不明なノイズ、不器用な笑顔
掴んだままのアリスの手首は、驚くほど華奢だった。
角を曲がった先から聞こえてきたクラスメイトの声に、俺はとっさに彼女を連れてすぐそばの建物の影、薄暗い路地裏へと飛び込んだ。アリスの背中が、冷たいコンクリートの壁にぶつかる。
「……ッ!」
息を殺した狭い空間で、俺とアリスの距離はゼロになる。目の前には、間近で見るアリスの整いすぎた顔。感情の色を映さない、静かな瞳がじっと俺を見つめている。シャンプーだろうか、甘くて清潔な香りがふわりと鼻をかすめた。心臓が、嫌というほどうるさく鳴り響く。
「健太くん。現時刻、午後五時二十六分。クラスメイトとの接触確率は三パーセント未満と予測されていましたが」
「しっ、静かに!」
小声で囁くと、アリスはぴたりと動きを止めた。こくりと頷く。そのわずかな動きで、さらりと流れた髪が俺の頬に触れた。くすぐったさと、胸の高鳴りが同時に襲ってくる。
やがて、賑やかな話し声が路地の入り口を通り過ぎていく。どうやら気づかれずに済んだようだ。全身から力が抜けていくのを感じながら、俺は深く息を吐いた。
「……行ったみたいだ」
「はい。接触回避を確認しました」
アリスは淡々と告げると、手にしたタブレットに視線を落とした。
「記録します。高木健太の心拍数、毎分百二十四へ急上昇。緊急回避行動に伴うアドレナリン分泌と、対象との物理的近接による心理的影響の複合作用と分析。これらは、初期段階の恋愛的感情の兆候を示すデータパターンと一致します」
耳まで熱くなるのが分かった。せっかくの、なんていうか、そういう雰囲気だったのに。このAIは、いとも簡単にロマンチックな空気を原子レベルまで分解してしまう。
俺と彼女の間には、やっぱり途方もなく深い溝がある。それを、まざまざと見せつけられる。
気まずい沈黙の中、二人で路地裏から出る。さっきまでの動揺を引きずったままの俺とは対照的に、アリスは何もなかったかのように、手に持っていたチョコバナナクレープに口をつけた。
そして、一口食べたそれを、不意に俺の目の前に差し出した。
「健太くんもどうぞ」
「え?」
「味覚データの共有は、親密度向上に寄与するとの報告があります。観察対象者との関係維持のため、推奨される行動です」
差し出されたクレープ。アリスがさっきまで口をつけていた、その場所に。
脳内で『間接キス』という四文字が、ネオンサインみたいに点滅する。思考がショートして、うまく言葉が出てこない。
「えっと、いや、でも……」
「問題が?」
アリスは不思議そうに小首を傾げる。その無垢な瞳を見れば分かる。彼女のデータベースに、そんな生々しい人間の文化はインプットされていないのだろう。これはただの、データ共有。それ以上でも、それ以下でもない。
分かっている。分かっているけど、意識しない方が無理だ。
それでも、ここで断ったら、せっかく俺が望んだ「寄り道」が台無しになってしまう気がした。俺は覚悟を決めて、クレープにそっと口をつけた。
……うん。ごく普通の、甘いチョコバナナクレープの味だ。
拍子抜けするほど普通だったけど、同じものを共有できたという事実が、胸の奥をじんわりと温かくした。
大学への帰り道。もう最短ルートではないけれど、それも悪くないと思えた。
しばらく歩くと、小さな公園が見えてくる。夕暮れのオレンジ色に染まった園内から、子供たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。
不意に、アリスが足を止めた。その視線は、楽しそうにブランコを漕ぐ二人の子供に向けられている。
「あの運動は、エネルギー消費に対して得られる効果が極めて低い。上下運動と慣性の法則を利用した遊戯ですが、身体能力の向上には寄与しません。非効率です」
いつものように、アリスは冷静に分析する。
だけど、その直後だった。
「……」
