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いぬ?

 すっ、と障子の開く音が直後に聞こえた。ナオ子の名を呼ぶ声。

「じいさんだ」

 ナオ子は小声で言った。

「畑を荒らすから、って、ばあさんと違って動物が嫌いなんだ」

「すぐには出られないね」

 人間が降りてくる気配。荒れた畑が、夕闇にも見て取れたのだろう。

「おいで。あのエロぎつねみたいな馬鹿ばかりじゃないってこと、教えてあげるよ」

 ナオ子はそう言って踵を返した。



 闇が降りたとはいえ、人の往来が途絶えたわけではない。二匹は用心深く茂みや塀の下を進んだ。

 集落も中心部分に来ると田畑もほとんどなくて、家が狭い間隔で建ち並んでいる。マモルは、ここまで集落の中へ立ち入ったのは初めてだ。

「マモルはどう思うんだい」

 足を止めずにナオ子は訊ねた。

「たぬきって呼ばれて、腹が立ったかい」

 ぜんぜん、と答えると、ナオ子は驚いたように振り返った。

「そうかい」

「だって、人間はぼくらの言葉がわからないでしょ。だから、ぼくらの名前なんて知らないはずだよ。

 でもさ、それじゃ不便だから、だから人間は人間の言葉でぼくらに名前をつけたんじゃないかな」

 つと茂みの中でナオ子はうずくまり、しげしげとマモルの顔を見つめた。

「顔になにかついてる?」

「おめでたい目鼻がついてるよ」

 おめでたい目鼻?

 顔のことでそう表現されたことはない。どちらかというといい男になれると言われるのに、おめでたいって、どういう意味だろう?

「そういえば、ナオ子さんはどうなの?ねこって呼ばれるの、どう思う?」

 ナオ子は後ろ足で耳の後ろをかきながら、少し考える素振りをした。

「あたしはね、あたしのことを誰がなんて呼ぼうが、知ったこっちゃないのさ。好きなように呼べばいい。

 名前ってのはね、言ってみりゃただの記号だ。

 コンと泣くからコン吉、ぴょんと飛ぶからピョン太。黒いからクロさ。

 だからさ、マモラートがたぬきだろうが、どんな違いがあるんだい」

「でも、お父さんは、ぼくはマモラートでたぬきじゃない、マモラートの誇りを持て、って」

「マモルのお父さんのことをあたしが詳しく知ってるわけじゃないけど、マモラートという名前をとても大事にしているのかもしれないし、たぬきって名前が嫌いなのかもしれない。

 でも、それはお父さんのことだろう?

 マモルはマモルの考えでものごとを感じていかないといけないよ。

 もちろん、自分の考えを得るために、いろんな人の考えに耳を傾けないといけないけど。

 さっきはああ言ったけど、あのエロぎつねの言うことも、考えの一つとしてはある。あたしとしては、マモルみたいな子たぬきに、あのエロぎつねのたわ言を鵜呑みにしてほしくないってわけだけどさ」

