつもよりかなり早く時間が過ぎたと感じた。

 それにしても何だかんだ今日も疲れた……さっさと残業をこなして帰ろう。

 パソコンに向かって明日の現場の資料を作成していると、社内メールが一通飛んで来た。

差出人は白重幽菜。私の心臓がどくりと弾んだ。件名を露骨に眼で追って読んでみると『明日の件ですが』とある。私は一瞬硬直した後、再びどきりとしてそのメールを開く。



 明日は十一時に駅に集合してくださいね。

 ウッドベースを借りられるスタジオなので、宜しければ使ってください。

 楽しみにしてますね。

 それでは!

 


 !――っ。

 私は心拍数が上昇していた。BPMがいくらなのか分からない。瞳孔も業務中よりも拡大していることだろう。額の辺りがほんのり微熱気味だ。

 短い文面ながらもその内容から彼女の仕草を想像してしまう。私は鼻で息を吐くと業務中にも関わらずエキサイトしそうになる心を生唾ごと飲み込んだ。

 情け無い話だが、もはや私は完全に彼女に支配されていた。私はやはり弱い人間だった。

 しかし私はふと考える。こんなつまらないことに悩んで何か意味があるのか?刹那的な劣情など排除して然るべき感情だ。そんな人的欲求のヒエラルキーの下方に位置する事なんかに貴重な時間と思考を使うべきでは無い。自分の存在はもっと高く見積もるべきだ。この世で自分以外の存在など居ないのだから、それをもっと尊ぶべきだ。……まぁそれすら危うい心ではあるのだが。

 いずれにせよこの『からっぽのこころ』に白重幽菜という存在が凄まじい勢いで勢力を拡げてきており、それは私にとって決して見過ごせることでは無い。極めて由々しき事態だ。私は白重幽菜のために生を受けた訳では無い。早急に落ち着かなければならない。

 私は軽く頭を振って雑念を振り払い、その時生まれた凪ぎの様な静寂の瞬間に迅速かつ慎重に白重幽菜から届いたメールを削除フォルダへ移動させた。このメールは毒、いやむしろ兵器と呼ぶに相応しい。開くと爆発して開封者の心を破壊し、その後メール作成者のことしか考えられないように心を再構成する視覚的心理破壊兵器だ。そう、あくまで私は平常心であり、先ほどの昂ぶりはメール兵器に当てられて頭が少しおかしくなっただけなのだ。そうだ。そうに違いない。さぁ、悪魔は削除しこの世から去った!落ち着いて仕事に取り掛かるとしよう――。



 ◆ ◆ ◆ ◆


 

 仕事を終えて会社を出る。神戸駅から大阪の自宅まで片道約一時間。少し遠いが、乗っている間はずっと眠っているので気にしていなかった。

 仕事を終えて一段落するとだいぶ頭が落ち着いた。今の私はこれまでどおりの『からっぽの自分だ。

 今夜はやけにうどんが食べたい気分だったので、私はいつものように家の最寄り駅から一つ前で降り、なじみのうどん屋である鶴製麺へと向かった。

「いらっしゃいませー」

 店内にはやはり客は誰もおらず、厨房の奥の方で仕込みをする店長とカウンターで洗い物をしている店長の娘が居た。店長の娘は私に挨拶をした後「野菜天うどん大ですか?」と尋ねてきたので私は無言で頷いた。

「野菜天うどん大一丁」

 店長の娘が厨房へと声をかける。すると「兄ちゃんが来たんか?」と店長が返してきた。

「そうだよー」

「そか。はいよー」

 このやり取りも何度見たか分から無い。いつもの光景なので私は気にも留めずに天吊りのテレビに目を向けた。

『明日はカラッとした陽気が一日続くでしょう。洗濯物やお布団を干すには最適の空になりそうです――』

 天気予報士が根本的には当てずっぽうな話をしている。天気予報なんて大半が確率の話だ。気にしていたって仕方が無い。だが私の今の仕事よりかは面白いのかもしれない。テレビに出られるし、給料もきっと多いと思う。だが私はそれで幸せなのだろうか?

