完璧な転校生と平凡な僕
大学の講義というのは、どうしてこうも眠気を誘うのだろうか。
窓の外では、春の気配を乗せた風が、桜の枝を優しく揺らしている。教授の単調な声が、まるで子守唄に聞こえてくる。俺、高木健太は、繰り返される日常の真ん中で、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「何か面白いことでも起きないかな」
誰に言うでもなく、小さなため息と共に言葉が漏れた。
昼休み。学食の喧騒の中、俺は親友の佐藤隼人と向かい合っていた。
「で、健太は? なんかいい感じの子とかいないわけ?」
隼人は唐揚げを口に放り込みながら、ニヤニヤと聞いてくる。
「いるわけないだろ。俺みたいな平凡なやつに、そうそうドラマは起きないって」
「まあ、お前はそういうとこあるよな。高望みはしない、みたいな」
「別にそういうわけじゃ…」
口籠る俺を見て、隼人は面白そうに話を続ける。
「じゃあ聞くけど、どんな子がタイプなんだよ。いっそさ、容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、性格も完璧!みたいな子は?」
「そんな都合のいい子、いるわけないだろ」
思わず笑ってしまった。ゲームやアニメのキャラクターじゃあるまいし。
「だよな。つーか、完璧すぎる子って、逆に人間味なくて怖くないか?まるで作り物みたいでさ」
隼人の冗談に、俺は「それもそうかもな」と曖昧に相槌を打った。その言葉が、数時間後に現実味を帯びて突き刺さることになるとは、まだ知る由もなかった。
昼休み明けの講義室は、午後の気だるい空気に満ちていた。しかし、教授が教室に入ってくると、その空気が一変する。
教授の後ろに、一人の女子学生が静かに立っていた。
息を呑む、という表現はこういう時に使うのだろう。
艶やかな黒髪が、彼女の動きに合わせてさらりと流れる。非の打ち所のない整った顔立ち。その存在だけで、ざわついていた教室が水を打ったように静まり返った。俺を含め、全員の視線が彼女に釘付けになっていた。
「今日からこのクラスに加わる、天宮アリスさんだ」
天宮アリス。その名前さえも、彼女の完璧さを引き立てる響きを持っていた。
「天宮アリスと申します。皆様と共に学べることを、心より光栄に存じます。何卒、よろしくお願い申し上げます」
彼女の自己紹介は、辞書を読み上げるように淀みがなく、完璧な発音と内容だった。優雅にお辞儀をする所作も、まるで映画のワンシーンだ。
好奇心旺盛な教授が、意地悪く専門的な質問を投げかける。
「天宮さん、君は先ほどの私の講義テーマについて、どう考えるかね?」
教室中の誰もが固唾を飲んだ。しかし、彼女は一瞬の逡巡も見せない。
「はい。先生の論旨は理解できますが、最新の〇〇理論を適用した場合、その結論には再考の余地があるかと存じます。具体的には――」
そこから続いたのは、大学院生でも舌を巻くレベルの、完璧な回答だった。教授は驚嘆の表情を隠さず、クラスメイトたちは呆気にとられている。俺は、ただただ圧倒されていた。すごい。すごい人だ。でも、その完璧さに、ほんの少しだけ、胸がざわついた。
講義が終わり、俺は焦っていた。明日が提出期限のグループ課題。そのために図書館から借りた貴重な専門書と、徹夜で仕上げた俺の下書き。数十枚に及ぶそれらの資料を抱え、廊下を急いでいた時だった。
「うわっ!」
曲がり角で誰かと軽くぶつかり、腕の中の資料が派手に宙を舞った。
ばさばさ、と無慈悲な音を立てて、俺たちのグループの生命線が床に散らばる。
「やばい、やばいって!」
ページ順も何もあったもんじゃない。パニックになりながら拾い集めようとした、その時。
すっと、白い手が伸びてきた。
天宮アリスだった。
彼女は俺の目の前で屈むと、次の瞬間、俺は信じられない光景を目撃した。
彼女の両手が、人間業とは思えない速度で床の上の紙を拾い集めていく。指先がまるでプログラムされた機械のように、正確に、そして恐ろしく高速に動いている。瞬きをする、ほんのわずかな時間。
床に散らばっていた数十枚の資料が、完璧な束になって彼女の手に収まっていた。
