クロ?
「生き返ったあ」
気がついて、最初に聞こえたのはナオ子の声だ。心なしかしめっぽいが、嬉しさが顔を見なくてもわかる類の声だった。
「だから大丈夫だって言ったじゃないか。大騒ぎしちゃってまぁ」
これは聞き覚えのない声。
「だけどさ、ビビ、もしこの子になにかあったら、全部あたしのせいなんだから。親御さんにはなんて言えばいいのさ。どんな顔して会えっていうんだい?」
「はいはい、わかったわかった。ほら、坊やが苦しそうにしてるよ」
「えッ、マモル、ああ、目を覚ましたんだね。痛いとこないかい」
マモルは起き上がって小さく痛くないと告げた。
ナオ子が間借りしている家の庭だ。家からはもう明かりは漏れていない。ナオ子の隣にいるミーアフーナがビビなのだろう。そして・・・・・・
「うわぁ」
闇夜に漆黒の体毛が溶けてしまっていうように見えた。鋭い眼光が、赤い舌と白く鋭い牙の上に座っている。
クロだ。
「マモル、失礼だよ、そんな顔しちゃ。お前さんを助けてくれたんだから」
記憶が甦っていくにつれて、マモルの体が震えだした。人間に捕まったときの恐怖が今さらのように寄せてきて、そしてクロにくわえられたときの絶望感。
「あれ?」
「変な顔するんじゃないの。クロが助けてくれたんだよ。
クロが里に下りてるのを偶然見かけてね、万が一のときには頼むよ、ってお願いしてたのさ。
ああ、それにしても間に合って本当によかった。
さあ、きちんとお礼を言いなさい」
マモルは自失呆然だ。
「クロが、あ、いや、クロのおじさんが助けてくれたの?」
答えようともせず、クロは立ち上がるとゆっくり踵を返した。
「ちょっとクロ、待ちなよ」
「礼が聞きたくて手を貸したわけではない」
クロは振り向きもせずに言った。
「わお、クールねぇ」
ビビがとっとっとっとクロの足元へ近づき、ごろにゃん、と黒く逞しい足へ頬をこすりつけた。
「好きよ、そういうの」
「ねこがいぬにしな作ってどうしよってんだい」
まったく、とビビをはたいてから、ナオ子はクロの前へ回りきちんと座った。
「こういうことは、ちゃんと収めないと許せない性分なんでね。
クロ、本当にありがとう。あんたがいなかったら、マモルがどうなってたか知れない。
この恩、けっして不義理にはしないよ。あんたなら困ることんてないだろうけど、ものによっちゃあたしの方が気楽にできることもあるからね、なんでも言っておくれよ。死ぬまであたしはあんたの味方さ」
「気持ちだけは収めておく。これでいいか」
「まだだよ。マモル、おいで。
いいからおいで。
噛み付きゃしないよ。
一度はこのでっかい口にすっぽりおさまった体だろ」
その口の中がどれだけ恐ろしい場所か、ナオ子さんは知らないのだ。などとマモルは思いつつ、言われた通りクロの前へ回り込んで殊勝な声を出した。
「ありがとうございました、クロのおじさん」
鼻を鳴らして、クロはべろんとマモルの体を舐めた。
マモルはゾッとした。
「それともうひとつ」
ナオ子の声に、クロは胡乱な目つきで小さな姐御を見下ろした。
「まだなにかあるのか」
「今度のことは、あんたに迷惑かけて申し訳なかったと思う。ただ、ちょっとね、ついでといっちゃなんだけど、迷惑ついでにもう一つ頼まれちゃくれないか」
あのクロを相手になんて図々しいんだ。マモルはどきどきしながらナオ子の度胸に驚いた。かっこいい。
そのびくびくおどおどのマモルの尻を、ナオ子が鼻で押し出す。
「この子を山に届けてくれないかね」
ええッ!?
「断る」
「頼むよ、この子、足を怪我してるみたいでね」
マモル本人が一番驚いた。痛みなんてどこにもない。
マモルの顔を見てナオ子は妙な笑みを浮かべ、彼の後ろ足をむんずと踏んづけた。途端に痺れるほどの痛みが走って、マモルは不覚にも悲鳴をあげてしまっていた。
違うよ、ナオ子さん、怪我してたんじゃないよ、今の蹴りが関節にきたんだ、くう痛い。
抗議しようとしたが、ナオ子に睨まれてしゅんとなる。
しばらく考え込むようにマモルを見つめていたクロは、つと四肢をかがめ、乗れ、と短く命じてきた。なにを考えているのかわからない、低くて凄みのある声だ。
原因はどうあれ痛む足では朝までに山へ帰れない。かといって、クロの背中に乗りでもしたら、そのまま彼の巣へ直行して明日の保存食にされかねない。
マモルがおどおどしていると、ナオ子とビビが二匹がかりで首根っこをくわえ、ずるずる引きずっていった。
「大丈夫なんじゃない?途中で気が変らないかぎり、食われないさ」
気が変ったらどうするの。
「バカ、ビビは黙ってな。クロが子供を食うわけないじゃないか。
いいかい、マモル。クロはたしかにおっかないオスだけど、嘘だけはつかない。このナオ子姐さんが保障する。
足が治ったら、友達連れて遊びに来な。ばあさんにねだって、旨いさんまを食べさせてあげる」
クロの背に乗ってしまったマモルには、もう震えながらでもうなずくしか法がない。
二歩ほど進んでから、クロはおもむろに振り返り、言った。
「クロウだ」
は?と口が開くナオ子とビビ。
「俺のことはクロウと呼べ」
「なぁにが足の怪我よ」
二匹のねこはじゃれあうようにして言い合っていた。
「クロへのお礼のつもりでしょ?ナオ子、あんた、クロに気があるんじゃなぁい?」
「バカ言ってないで帰んなよ。ここはあたしン家だよ」
「正直に言いな。ほれ、ほれ」
「いぬなんかに気もなにもあるわきゃないだろ。年中色気づきやがって、この色情狂。今は発情期じゃないよ」
「オスの方がこの美貌に狂うのさ」
「ああ、そうかい、好きにしな。ただし、この家の敷地の外でね。さあ帰れ!」