 ――別に金儲けをしようとは思わない。

 ――安定した生活をしようとも思わない。

 ――ましてや有名になろうとも思わない。

 きっと、今の私は死ぬことによって失うものが極端に少ないのだ。もしくは気づいていないだけかもしれない。そしておそらくは失ってきた経験も少ない。故に普通の生活の素晴らしさを実感することが出来ず、文字通り上の空なのだ。私は夢見がちなわけでも極端に鈍いわけでも無いと思う。人並みに喜怒哀楽は感じるし、表現もする。上辺だけの場合もあるし、おそらく――自信は無いが――心から表現もする。

 ただ、残念なことにおそらく心の何割かが死んでいる。欠落しているといっても良いかもしれない。長年使用しなかったせいで感情が壊死してしまったのか、生まれついてのものなのか、あの交通事故がもたらしたものなのかは知らないが。いずれにせよもともと無いのだ。無いことが普通になってしまっている以上、それを理解することなんて非常に難しい。あえて病名をつけるのならば、人的精神構成障害とでもいうのではなかろうか。まぁどうでもいいことだ。本当にどうでもいい。変な笑いが出そうになった。

 この鶴製麺でいただく美味しい野菜天うどん大も、根本的に何のために食べているのか私には分からない。

 ――生きるためだ。

 確かにそうだろう。では何のために生きる?……そうして様々な自問自答の末辿り着くのはいつも『なぜ生きるために生きるのか?』という疑問。

 もはやどん詰まりだ。袋小路。いつも私はこの壁にぶち当たって思考停止してしまう。答えが見つからないのだ。いっそのこと宗教にでも助けを請うてみようか。それか哲学書の知恵を借りて高度な屁理屈という言葉の麻酔で心を麻痺させるのも良いかもしれない。このからっぽのこころが俗っぽい事に染まるのだけは嫌だが、ある程度人間の生の本質に近づいているものに染め上げるのはまだ納得が出来る。そうした妥協こそが人が人足らしめる要因の一つなのだろう。

「兄ちゃん。難しい顔しとんな」

 ふと顔を上げるとカウンター越しに店長の顔が見える。頑固そうなその顔には所々皺が寄っている。それは年輪のように無数の経験を乗り越えてきた者だけが得られる勲章のようでもあり、その数多の経験がもたらした傷痕にも見える。

「とりあえず喰えや。腹が満たされんやったら悩むことすら出来へんぞ」

 どこか意味深な言葉とうどんを残して店長は厨房に去っていった。死んだら考えることすら出来んぞとでも言いたかったのだろうか。

 私はふと料理を見つめた。熱々の湯気と香ばしい香りが立ち込める野菜天うどん大はいつ見ても美味しそうで、ついつい涎が口の中に広がる。

 ……それはなぜか。

 全く持ってつまらない疑問だ。考えることが愚かなのではないかと一瞬錯覚した。私はもう末期症状かもしれない。

 私はテレビをラジオと化して黙々とうどんを食べ続けた。耳からは芸能人の恋人話や離婚騒動の話等が聞こえた。それから凄まじい交通事故から生還した奇跡の人の話や、紛争に苦しむ諸外国の話。後は――、

 ずるずるずる。と麺をすすって私はテレビから目を離した。

 世界は広い。各国それぞれ十人十色だ。国同士だけでこれほど個性があるのだから、惑星間、はたまた銀河系にも同じ事が言えるのかもしれない。だがマクロでフラクタル的に物事を考えてスケールを広く見ても結局何も得られない。無駄な徒労だった。

 ……しかし、いやしかし待てよ、と私は思いとどまる。いつもはここで思考を投げ捨てていたが、今回は何か引っかかった。

 なるほど世界は広い。自分の想像を超えるほど広いといつも思う。それは目を輝かせ心躍るような出来事がどこかで起きたり、逆に目を塞ぎたくなるような暗澹たる出来事が起きたりしたとしても、思わず『はいそうですか。ご自由に』と放ってしまう程に広い。

 だが、広さはあれど『深さ』は案外そこまで無いのではなかろうか。本質に対して、勝手に私が何か途轍もなく深い何かがあると勘違いし、深読みをしてあれこれ思索しているだけなのではないか。

 逆説的に考えてすなわち真理とは、すごく単純で身近であっけないものなのかもしれない。そして見つけられないということは、先の例に倣って考えるならば生きている限り決して見つけることが出来ないから見つから無いかもしれない。

 ――だから、なんなんだよ。

 思わず箸が止まり、嘆息が漏れた。

 無駄だ無駄。何もかも無駄だ。生きるということはなんて空虚で透明で軽くて安っぽいんだろう。悪い夢や冗談のようだ。私は無性に悲しくなり、麺をすする手が早くなった。

 最終的に訪れるのは、あの漆黒の面に喰われていく死。苦しみも安らぎも無く、機械的な精神の消滅。何の感情も無くあらゆるものを押しつぶすプレス機のように、魂をスクラップされてしまうのが人生のオチだ。

