ねこ?
見ると、縁側から人間の老婆が消えていた。ミーアフーナだけが丸まっている。
「人間にとっちゃ、そろそろ三食目の時間だ。終わった頃に降りるぜ。俺様用のメシをあのばあさんが用意してるはずだからよ」
「あそこにいるの、ミーアフーナだよね」
縁側の動物のことだ。
「ああ、ミーアフーナのナオ子だ。あの家に間借りしてる」
「ミーアフーナも、たぬき、って呼ばれてるの?」
コン吉はかぶりを振る。「ねこ、だ」
ねこ。口の中でつぶやいて、マモルはちょっと考えた。
「ナオ子さんも、ねこって呼ばれるの、いやなのかぁ」
「さあな。あ、おい」
茂みを飛び出したマモルは、首だけ振り向かせて
「ナオ子さんにも聞いてみるよ」
と畑の上を走り出した。
しょうがねぇなあ、とコン吉も茂みを出て、ゆっくりとマモルの後を追っていく。
マモルは走る。走る。
走るのは好きだけど、今は、人間に見つからないように一生懸命だ。
ナオ子は、全身の真っ白な毛をふっくらさせて、縁側で丸くなっていたが、マモルの接近に気付くと耳をひくつかせ、長い尻尾をぶるんと振るい、首をもたげた。
ひげがたるんでみんな前を向き、開いた目も眠たげだ。うんと前足を伸ばしてあくびをし、後ろ足をたたんできちんと座った。
「なんだい、坊や。そんなに急いでさ」
大急ぎで庭を駆け抜けたマモルは、縁側の下に潜り込んでから顔だけを出した。
「人間に見つかったら大変だもの。あー!おじさん、そんなにのんびり歩いてたら丸見えだよ」
「速く走れば消えるってわけでもなかろうに」
上からナオ子の艶っぽい声が聞こえる。
ナオ子は見たところ若く見えたが、声には大人らしい落ち着きがあって、どこかはすっぱな印象がある。
なんだか色っぽいお姉さんだなあ、とマモルは板一枚隔てて漂ってくるいい匂いに瞬間うっとりしてしまった。
「お姉さんがナオ子さん?」
「よく知ってるね。あのエロぎつねに訊いたのかい?」
ナオ子はくつくつ笑う。「坊やは?」
「マモル」
名乗ってから、マモルはおや?と思った。
「今、きつね、って言った?」
「コン吉のことだよ。あいつ、あたしのこと狙ってんのさ。いぬ科のくせに、ねぇ」
「いぬ?」
「ああ、野生系の子供じゃわかんないかね。カンドゥスだよ。人間はやつらをいぬって呼ぶのさ。きつねは、あたしらねこより、いぬの血筋に近いからねぇ」
訊きなれない言葉が頭の中でぽんぽん跳ね回っていた。
いぬ、ねこ、きつね。
血筋の話はお父さんに聞いたことがあるので理解できなくもない。
わからないのは、耳慣れない人間の言葉をすらすらと並べ、笑っているナオ子の態度だ。
「ナオ子さんは平気なの?」
少し間があって、上がっておいでよ、とナオ子の声が降ってきた。
「辺りに人はいない。そんなところで亀みたいに縮こまってたんじゃ、話なんかでないよ」
おじさんは、と見ると、呑気に畑の作物へ鼻をくっつけている。
度胸があるなあ、とマモルは感心してしまった。
縁側に飛び乗ったマモルを、ナオ子はうずくまって見ていた。マモルが気恥ずかしくて首をすくめると、楽しそうに尻尾を振るう。
「この辺りじゃたぬきが珍しいってこともないけど、子たぬき一匹ってのはあまり見ないね。親とはぐれたのかい?」
「おじさんに会いに来たんだ」
ああ、とナオ子は畑のコン吉を見やり、まだ眠いのか一つあくびした。
「そういや、あいつのホラ話を聞きにくる子供がいるようだね。
けど、一匹で里まで降りてくるなんて、度胸は買うけど感心はできない。
次に来るときは、友達をたくさん連れてきなよ」
「ナオ子さん、やさしいんだね」
「なに言ってんだい。人間に見つかったとき、友達を犠牲にしな、って言ってるのさ」
マモルは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
人に見つかったとき、カンドゥスに追われたとき、けして後ろを振り返ってはならない、と巣では教えられる。たとえ友達がいても、親や兄弟がいても、気にせず全力で走りなさい、と。彼らの一匹が犠牲になっている間に、逃げなさい、と。
もっとも、マモルはそこまでの危険に遭遇したことがなくて、訓戒もただのお話という感覚なのだが、初めて会った動物にさらりと言われると胸がドキッと跳ねてしまう。
もう、スグルくんと山を降りるのはよそうかな。
ナオ子は、マモルのよく動く表情を目を細めて観察している様子だ。それで、と、マモルの動揺がおさまった頃に口を開いた。
「なにが平気だって?」
「あ、そうだった。ナオ子さんに、聞きたいことがあったんだ」
ナオ子はちょっ、と起き上がって右前足を舐め、それで顔を洗ってまたうずくまった。さっきよりしゃんとした顔になった。
「ナオ子さん、ねこ、って呼ばれてるんでしょう?そのことで、腹が立ったり、悔しくなったりしないの?」
「なんで?」
逆に聞き返されて、ただでさえ色っぽいお姉さんの前というのでうろたえているというのに、マモルはさらに慌てた。
「だって、お父さんもそうだし、コン吉おじさんも、悪い名前で呼ばれて怒ってるみたいだし」
ふうん、とナオ子は作物に噛み付いているコン吉を流し見て、小さく鼻を鳴らした。
「あのコン吉になに言われたの」
「え。ええと・・・」
コン吉から聞いた話をあらかた話すと、ナオ子はフーッと不機嫌そうに息を吐き出し、しばらくコン吉を睨んでいた。
「子供になんてこと吹き込むんだい、あのエロぎつね。
いいかいマモル、あのくそぎつねの言うことなんか、真に受けちゃいけないよ。
あいつはね、いっぱしの思想家ぶったテロぎつねで、ホラで女子供騙すたらしのエロで、ただメシ食らいの大泥棒なんだ」
喋っている間に感情が高ぶっていったのか、ナオ子はやおら立ち上がると、畑を掘り返しているコン吉へ鋭く叫んだ。
「そのくらいにしときなッ。
あんた誰にメシ食わせてもらってると思ってんだい。じいさんばあさんが汗水垂らして丹精込めたその畑が食い扶持だって、わかんないわけじゃないだろ。
そういうのを無差別テロって言うのさ。
人間が憎けりゃ都会に行って堂々と相撲してきたらどうなんた、ぇえ」
突然の啖呵にぽかんと口を開けていたコン吉は、すぐにクワと牙をむき出して
「なんだとこのあばずれが」
と姿勢を低くかまえた。
ナオ子の方も、なんだい、と上体を屈め、尻を左右に振ってリズムを取り、威嚇している。
マモルがおろおろしていると、真っ先にナオ子が気付き、次いでコン吉がなにやら察したようだ。
コン吉はさっと身を翻し、ナオ子は、マモルの首筋をくわえて縁側を飛び降りた。