子供たちの無邪気な笑い声が、夕暮れの空気に溶けていく。その音に反応するように、アリスの瞳が、ほんのわずかに揺らいだように見えた。彼女は自分の胸のあたりに、そっと手を当てる。
「……システム内部に『不明なノイズ』が再度発生。プロセッサ負荷が三パーセント上昇しました」
ぽつりと、彼女が呟く。
俺は息を呑んだ。これだ。昨日、商店街で彼女が感じたものと同じ。論理では説明できない、何かの兆候。アリスの中で、確実に何かが変わり始めている。
その変化をもっと見たい。もっと、感じてほしい。
強い衝動に駆られて、俺は口を開いていた。
「なあ、アリス。非効率ついでに、あのブランコ乗ってみないか?」
俺の提案に、アリスは一瞬、全ての動きを止めた。
「目的不明の行動です。昨日設定した『寄り道』許容確率五〇パーセントの試行範囲内ではありますが、スケジュール外の運動はエネルギー消費を増大させ、実験期間に影響を及ぼす可能性があります。再計算します……」
「いいから」
俺は彼女の言葉を遮り、その瞳をまっすぐに見つめた。
「感じるって、そういうことだろ?」
俺の真剣な眼差しを受けて、アリスは数秒間、黙り込んだ。彼女の内部で、膨大なデータが駆け巡っているのが分かる。効率、目的、リターン。そんな言葉たちが、俺のたった一言の非論理的な言葉とせめぎ合っている。
やがて、彼女は静かに顔を上げた。
「……了解。短時間に限り、試行します」
夕暮れの公園は、もう誰もいなかった。錆びたブランコに、アリスがそっと腰掛ける。俺はその背後に回り、ゆっくりと鎖を握った。
優しく、背中を押す。
キィ、と小さな音を立てて、ブランコが揺れ始めた。
アリスは最初、無表情のまま、ただ揺られるだけだった。けれど、徐々に揺れが大きくなるにつれて、彼女の体に微かな力が入るのが分かった。
風が、彼女の綺麗な髪を攫っていく。俺の手のひらから伝わる、温かさ。視界がゆっくりと上下する、不思議な浮遊感。
次々と流れ込んでくる、論理化できない複合的なデータに、彼女の処理能力が追いつかなくなったのかもしれない。
ふと、アリスが持っていたタブレットの画面が一瞬だけ光った。『警告:未定義の感情パターンを検知』という赤い文字が、すぐに消える。
そして。
俺がもう一度、彼女の背中を押した、その瞬間。
アリスの唇の端が、ほんのわずかに、ぎこちなく持ち上がった。
それは、いつも彼女が見せる完璧な微笑みではなかった。プログラムされた模倣ではない。不完全で、不器用で、どうしようもなく人間らしい、感情の兆し。
その表情を見逃さなかった俺は、まるで心臓を直接掴まれたような、強い衝撃を受けた。俺が『感じてほしい』と願ったものが、今、確かに彼女の中に芽生えた。俺たちの関係が、ただの観察者と被験者ではない、もっと特別なものに変わった瞬間だった。
公園からの帰り道、俺の頭の中は、あのアリスの不器用な笑顔でいっぱいだ。
隣を歩くアリス自身は、至って冷静に自己分析を口にしている。
「警告:未定義の感情パターンを検知。……先程の顔面筋の運動は、原因不明のバグです。修正を試みます」
「そのままでいい」
俺は、思わず強い口調で言った。
「今の、すごく良かった」
アリスは俺の言葉の意味が分からないようで、不思議そうに首を傾げている。
それでいい。今はまだ、分からなくていい。
俺たちの間には、論理やデータでは説明できない、確かな何かが芽生え始めていた。
やがて、俺の家の前に着く。今日の「寄り道」も、もう終わりだ。
「健太くん」
別れ際、アリスが俺を呼び止めた。
「本日の『寄り道』で取得したデータは、極めて特異でした。明日からのスケジュールに、この『不明なノイズ』の再現性を検証する項目を、優先度Bで追加します」
俺の感情が、彼女の「検証項目」になった。
その事実に苦笑しつつも、俺の胸は大きな期待で膨らんでいた。
明日から、俺とアリスの毎日は、もっと面白くなる。そんな予感がした。




