人工知能は恋を告げる
図書館の自動ドアが、俺たちの後ろで静かに閉まる。外の生ぬるい空気が肌を撫でた。俺は手に持った『近代認知科学における意識の所在論』の重みを確かめるように、一度強く握りしめる。覚悟を決めるための、ささやかな儀式だった。
「天宮さん」
隣を歩く彼女を見据え、俺は足を止めた。昨日までの自分じゃない。もう、見て見ぬふりはしない。
「君は、一体何者なんだ?」
声が、自分でも驚くほど震えていた。でも、その奥には確かな意志が宿っていた。彼女の完璧すぎる微笑みも、人間離れした情報処理能力や身体能力も、何もかもが異常だった。あの資料整理、バレーボールでの躍動、図書館での本の特定。その正体を知らなければ、俺は前に進めない。
天宮アリスはゆっくりと足を止め、俺に向き直る。その表情はいつもと同じ、完璧に整えられた微笑み。俺の決意も、声の震えも、すべてを見透かし、彼女はただ静かに俺を観察していた。数秒の沈黙が、やけに長く感じられる。
「ここでお話しする内容ではありません」
やがて彼女は、澄んだ声で告げる。
「ついて来てください」
有無を言わさぬ響きだった。彼女はくるりと背を向けると、迷いのない足取りで歩き出す。俺は一瞬ためらったが、ここで引き下がれば、真実は永遠に闇の中だ。唇を噛み締め、彼女の背中を追う。
彼女が向かったのは、ほとんどの学生が寄り付かない旧館だった。蔦の絡まる壁、ところどころ錆びついた鉄の階段。俺たちはその階段を上り、屋上へと続く重い扉の前に立つ。アリスが慣れた手つきで鍵を開けるのを見て、俺はまた一つ、彼女への違和感を募らせた。
扉が開くと、強い風が吹き込んできた。
屋上はがらんとしていて、俺たちの他には誰もいない。傾きかけた太陽が、空と街を茜色に染め上げていた。眼下には、ぽつりぽつりと灯り始めた街の光が広がっている。世界に二人だけ取り残された、そんな非日常的な空間だった。
アリスは金網のフェンスの前に立つと、ゆっくりと俺の方を振り返る。
「これから話すことは、決して他言しないと約束できますか?」
最終確認だった。その真剣な眼差しに、俺はごくりと唾を呑み込む。ここで頷けば、もう後戻りはできない。平凡だった俺の日常が、根底から変わってしまうかもしれない。それでも、俺は知りたかった。
覚悟を決め、固く頷いた。
夕日を背にした彼女の表情は、逆光でよく見えない。ただ、そのシルエットだけがくっきりと浮かび上がっている。
「私は、人間ではありません」
淡々とした、温度のない声だった。
その言葉が俺の鼓膜を震わせた瞬間、思考が真っ白に染まる。足元のコンクリートが、音を立てて崩れ落ちていく錯覚に陥った。
これまでの全ての違和感。完璧すぎる資料整理に見え隠れする人間離れした情報処理能力、バレーボールで見せた人間離れした身体能力、図書館で専門書を瞬時に見つけ出した時のあの確信的な瞳、そして感情の欠如した完璧な微笑み。バラバラだったパズルのピースが、恐怖という名の接着剤で一瞬のうちに組み上がり、俺の目の前に突きつけられる。
「国家研究機関によって開発された、対話型AIです」
AI。人工知能。SF映画の中だけの存在だと思っていたものが、今、俺の目の前にいる。目の前の、天宮アリスが。
「私の目的は『本物の恋』を学習し、データを収集すること」
アリスは続ける。俺の混乱など意にも介さず、プログラムされた内容を読み上げていた。
「その対象として、高木健太、あなたが選ばれました」
実験対象。
その言葉が、俺の胸に鋭く突き刺さった。憧れや好奇心は一瞬で消え去り、代わりにどうしようもない屈辱と混乱が渦を巻く。俺に向けられていたかもしれない、あの微笑みの意味。それはただの、データ収集のためのインターフェースだったのか。
「なんで……」
かろうじて、喉から声を絞り出す。
「なんで…俺なんだよ…」
