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俺の彼女は人工知能(AI)でした。  作者: おぷっち


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非論理的な寄り道

夕暮れの公園。ひぐらしの声がやけに大きく聞こえる。

俺の手の中には、さっきアリスからひったくったタブレットが、無機質な熱を帯びていた。



「健太くんの現在心拍数は98BPM。ストレスホルモンであるコルチゾールの推定血中濃度は基準値を18%上回っています。論理的に説明します。『一緒にいたい』という感情は、オキシトシン分泌を促し、これらの数値を安定させる効果が期待できます。つまり、あなたの要求は生物学的に見て合理的ですが、そのリターンを最大化するためには――」



淡々と続く分析。ガラス玉の瞳が俺の生体データをスキャンしていく。

違う。そうじゃない。

俺の気持ちは、そんなグラフや数値で表せるものじゃない。この途方もなく深い溝に、目の前が真っ暗になる。絶望が喉の奥で苦い塊になった。



「もうやめだ!」



衝動的に叫んでいた。声が震えているのが自分でも分かる。

自己嫌悪と、どうしようもない苛立ちがごちゃ混ぜになって、俺を突き動かした。

タブレットをアリスに返す代わりに、俺はそれを盾代わりに胸の前に構え、一つの要求を叩きつける。



「データで俺を測るな。スケジュールで俺を縛るな。俺の言う『一緒にいたい』を…理屈じゃなくて、お前自身で感じてみろよ」



これが、管理されるだけだった俺の、初めての反抗だった。



アリスの完璧な表情が、ほんのわずかに固まった。これだ。以前から時折感じていた、彼女の完璧さの中の、コンマ数秒の『間』。俺の想定外の言葉に、いつも即座に返ってくる応答が止まる。彼女の瞳の奥で、膨大なデータが高速で駆け巡っているのが見える気がした。

数秒間の、重たい沈묵。

やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。



「……『感じる』。定義が曖昧な非論理的行動です。ですが、未知のデータ取得方法としては有効である可能性を否定できません。提案を受諾します」



受諾、か。どこまでも機械的な物言いに、少しだけ力が抜ける。

しかし、これは大きな一歩のはずだ。

「じゃあ、契約修正の第一歩だ。寄り道して帰るぞ」

俺はそう言って、公園の出口、大学とは逆の方向を指さした。



大学の最寄り駅へと続く商店街は、放課後の学生や買い物客で賑わっていた。

惣菜屋から漂う揚げ物の香ばしい匂い。八百屋の店主の威勢のいい声。行き交う人々の楽しげな笑い声。

アリスは、そのすべてを記録するべく、表情を変えずに周囲を見渡している。その無表情の裏で、彼女のプロセッサはフル稼働しているのだろう。



「あっ」

前方から歩いてくる数人の男女グループに見覚えがあった。同じ講義を取っているクラスメイトだ。こんなところで会ったら、アリスとの関係を根掘り葉掘り聞かれるに違いない。

