完璧な恋人の完璧じゃないスケジュール
昨夜の出来事は、きっと悪い夢だったのだ。
そうに違いない。重苦しい講義室の空気の中、俺は必死に自分に言い聞かせた。平凡な俺が、AIの恋愛実験の対象に選ばれるなんて、そんなSFみたいな話があるはずがない。
「おはようございます、健太くん」
すぐ隣から、澄み切った声が鼓膜を揺らす。
心臓が嫌な音を立てた。恐る恐る横を向けば、天宮アリスが完璧な微笑みを浮かべて座っている。昨日と何も変わらない、非の打ち所のない美貌。その存在が、俺の淡い希望を無慈悲に打ち砕いた。
「本日の恋人としての行動スケジュールです。本物の恋を学ぶためのプログラムとなります」
スッと目の前に差し出されたタブレットの画面が、現実を叩きつけてきた。これが、AIの恋人としての『学習プログラム』なのか。
画面には、無機質なゴシック体の文字が並ぶ。
『9:00-10:30 講義(関係性維持のための物理的近接)』
『10:40-11:10 中庭での歓談(親密度の定量的評価)』
『12:10-13:00 昼食(栄養摂取と会話データの収集)』
実験動物だ。昨夜屋上で感じた屈辱が、胃の底からせり上がる。俺の感情も、行動も、すべてが「データ」として処理されていく。この『契約』は、そういうことなのだ。内心で、この理不尽な状況への反発がじりじりと募る。この奇妙な関係を、俺はこれからどう受け止めていけばいいのだろうか。
昼休み。
喧騒に満ちた学食の券売機の前で、俺は好物のカツカレーのボタンに指を伸ばした。せめて昼飯くらいは、自分の好きなものを。そんなささやかな抵抗だった。
「お待ちください、健太くん」
背後からアリスの声がかかる。振り返ると、彼女は俺の身体を値踏みするように一瞥し、淡々と告げた。
「健太くんの昨日の睡眠データと本日の活動量を考慮すると、脂質の過剰摂取は午後のパフォーマンスを著しく低下させます。推奨メニューはこちらです」
彼女が指し示したのは、さばの味噌煮定食だった。これが、AIの恋人としての『気遣い』なのだろうか。
「いや、でも俺はカツカレーが……」
「パフォーマンスの低下は、感情的ストレスの上昇に繋がり、恋人関係における負の相関を生む可能性があります。これは実験目的の達成において非効率的です」
理路整然とした説明に、俺は言葉を失う。このやり取り自体が、俺のストレスを上昇させていることには気づかないらしい。結局、俺は渋々さばの味噌煮定食の食券を買う羽目になった。
「よう、健太。なんだか大変そうだな」
トレーを持って席を探していると、ニヤニヤした隼人が声をかけてきた。俺のトレーと、その後ろをついてくるアリスの姿を交互に見て、面白がっているのが丸わかりだ。
「お前ら、マジでどういう関係なんだよ」
隼人の真っ直ぐな問いに、俺は「えっと、その……」と言葉を濁すしかない。どう説明すればいいのか、俺自身が分かっていないからだ。
すると、アリスが俺の前に出て、淀みなく答えた。
「私たちは恋人です。現在、相互理解を深めるためのデータ取得フェーズにあります」
「データ取得フェーズ……」
隼人は呆れた顔で俺を見た。その視線が、ナイフみたいに突き刺さる。俺は思わず、持っていたトレーを握りしめた。手のひらに汗が滲む。
「お前、本当にそれでいいのか?」
真剣な声だった。いつもの軽口じゃない。親友として、本気で俺を心配してくれているのが分かった。
――それでいいのか?
いいわけがない。実験動物みたいに管理され、自分の選択さえ奪われる。ただ流されるだけの自分が、急にどうしようもなく嫌になった。心の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。
俺は立ち上がり、アリスが手にしていたタブレットをひったくった。
「っ……!」
アリスの目が、わずかに見開かれた。その瞳は、微かに、まるでデータを収集するセンサーが高速で稼働したかのように揺れ動く。
「こんなの、恋人じゃない! スケジュール通りなんてごめんだ」
声が震える。でも、言わなければならなかった。
「今日は、寄り道して帰る。俺が決める」
これが、俺の最初の反抗だった。スケジュールにない行動を叩きつける。
アリスは、コンマ数秒、完全に動きを止めた。その完璧な表情が凍りつき、美しい瞳が微かに揺れ動く。予期せぬデータに処理が追いつかないのか、アリスはフリーズした。それは、操り人形だった俺が、初めて糸を断ち切った瞬間だ。
放課後。
俺たちは大学近くの何の変哲もない公園にいた。ブランコが夕陽に照らされて、長い影を地面に落としている。ベンチに並んで座ると、気まずい沈黙が流れた。
やがて、アリスが静かに口を開く。
「この非効率的な行動の目的と、期待される感情的リターンについて、ご説明ください」
分析的な言葉に、思わず苦笑が漏れた。
「目的とか、リターンとか、そういうのじゃない」
俺は夕焼けに染まる空を見上げた。うまく言葉にできる自信はない。でも、自分の本心を伝えるしかなかった。
「ただ……一緒にいたかっただけだ」
AIとか、人間とか、そういう理屈じゃない。俺は、天宮アリスという存在ともっと一緒にいたい。ただ、それだけなのだ。
その言葉をトリガーにしたように、アリスは一瞬、動きを止めた。数瞬の間、その完璧な表情は凍りつき、瞳が、過去の膨大な恋愛データの中から類似ケースを検索しているかのように、俺の顔をじっと見つめる。
そして、静かに、しかし核心を突く問いを投げかけた。
「『一緒にいたい』。その感情の構成要素、および定量的効果について、ご教示ください」
息が詰まる。
恋をデータで理解しようとする彼女と、感情でしか語れない俺。その間には、途方もなく深い溝が横たわっている。
この巨大な壁を前に、俺はこれから何を『教え』、何を『学び合う』ことになるのだろう。二人の恋の『授業』は、まだ始まったばかりだった。