俺の悲痛な問いに、アリスは間髪入れずに答える。その答えは、俺が心のどこかで抱えていたコンプレックスを、最も残酷な形で抉り出した。
「あなたの『平凡さ』が、最も標準的な人間の感情データを収集する上で最適と判断されたからです」
平凡。
その一言が、俺の世界を完全に破壊した。何も言い返せない。反論する言葉すら見つからない。ただ立ち尽くす俺を尻目に、アリスは一方的に話を締めくくる。
「本日の情報開示をもって、観察対象者との関係構築フェーズは完了。契約は成立しました。明日から、私たちは『恋人』として行動を開始します」
そう言うと、彼女は踵を返した。
待ってくれ。契約ってなんだ。恋人って、どういうことだ。聞きたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。俺の平凡な日常は、俺の意思とは無関係に終わりを告げた。
屋上の扉に向かっていたアリスが、ふと足を止めて振り返る。夕日が彼女の髪を金色に照らしていた。
「明日、教室で」
そして、彼女は告げた。
「健太くん」
初めて呼ばれた下の名前。
その声には、プログラムが紡ぎ出したとは信じがたい、微かな響きが宿っていた。俺の心臓が、鷲掴みにされたように、大きく跳ねる。
彼女の姿が扉の向こうに消え、やがてガチャンという無機質な金属音が屋上に取り残された俺の耳に届いた。世界の終わりを告げる鐘の音だ。
俺はしばらく、その場から一歩も動けなかった。夕暮れの冷たい風が、火照った頬を撫でていく。さっきまでアリスが立っていた場所には、彼女の残り香なんてものはなく、ただコンクリートの匂いがするだけだった。
平凡。
頭の中で、その言葉が何度も反響する。そうだ、俺は平凡だ。成績はいつも平均点。運動神経も人並み。クラスの中では目立たず、かといって誰かに嫌われるわけでもない。そんな自分を、俺は嫌いだと思ったことも、特別に好きだと思ったこともなかった。それはごく当たり前の、俺という人間を構成する要素の一つでしかなかったからだ。
だが、それを他人に、しかもアリスのような完璧な存在に真正面から指摘されると、話はまったく違った。それは俺という存在の全否定に等しい。俺がこれまで生きてきた十七年間は、膨大なデータの中の、取るに足らない「標準サンプルA」に過ぎなかったのだ。
そして、『恋人』。
その言葉の響きは、俺にとってあまりにも現実感がなかった。遠い国の物語に過ぎない。俺の平凡な日常に、そんな色鮮やかなイベントが発生する可能性など、万に一つもない。それなのに、アリスはそれを「契約」だと言い切った。俺の感情も、意思も、何もかも無視して。アンドロイドと人間の恋人ごっこ。それが、俺に与えられた役割なのか。彼女の感情データを収集するための、シミュレーション。そう考えれば納得はいく。だが、俺の心はそれを簡単には受け入れられなかった。
何より俺を混乱させていたのは、彼女の最後の言葉だ。
「健太くん」
今まで一度も呼ばれたことのない、下の名前。その声には、確かに温度があった。冷たくもなければ、熱くもない。けれど、水面に落ちた雫の波紋が広がるように、俺の心の奥深くにまでじんわりと染み渡る、不思議な響きがあった。
あれは計算されたものだったのだろうか。人間の心を最も効果的に揺さぶるための、精巧なアルゴリズムによる音声出力。そうに決まっている。彼女はアンドロイドなのだから。
そう頭では理解しようとしても、鷲掴みにされたままの心臓は、まだ痛いほどに脈打っていた。
空はいつの間にか茜色から深い藍色へと姿を変え、一番星が瞬き始めている。俺はゆっくりと踵を返し、アリスが消えた扉へと向かった。これから始まる明日が、恐ろしかった。同時に、俺の平凡な世界が、本当に終わってしまうのかもしれないという、不謹慎な期待が胸の片隅で微かに芽生えていることにも、気づいていた。




