蝉蛻(せんぜい)
「音に関してでしたっけ?」
「いやー、この時期になると、どうしても思い出してしまいますね。だいぶ前の話ですが、あの瞬間の空気と音なら未だに鮮明に思い出せます」
「いや、いますよ、職業ら、そういうことにでかすのは、ただあれは別格だったなぁ」
「他のものとは毛色が違うというかなんというか、異質なんです」
その日は、特に何も無く穏やかな日だった。通報がないということは平和な証拠であると言えるのだが何もないとそれはそれで暇なのだ。
だからパトロールに行こうと考えるがそれもこの炎天下の中自転車を漕ぐ気分にはなれない。交番の中で扉を閉めて外をぼんやり眺める。小さい頃、入道雲が美しく見えた地元と違って都会では空を遮るビル群で気が滅入る。
などと考えていると通知音がなる。
「警視庁から迅海、110番騒音の苦情。場所迅海2丁目コーポラス桜花202号室からセミの鳴き声と異臭がずっとすると通報者女性から…」
「あ、私行きますよ」
交番でいちばんの若手である私は50代の巡査長にそう言った。
「大丈夫?忘れ物しないでよ」
「流石にもう大丈夫ですよ」
元気よく答え自転車を軽快に漕ぎ出す。
通報内容的にセミの鳴き声に関してはこの手の騒音苦情でよくある環境音に敏感な人が110番をしたケースだと考えられるが、問題は異臭。
最悪の場合人が亡くなっている場合がある。
「だとしたら最悪だけど…」
などと考えているうちに到着。
アパートは薄暗い住宅地の中にあり、周辺の木々が生い茂るせいで昼間でも薄暗い。
通報者の部屋にまず訪問する。
「ああ、お巡りさん。するでしょ隣からセミの鳴き声と臭い」
確かに臭いはする。しかし、セミの鳴き声はうるさい程のものではない。環境音程度といったところ。
隣からというか建物周りの生い茂った木々から聞こえてくる。
音に敏感なだけでは?
返事をせずに話題を変える。
「お隣さんを見たのはいつ?」
「ここ最近は見ないねぇ」
「そうですか」
これはまずい。最悪の予想がチラつきながらも件の部屋の前に立つ。重々しい気持ちの中、インターホンを押す。
「はい」
予想に反して返事が聞こえた。
ゆっくりと玄関扉が開くと、身長160くらいの白タンクトップの老人が隙間から覗いてきた。それと同時にえも言われぬ臭さが鼻を突き抜ける。
「どなた?」
「どうも、こんにちは私、迅海警察署の鷹取と申します」
「はあ」
「ちょっとね110番で通報が入って、ここら辺で臭いがすごくするからどのお部屋からするのか確認してるんです」
「はあ、そうなんですか」
男の後ろに見える部屋は1部しか見えないが随分と散らかっているようだった。
「ちょっと中見て確認してもいいですかね?」
「あっ、どうぞ、どうぞ」
こういう手合いの人はあまり反発してはこないから、訪問するのが非常に楽だ。
これは予想できたことだが。
部屋の中身は案の定、床一面ゴミだらけ。台所にも食器は溜まっているし、食べかけのものが机の上に散乱している。そして一部は腐っている。
正直鼻が曲がり、込み上げてくるものを必死で抑えた。
「ちなみに、お巡りさん、何の御用で?」
「ですから110番で通報が…」
「あっ、そうなんですか。ごゆっくりどうぞ」
こりゃボケ入っているなこの人。なんとなく察してたけど。
「おじいさん、失礼なこと聞くんですけど」
「はい、なんでしょう?」
「ご家族の方とか、もしくは介護の方って、週何日で来ているんですか」
「あー、娘と一緒に暮らしております」
「あっ、娘さんいるんですねー」
「奥の部屋で、今寝てますよ」
「奥の部屋…」
リビングの奥に部屋がふたつ。ひとつは扉が全開で、テレビと小さなちゃぶ台がゴミに埋もれている。
もう一つは扉が閉まっていて、明かりがなく、すごく暗い。
「失礼しまーす」
恐る恐る扉を開ける。
中はカーテンが閉め切っているが、この真夏の日差しがカーテンの隙間から漏れていた。
よく見ると、カーテンレールに何かが巻き付いてあり、それの重さで少し曲がっていた。
それはよく見ると、ピンと張っている麻縄だった。
