「君を愛するつもりはない」と言い放った旦那様、あなたが隠れてハスハスしている猫は私です
私の結婚生活は、こんな言葉で幕を開けた。
「クラウディア。悪いけど君を愛するつもりはない」
この言葉は決して大袈裟なものではなかった。
寝室は別。食事も別。ほとんど顔を合わさない。
家庭内別居というよりは、同じ集合住宅で暮らす隣人という表現がしっくりくるくらい。
まぁ予想はしていたけれど。
所詮は政略結婚だ。
しかも夫となるライオネル・ロンドシュタインは〈氷の伯爵〉だなんて大層な二つ名で呼ばれている。
これは彼の冷徹な仕事ぶりからきていると聞いていたが、私にはその凍えるような冷たい視線から付いた名なのではと思えてならない。
ライオネルは人間嫌いの変わり者、という噂は本当だった。私も他人とのコミュニケーションが得意な方ではないし、気難しい彼との幸せな結婚生活なんて夢のまた夢。
それでも、少なくともあの家にいた時よりはずいぶんと良い生活ができている。
私はニャアとあくびをしながら草の中で丸くなる。
こんな平穏な時間も、あの家にいたら決して叶わなかったろう。
私の一族には、たまに〈変身〉できる者が生まれる。
遥か昔、ご先祖様が一目惚れして嫁に迎えた美女がシェイプシフターだったため、時々そういう者が生まれるのだとかいう話もあるが定かじゃない。
とにかく変身できる者は一族に恩恵をもたらすとされ、大事に育てられるのが習わしだった。
が、私の場合はそうはいかなかった。
変身できるのが黒猫だったからだ。
もし犬だったら。鳥だったら。机だったら。燭台だったら。きっとこうはならなかっただろう。
でもダメなのだ。猫だけはダメなのだ。
猫は悪魔の手先であり、不吉の象徴として忌み嫌われている。
もちろんそんなのは迷信なんだけど。
特に我が国の先代の王は猫嫌いとして有名で、生涯のうち4度も大規模な猫狩りを決行したくらいだ。
おかげで国からは猫がすっかり消えてしまった。
そんな国で猫に変身できる女がいるだなんてバレれば、私は魔女として処刑される――というだけならまだしも、魔女を生む家系としてお家が取り潰しになる危険すらある。
だから私は幼い頃より虐げられ、屋敷に幽閉されて友達もいなかった。この結婚で、家族は私を厄介払いできて心底ホッとしたに違いない。
悲しくないと言えば嘘になる。
でも隣国のロンドシュタイン家に嫁がなければこうして猫に変身して外で昼寝だなんて絶対にできなかっただろう。
とはいえ猫が不吉な害獣であることはこの国でも同じ。
だから〈変身〉ができることはロンドシュタイン家の人たちにも内緒だ。
もちろん夫のライオネルにも。
夫婦の間に大きな隠し事があるのは良くないことだとは思うけれど、それはきっとライオネルも同じだから。
「ねぇ聞いた? ライオネル様、昨夜も城を抜け出したらしいわよ」
「聞いた聞いた。しかも私、着替えのとき見ちゃったのよ。背中に引っかき傷があったのを!」
「新婚なのに、大胆ねぇ」
「まぁ、奥様といっても形だけだからね。ほとんど顔を合わせていないみたいだし」
メイドたちがおしゃべりなのはどこも同じだね。
まぁたまにある話。
平民の子を愛人にして、身分の高い女をお飾りの妻にする。
これが1番丸く収まる方法だって、みんな知ってるからね。
私はひとつ伸びをして、メイドたちに分からないよう草の中を庭の方へと歩いた。
これ以上旦那様の秘密を耳にするのはイヤだったし、メイドに姿を見られて水をぶっかけられるのはもっとイヤだったから。
*
この〈変身〉がなければ私の人生はもっと違ったものになっていたとは思うけれど、実はこの能力を私は結構気に入っている。
だって土の冷たさを感じながら花の香りに包まれてお昼寝だなんて、人間の女の子の姿じゃ絶対にできない。
この裏庭は最近見つけた絶好のお昼寝スポット。
庭師が手入れに来るときや、たまに開催されるお茶会のとき以外は人通りが少なく、のんびりできる穴場なのである。
咲き誇る薔薇を愛でながらうつらうつら。
うーん、なんて幸せな時間――
「ニギャアアアアアアッ!?」
私は猫語で絶叫した。
視界がひっくり返り、目を白黒、鼻をひくひく。
なにかに担がれた! なんだ? まさかこの国でも猫狩り!? 猫として安楽死されるか、変身をといて魔女として火炙りにされるか選ばなくちゃいけない!?
