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強さ?

 生まれて初めて味わう疾走感が、やがてマモルの心中から恐怖を取り除いていった。

 速い。

 それも、マモルたち小動物の敏捷さではない。少々の障害などものともせず、一直線に目的地へ突き進む、逞しい疾駆だ。

 茂みを倒木を跳び越え、低い枝をくぐり、急斜面を一気呵成に登りつめる。穴も小川もおかまいなし。

 それでいて背中にしがみついているマモルは、振り落とされそうになることもない。クロが背中を気にして力を抑えていることは一目瞭然だった。

 本気で走るとどれほど速いのか、マモルでは垣間見ることすらできない世界だ。

 ただ、今の疾走感だけで、彼は満足していた。普段走っている時とは風が違う、周りの景色が飛ぶように過ぎていく、宙を跳ぶ浮遊感など初めて知った。これが、この躍動が「走る」ということなのか。

「おじさん、凄く速いんだね。ぼくもそんなに速く走れるかな」

 木々の多い山に入るとペースは落ち、マモルは喋る余裕も出てきた。

 クロの返事はない。

 なぜか必ず答えが返ると思い込んでいた少年は、その無言にひどく落胆した。そして、同時に思い出していた。こいつは、あのクロなんだぞ、と。

 ところが、しばらく経ってから、やおらクロが口を開いた。

「たぬきにはたぬきの走りがある。俺には真似できん」

 答えの内容よりも、クロが返事をしてくれたとが、妙に嬉しかった。こいつは、あのクロなんだぞ、と思いながら、マモルはにやけてしまう。

「そんなことないよ、おじさんの方がずっと凄いさ」

 言ってから、おや、と思った。今、自然に、たぬき、という言葉が耳に飛び込んできた。

「おじさんも、マモラートのことたぬきって呼ぶんだね」

 クロは無言。

「ねぇ、おじさん。おじさんは、人間からいぬって呼ばれるの、いや?それとも、それは嬉しいことなの?」

 しばらくしてから、クロは答えた。

「人間に飼われていたなら、いぬと呼ばれる方が自然だ」

「じゃあ、おじさんはカンドゥスじゃなくて、いぬなんだ」

「俺はクロウだ。誰にどう呼ばれようと、クロウ以外の何者でもない」

 マモルはちょっと考えた。

「おじさんの主がつけた名前なの、クロって?」

「そうだ」

「人間?」

「そうだ。身寄りのない老人だった」

 これは意外だった。乱暴者で、強くて、速いクロの主が、年老いた人間だったなんて。クロの方が強くて速いに違いないのに。

「その人間は?」

「死んだ」

「それじゃあ、今は主はいないの?ずっと一匹なの?」

「そうだ」

「だけど、それじゃ寂しいでしょ。いぬは主を選ぶのが性だって聞いたよ」

「いぬの世界には、二君にまみえず、という言葉がある。まあ、今時そんなもの、律儀に守るいぬなど、そうはいないがな」

 クロが低く笑った。マモルには理解できなかったが、自嘲の笑みとも苦笑ともとれる笑いだった。

 それにしても、とマモルは不思議に気付いた。あのクロが、矢継ぎ早の質問にそれこそ律儀に答えている。ちょっと彼を見直した。

「おじさん、やさしいんだね」

 またクロが笑った。

「今は満腹だ。腹が減っていれば、お前はえさ以外のなにものではない」

 今までにない壮絶な凄みのある声と言葉だった。

 瞬時にしてマモルは震え上がった。

「だ、だだだだれか食べたの」

「あの里にある喫茶やわらぎの残飯は、なかなかいけるのさ」

 ちょっと怖がらせすぎたとでも思ったのだろうか、クロは心持ち声をやわらげた。

「俺は当然のことを言っただけだ。腹を空かした野良にとっては弱い動物は食い物だと。安心しろ、言ったように今は満腹だ。お前のことはきちっと送る」

 たしかに、考えてみると当然のこと。それは、危険なときに友達を犠牲にして生き残る話に似ている。

 野良カンドゥスは食べるために動物を殺す。それは恐ろしいことだけど、だから無闇にクロを恐れることはない。出会った動物を手当たり次第に殺すわけじゃないんだから。マモルだって、なにかを食べないと生きていけない。

「だけど不思議だな」

 マモルはさきほどからの疑問をぶつけてみた。

「おじさんの方が、人間なんかよりずっと強いじゃないか。人間はこんなに速く走ることだってできないよ。なのに人間が主だなんて」

 ふと、クロは立ち止まった。

「人間は、強い」

「え?てっぽうとか持ってるから?でも、道具なしなら、おじさんの牙の方が強いよ」

「いや」

 クロは、眼下の街灯に照らされたアスファルト道路を見やった。

「人間は速い。車は知っているな?道路の上には、俺でもあれには勝てない。速く、しかもいつまでも走り続けることができる」

 それぐらい知ってるよ、と言おうとして、先にクロが喋りだした。

「人間は速い。だが、そのために、人間はもう走れなくなった」

「え?」

「車というものは、性能を発揮するために道路が必要だ。だから、人間は森の奥、山の頂、川の上にまで道路を敷き詰める。道路の上でしか、走ることができなくなったからだ」

 クロはゆっくり歩き出した。

「人間は強い。道路を敷き詰めるために、木を切り倒し山を削り川を濁らせ、動物たちを殺していく。俺は食うために殺すが、人間は違う。牙や爪ではなく、銃や刃物でもなく、人間のその心こそが強さの源だ。だから、どんな動物より、人間は強くなれる」

 難しい話だ。だけど、きっと大事な話だ。マモルは心の中で何度もクロの言葉を反芻させた。覚えていたら、大人になったとき、わかる。


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