 マモルにはいまひとつわからない話だ。

 さらにしばらく進んで、ここだよ、とナオ子は白い塀にぴょんと飛び乗った。マモルは隙間を探し、けっきょく門から庭へと入っていく。

 突然ふかふかしたなにかにぶつかって、マモルは慌てて後ずさった。

「悪さはしないよ」

 近くでナオ子の声がする。

「おとなしいもんさ」

 首に鎖をつなげられたカンドゥスだ。

 首筋が白く、背中が明るい茶色。マモルを見つめる大きな目はやさしそうで、大きな舌を出している。

 正直カンドゥスをここまで間近に見るのは初めてだ。

 大きい。見上げる巨漢と言うか。横幅も凄い。全力でぶつかっても、一ミリだって動かせない自信がある。おまけに凄い鼻息だ。これは、怖い。

 ナオ子さんがいなければ迷わず逃げている。なぜ逃げないのか?それはマモルくんも男だからだ。

「お久しぶりね、チビ」

「久方ぶりだ。

 もっとも、ナオ子姐さんの噂はあちこちの野良からよくうかがうよ。ビビ姐さんとは手打ちにしたそうじゃないか。祝着だ」

「もともとあっちが横車出してきただけさ。うたしはなんにもしていない。まあ、ビビの一人相撲さね」

「ナオ子姐さんらしい言いようだな。

 ところで、この小さな子たぬきは」

 チビは顔を突き出して、マモルの体に鼻をくっつけるようにして匂いを嗅いだ。それはもう音を立てるほど執拗に。

 全身をチビの鼻センサーが探知していき、尻尾の先までいって、満足そうにうなずいた。

「悪い匂いはしない。コン吉の匂いが少し気にさわるが」

「あのエロぎつねにたらし込まれたのさ」

「姐さんの腹立ちもわかるが、あれで悪気のない男だ。少々のホラ話は子供には楽しいものであろうし、口で言うほど大それたことのできる動物でもない」

「海を渡ったとか保健所の職員をケムに巻いたとか、そんな話だけなら罪もないけどね。

 よりにもよって、こんな子供に変なことたきつけやがってあのアホウ」

 コン吉の話を手短に話すと、なるほど、とチビは重そうな頭で鷹揚にうなずいた。

「それで私のところに」

 チビはマモルへと向き治り、ごっくんと唾を飲んでまた口を開いた。

 マモルは硬直している。逃げてはいないが、怖いことに変わりない。クロは乱暴者だし、縄付きにも吠えられたことがある。意地と根性で立ち止まっているだけだ。

 チビは微笑し、一歩後ろへ下がった。

 あ、このおじさん、もしかしてやさしいの?

「私から話そうかな。

 私はカンドゥスとも呼ばれるが、どちらかというと犬と呼ばれる方が嬉しい。ご主人は私のことを犬と呼び、チビと言う名をつけてくだされた」

 マモルは首をかしげた。

「人間に名前をつけられた?」

「私にとって最も優先すべきは主人のことだ。主人が、お前は犬だ、と言えば私は犬だ。チビだ、と言えば私はチビなのだ。そして、主人のつけてくださった名を名乗れるということに、私は至高の喜びを感じる」

「主人って、人間だよね」

「そう、コウタロウ様といって実に優秀なブリーダーだ。、御歳十二の若者だが」

 さっぱりわからない。なんで人間が主人になるの?主人が死ねと言えば死ぬのだろうか。

「いぬには、そういった性がある」

 チビはやわらかく微笑み続けた。

「己れの主を選び、これに仕える。主人危急の際には馳せ参じ、死ねと申されれば喜んでお役に順ずる。

 もっとも、人間を主と慕う者ばかりでもない。野生の群れでは、リーダーのいぬに忠誠を誓うものらしい」

「クロは群れないし、誰の言うことも聞かないよ」

「クロか。噂では聞く。嘆かわしいものだ。ああいういぬが増えると、我々の忠義の道は時代の波に翻弄されているのではないか、という気にもなる」

「何度聞いても、あんた、バカだよねぇ」

 マモルを連れてきた張本人のくせに、ナオ子はあくびをしながら言い放った。

「自分が楽しけりゃいいじゃないか。誰の指図だっていらないよ。人間なんざ、ハッ、放っておきゃいいのさ」

「そういう姐さんも、家のばばが熱を出すと大騒ぎするではないか。聞いたぞ。たしかこうわめいていたのだったな。死ぬー、死んじまうー、ばあさんがー」

「そッ、そそそそりゃあ、一宿一飯の恩ってやつさ。義理人情は渡世の金剛石だからね」

 なにはさておき、とナオ子は誤魔化すようにマモルの頭を前足で軽く撫でた。

「こういうバカもいるってことさ。

 マモル、エロぎつねの言うようなことばかりが世の中で幅をきかせてるわけじゃないんだよ」

 それからふと、おもむろにチビへ顔を向け、不思議そうに首をかしげた。

「・・・・・・ちょうどいい、このさいだからあたしも一つ質問」

「なんだね」

「前々から思ってたんだけど。

 あんた、たしかセントバーナードとかいう血統だろ」

「うむ。私の遠い遠い遠い遠い遠い遠い血筋の者がサン・ベルナール修道院に飼われ・・・」

「その図体でチビって名前はねぇ」

「私も昔は小さかったのだ。その私をまだ幼くしておられた主人が指差され、一言、チビ、と・・・」

「あ、噂のコータローが来た。晩飯の時間かい?いい匂いだね。

 じゃ、あたしは行くよ。

 こら、マモル、あんたも行くの。なにぼっとしてんだい」


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