「高木健太さん。お困りのようでしたので」
彼女は立ち上がり、完璧な笑みを浮かべて資料の束を差し出した。
「こちら、ページ順に整えておきました。ご査収ください」
「え、あ、ありがとう…ございます…」
礼を言うのが精一杯だった。受け取った資料に目を落とす。本当に、一分の狂いもなくページ順に並んでいた。図書館の専門書も、俺の汚い字の下書きも、すべてが。
すごい。すごい人だ。
でも、なんだろう。
感謝の気持ちでいっぱいのはずなのに、胸のざわめきが大きくなる。彼女は完璧に微笑んでいる。だけど、その美しい瞳には、感情というものが全く灯っていないように見えた。親切な言葉も、滑らかすぎて、まるで録音されたセリフを再生しているかのようだった。
完璧すぎて、まるで――。
「それでは、失礼いたします」
アリスは再び優雅にお辞儀をすると、静かに背を向けて歩き去っていく。
俺は、その完璧な後ろ姿を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。胸の高鳴りが止まらない。それは憧れか、それとも別の何かか。
心に芽生えた、小さな違和感の正体。その答えを、無性に探りたくなっていた。
彼女の姿が廊下の角に消えるまで、俺は息を詰めてその場に立ち尽くしていた。まるで時間が止まったかのようだ。やがて、彼女がいた空間には図書館の静寂だけが残り、まるで幻でも見ていたかのような気分にさせられる。
ふと、腕の中に抱えた資料の重みで我に返った。視線を落とすと、そこには寸分の狂いもなく整えられた紙の束がある。指で端をなぞってみる。新品のノートのように、ぴたりと揃っている。俺が書いた殴り書きのメモ、図表が印刷されたレジュメ、何冊もの専門書から抜き出したコピー。それらすべてが、まるで一つの意志を持ったかのように、完璧な秩序のもとに並べられていた。
普通、こんなに短時間で、ここまで正確に整理できるものだろうか。俺自身がやったとしても、もっと時間がかかるし、こんなに美しくはできない。彼女の指先は、まるでスキャナーか何かのように、瞬時にページ番号と内容を読み取っていたとでもいうのだろうか。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
感謝している。それは間違いない。窮地を救ってくれたのだから。しかし、その感謝の念を、得体の知れない何かが上書きしていく。
彼女の微笑み。あれは、人間のそれだっただろうか。口角の上がり方、目元の緩み方、すべてが計算され尽くした、完璧な「笑顔」という記号。だが、そこには温かみも、喜びも、感情の揺らぎと呼べるものが一切なかった。ただひたすらに美しく、そして空っぽだった。
まるで、精巧に作られた自動人形。あらかじめインプットされた「親切」というプログラムを、ただ忠実に実行しているだけのような。
そんな馬鹿な。俺はかぶりを振って、非現実的な妄想を追い払おうとする。彼女はただ、極端に几帳面で、親切なだけの人間に違いない。そう自分に言い聞かせようとしても、脳裏に焼き付いた彼女の無機質な瞳が、俺の思考を邪魔する。
アリス、と彼女は名乗った。その名前すら、どこか物語めいていて現実感がない。
俺はもう一度、彼女が消えていった廊下の先を見つめた。あの完璧な歩き方、乱れ一つない髪、静かすぎる足音。彼女の存在そのものが、この現実の世界から少しだけ浮いているような、奇妙な違和感を放っていた。
この胸のざわめきは、恐怖に近いのかもしれない。未知の存在に対する、本能的な。それでも、知りたいと思ってしまった。あの完璧さの裏側を。あの感情のない瞳の奥を。アリスという存在の、本当の姿を。
それは、危険な好奇心なのかもしれない。深入りすべきではないと、頭のどこかで警鐘が鳴っている。
だが、俺の心はもう、彼女という謎に、そして彼女自身に強く引きつけられてしまっていた。
俺は深く息を吸い込み、資料を抱え直した。天宮アリスは、一体何者なんだ? そして、俺と彼女の関係は、これからどうなっていくのだろうか。この胸のざわめきの答えを探すことが、俺の退屈な日常を終わらせる、本当の始まりになるのかもしれない。