 人は死ぬために生きるのか、生きるために生きるのか、それともなんの理由も無くただ生きているだけなのか。今の私にはまだ解けそうも無い難問だった。

 もう一度ため息をついた頃には料理を平らげていた。私はお冷を一回お替りして飲み干すと、鶴製麺を後にした。



 ◆ ◆ ◆ ◆ 



 知人の死、というものに私は直面したことが無い。元々親は父だけだったし、祖父母は生まれる前に他界していた。親戚との絡みも無く、まるで一族の中で完全に孤立――むしろ隔離――されていると感じていた。そんな家庭環境だったからか、元来の性格によるものなのか友人も少なく、居たとしても進級や学校が変わるたびに疎遠になり毎回ゼロに戻っていた。

 親友なんて言葉でしか知らない。恋人なんて持っての外だ。大学から一人暮らしを始め、その頃からなんちゃって社会人生活を続ける今も愛情というものの感覚を忘れてしまっている。

 ……いや、最近ほんの少しだけその片鱗を感じたことがあった。

 灰色の猫。緑色の瞳を輝かせていつもこちらを見つめてくる猫。ストーカーという程熱烈にこちらにアプローチをかけるでもなく、かといって気紛れにこちらを観ているだけという訳でも無い、不思議な猫。

 その絶妙に付かず離れない関係が無意識に心地良かったのかもしれない。実は私は知らず孤独に苦しんでおり、何者かとの繋がりを欲していたのかもしれない。その繋がりとやらを灰色の猫によって満たされていたのかもしれない。ただ傍に居る、その簡単そうでとても難しい関係に私はいつの間にか少し依存していたのかもしれない。

 ――だからだろうか、私は目の前の光景に少し目頭を熱くしていた。

「うわー、むごいわねぇ……」

「これ内臓?車に轢かれたんかねぇ」

「こら、見んとき!家の中入っとき」

 月が浩々と照らす夜の家路、いつもの帰り道の傍らに近所に住むおばさん連中が眉をひそめて会話をしていた。その視線の先には黒ずんだずた袋のようなものが無造作に転がっている。

 それはほんの少し赤黒く、毛羽立っている。微動だにせず、無機物のように生を感じられないその物体は、遠目から見ても灰色の猫だと私には分かった。

 ひとしきりおばさん連中が世間話を終えてそれぞれの家に帰った後、私は灰色の猫に近づいた。

「……」 

 言葉は無かった。かけてやる言葉も、思わず飛び出すような言葉も。ただただ虚しかった。

 渇いた血だまりの中横たわる灰色の猫は死んでいる。瞳は赤く淀み、半開きの口は虫がたかり始めている。おばさんが言っていたように車に轢かれたのかもしれない。身体が半分に折れ曲がり、へしゃげているように見える。血まみれの骨が肉を貫き、今は見る影も無くグロテスクな、鮮やかな桃色だったらしい内臓が影からうっすらと覗いている。

 灰色の猫はこちらを見てくれない。虚ろな眼差しはもはや世界を見ていなかった。私はしなやかな部分がまだ残っている背中にそっと触れてみるが、コンクリートに触っているような冷たさが返ってくるばかり。私は胸が苦しくなった。

 きっとこれが死なのだ。この胸の中に真っ黒い鉄球がぶち込まれたような、思わず呼吸の仕方を忘れて息が止まるようなこの気持ちが本当の死なのだ。蝿とかゴキブリとかミミズを殺したりそれらの死体を見たりするではなく、『身近な者の死』という圧倒的で無慈悲な悲しみこそが本来の死なのだ。私は、今この瞬間それを理解した。

 私は一度目を閉じて黙祷をすると、未練を断ち切るようにその場を離れる。

 ――お別れだ。

 野良猫の瞳に愛を感じるなんて馬鹿げている。……馬鹿げているのだが、心の深いところではそのことが納得できなかった。猫の気持ちなんて分からない。自分の思い込みかもしれない。しかしあの時、あの瞬間、どうあれ私は灰色の猫に救われたのだ。今更だが、そのことに私は深く感謝した。ありがとう、と。

 私は涙を流さなかった。流したいという気持ちと自分の臆病な部分が葛藤してしまい、結局溜まるだけだった。空には圧倒的に輝く白い月。月光に照らされて映し出された自分の影を酷く睨みつけながら、私は歩いていく。

 ぱたぱたぱた、という鳥が羽ばたく音が後ろから聞こえた。もうあの鈴の音は聞こえないのだな、と私はしみじみと思うのだった。


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