張った縄の先にはゴミ山が盛られている。
違和感しかない。
動悸が止まらないのは最悪の予想が頭をよぎったからだ。異臭のせいで口呼吸をしていたが、確認のために少し嗅ぐ。
タンパク質が腐敗した独特の腐敗臭。
この臭いには覚えがある。
ゴミ山をかき分ける。
それを見た時、よく周りの音が聞こえたのを覚えている。
ミーンミンミンミンミンミン
ギイギイイ
麻縄がよく軋む。
「これは…」
「お巡りさん、どうされました?」
「どうされましたって、あなたこれ…」
「あ、娘ね、なかなか起きないんですよね」
「…」
まるで土下座をするかのような正座で座っている。
縄で首が直角に曲がっている。夏なのにひんやり冷たい。
もはや黒くなっていて、元の姿はよく判別できない。
「とりあえず、救急車を」
「娘がどうかしましたか?」
「とりあえず、ここにいて」
「はあ」
開いた口が塞がらない、恐怖で震えが止まらない、本人は認知症だからか、自覚できないのか。だとしてもこの状況はあまりにも衝撃であった。
そこからはあっという間だった。
救急隊が来て、死亡が確認されて刑事が来て所定の手続きをさっさと済ませた。
その場にいたおじいさんは、本来なら死体遺棄で書類送検されるが何しろ認知症。刑事責任能力がないとして不起訴処分になった。
しかし、色々不可解な点がある。
娘は死後二週間経っていた。
にもかかわらず本人のスマホに入っていた日記アプリの更新が発見日まであったこと。
これは予約投稿していたと説明できるが、発見日以降投稿がされていない。
偶然にしてはできすぎている。
では、おじいさんがやったと考えられなくもないが、おじいさんは既に五年前から認知症の判定を受けており、その線も薄い。
そして日記の内容だ。この内容はまるで自殺を示唆するかのような暗い内容ではなく、至って普通の内容であり、まるで昨日まで生きていたかのような内容であった。
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◎月◎日
ケアマネジャーさんが巡回に来てくれる日。短時間でも第三者が入ってくれると、ピンと張り詰めていた部屋の空気感がふっと緩む。父さんも外の人の前では少し余計にしっかりしようとするのがなんだかおかしい。「娘にはいつも世話になってます」なんて言われて、胸の奥が少しキュッとした。普段は小言ばかり言ってしまうけれど、大事にしなきゃなと改めて思う。
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また、身辺調査の最中スマホの日記アプリの中に無題ファイルが入っており不可解なリストがあった。
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暴力 ×1
暴言 ×2
徘徊×2
介護拒否 ×1
妄想 ×4
尿失禁 ×5
睡眠障害 ×1
異食×2
大声(自己)×1
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不可解ではあるものの結局、これ以上のことは何も発見できず、証拠などにもならなかった。よって、この事件は。 このまま闇に葬られ、おじいさんは不起訴のまま、今は施設に預けられた。
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「503号室からずっと話し声とセミの鳴き声が聞こえるって苦情が」
「あーあ、無視しとけ」
「でも、これで何件目ですか?」
「……」
「やっぱりおかしいですって」
「じゃあ、あの人だけ別室送りにすっか?」
「前もそれで揉めたって」
「でも、前確認しに行った時や、音は鳴らなかったんだろ?」
「そうですけど」
「いいか、そういうのはなぁいちいち首突っ込まない方が身のためだぞ」
「……」
「いいから、とっとと持ち場戻れよ」
「…はい」
ミーンミンミンミンミンミン
「パパがついてるよ」