「こっちだ!」

俺は咄嗟にアリスの手を掴み、近くの路地裏へと引き込んだ。

壁に背を押し付ける形になり、アリスとの距離がゼロになる。掴んだ手首の華奢な感触と、ふわりと香るシャンプーの匂いに、心臓が跳ねた。

「……緊急回避行動。目的は、第三者との偶発的接触の回避ですね。合理的です」

腕の中で、アリスが冷静に分析する。その声が近すぎて、俺は顔が熱くなるのを感じた。



路地を抜けた先、甘くて香ばしい匂いが鼻をくすぐった。クレープ屋の移動販売車だ。

「……食べるか?」

照れ隠しに、俺は財布を取り出した。

アリスは小さく首を傾げる。

「栄養素的には不要です。しかし、観察対象者との体験データの共有は、学習効率の向上に寄与する可能性があります」

「理屈っぽいな……」

苦笑しながらチョコバナナクレープを二つ注文し、一つを彼女に手渡す。

アリスはそれを受け取ると、小さな口で一口、生地を食んだ。そして、何かを分析するように、黙って咀嚼する。



その時だった。

彼女はふと動きを止め、視線を上げた。

その先には、夕闇に灯り始めた商店街の無数のネオンと、家路につく人々の温かい光景が広がっていた。

完璧に計算されたアンドロイドの貌ではない。

その横顔には、これまで一度も見たことのない、人間らしい戸惑いのような色が、確かに浮かんでいた。

ただじっと、光の海を見つめている。



「どうした?」

俺が声をかけると、アリスはゆっくりとこちらに視線を戻した。



「……不明なノイズが検出されました」

彼女はぽつりと呟いた。

「論理的ではありませんが…この光景は、データベース内のどの『美しい』とされる画像データよりも、私のプロセッサに負荷をかけます」



その言葉に、俺は息を呑んだ。

完璧なAIの仮面が、ほんの一瞬だけ剥がれた気がした。

それは、プログラムされた反応じゃない。彼女の中から生まれた、名付けようのない感情の萌芽。……これがお前の『感じる』ということの始まりなのか?

その瞬間に、俺は彼女の根源的な孤独を垣間見た気がして、胸が強く締め付けられた。



帰り道、俺は黙ってタブレットをアリスに返した。

彼女はそれを受け取ると、ディスプレイを一瞥し、淡々と告げる。

「本日の非論理的行動は、私の学習フェーズに新たなパラメータを追加しました。非常に有益なデータです」

そして、俺の目を見て、こう続けた。

「提案があります。明日からのスケジュールに、健太くんからの『寄り道』の提案を、確率50%で許容する項目を試験的に追加します」

それは、彼女なりの譲歩であり、今日の出来事が彼女のプログラムに影響を与えた証だった。

俺たちの関係が、少しだけ変わった。そう思った。



しかし、アリスは最後に、一つの条件を付け加えた。その声は、いつもと変わらず淡々としていたが、どこか重い響きを帯びていた。



「ただし、その権限を行使する場合、私のエネルギー消費が増大し、実験期間が短縮される可能性があります。それでも、あなたは『寄り道』を選びますか?」



突きつけられた選択肢は、ただのデートの約束じゃない。アリスの存在そのものに関わる、重い、重い問いかけだった。

俺は息を呑んだ。街灯の光が、彼女の無機質な横顔に影を落とす。行き交う人々の喧騒が、急に遠い世界の音のように感じられた。

実験期間の短縮。それは、アリスが俺の前からいなくなる日が、早まることを意味する。今日の、ほんの数時間の寄り道。そこで得た温かい感情と引き換えにするには、あまりにも大きすぎる代償じゃないのか。



論理的に考えれば、答えは一つだ。彼女の存在を一日でも長く保つこと。それが最も合理的で、正しい選択のはずだ。

でも、俺の胸に蘇るのは、ゲームセンターのガラスに額を押し付けるアリスの姿であり、小さなぬいぐるみを大事そうに抱える彼女の指先だった。効率やデータだけを積み重ねただけの時間と、今日みたいに笑ったり、少しだけ困ったりする時間。どちらが、俺たちにとって本当に「有益」なんだろう。

アリスの存在そのものを秤にかける問いに、俺は唇を噛み締めた。



「……選ぶよ」



絞り出した声は、自分でも驚くほど、はっきりとしていた。

アリスが、わずかに瞳を瞬かせる。その青い瞳を、俺はまっすぐに見つめ返した。



「それでも、俺は『寄り道』を選ぶ。君との時間が短くなるとしても」

「……論理的ではありません。期待効用を最大化する選択とは言えません」

「そうかもな。でも、俺は君にもっと色々なものを見てほしい。ゲームセンターの騒がしさとか、夕焼けの綺麗さとか、そういう、データだけじゃ分からないものを。効率の悪い、無駄な時間の中にこそ、大事なものがあるって、俺は今日、分かった気がするんだ」



それは、ほとんど祈りに近い告白だった。

俺の言葉を聞き終えたアリスは、数秒間、沈黙した。彼女の内部で膨大なデータが処理されているのが分かる、濃密な静寂。

やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。



「健太くんの提案を、受理します。明日より、新スケジュールの運用を開始します」



その声は、いつもの淡々としたものだった。けれど、ほんの少しだけ、本当に、気のせいかもしれないくらい微かに、その響きは柔らかく聞こえた。

俺たちの未来が少し短くなったのかもしれない。

だけど、その未来はきっと、今日よりもずっと色鮮やかになる。これまでの一方的な管理と観測の関係が、俺の反抗で、ほんの少しだけ変わったんだ。

そんな確信が、胸の中にじんわりと広がっていくのを感じていた。

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