なんて最悪の事態が頭をよぎったが、違った。
そこにいたのは旦那様――ライオネルだった。
……ライオネル、だよね?
私は自信が持てなくなった。
確かにライオネルの顔なんだけれども、私の知っているライオネルとは全然違う表情をしていたから。
ライオネルを初めて見たとき、私は怖いと感じた。
彫刻のように端正な顔は強烈な威圧感を放っていたし、私にまったく興味がないのが分かってしまったから。
それが今はどうだろう。
冷たい視線を放っていたアイスブルーの目は、蕩けたように垂れ下がっている。
血が通っているのか疑いたくなるような白い頬は今や薔薇色に染まり。
そっけない言葉しか出てこないへの字口からは文字通りの猫なで声が漏れ出していた。
「ねこちゅあ〜ん! にゃんにゃんにゃんにゃん! かわいいでちゅね〜!」
……マジかコイツ。
私は引いた。
いや、動物を愛でること自体はいいと思う。迷信を信じて虐殺する王様なんかよりずっと好感が持てる。
でも、ちょっとキャラ違いすぎない?
しかしライオネルの奇行はこれだけでは終わらなかった。
「なんと綺麗な毛並み……モフモフ! モフ!」
奇声を上げながら、ライオネルはその彫刻のような顔をあろうことか私のお腹に埋めたのだ。
白昼堂々、レディになんてことを!
「ニャッ!」
私は生理的嫌悪に身を任せ、スルリとライオネルの腕から抜け出した。
「まって! ネコチャン! ニャンニャン!」
追いかけてくる気配。しかし〈変身〉した私は人間の時とは比べ物にならないほど身軽だ。
積まれた木箱や排水管を足場にして軽快に跳躍。屋根の上へと飛び乗った。
「ネコチャン……」
ライオネルは指をくわえて私を見ている。
まったく、せっかくの昼寝が台無しだ。
私は屋根の上からライオネルを睨みつけ「にゃあ」と文句を言ってやった。
するとなぜかライオネルは嬉しそうに笑う。
「かんわいい〜」
なんだコイツ。
私はヤツに尻尾を向けてさっさと身を隠してやった。
*
次の日。
私はまた裏庭のお気に入りスポットへテクテク向かっていた。もちろん猫の姿でだ。
昨日はライオネルに昼寝を邪魔されて不完全燃焼だった。
今日こそポカポカの陽だまりのなかでお昼寝してやるんだ。
そう息巻いて歩いたは良かったが、目的地にたどり着く直前で私は猫足を止めた。
そこにはすでにライオネルがいたからである。
「にゃあ……」
おっと。思わず汚い言葉が出てしまった。猫語で良かった。
しかしどうしてまたこんなところに。
とにかくまた昼寝を邪魔されてはたまらない。ライオネルに見つからないよう、そっと草むらを歩く。
が、ダメだった。
アイスブルーの瞳が、ぎゅるんと私の方を向く。
「ネコチャン!」
思わずギョッとした。一体どうして。足音は立てていないのに。
ライオネルはダッシュで私の前に駆け寄り、そして見たことがないような満面の笑みを浮かべた。
「きっと来ると思ってた。待ってたよ」
その言葉に息を呑んだ。
どうして。公務で忙しいだろうに、私を待っていただなんて……まさか正体がバレた?
〈変身〉の瞬間は誰にもバレないよう細心の注意を払ったのに――
なんて思っていると、ライオネルが四つん這いになった。
は?
「昨日は怖がらせてゴメンね……にゃあにゃあ。にゃあにゃあ。お友達になろうにゃ〜」
ま、まさかコイツ……猫に猫語を話してる……!?
一体なにやってるんだ。小さな子供ならまだしも、大の大人が猫に話しかけるか普通。
驚きで動けないでいると、ヤツの手がぬっと伸びてきて私の体をまたもや抱き上げた。そしてお腹にその彫刻のような顔を埋める。
「ネコチャン! ハスハス……クンカクンカ……」
「にぎゃあッ!」
猫吸いの衝撃に耐えられず、半ば反射的に爪を振るってしまった。
確かな手応え。見ると、ライオネルのシャツが破れ、背中には見事な引っかき傷が。
マズい、と思った。
ただでさえ猫は不吉な生き物として迫害されているのに、人間に危害を加えたなんてことになればどんなバツを受けることになるか。
殴られるか。あるいは地面にたたきつけられるか。
恐ろしくなって、思わず目を瞑る。
――が、予想していた衝撃はこなかった。
かわりに別の種類の衝撃が私を襲った。
私の引っ掻いた傷を、ライオネルはうっとりと撫でたのだ。
「ふふ……暴れん坊だね。でもネコチャンに付けられた傷なら大歓迎さ」
その言葉で思い出した。メイドたちの会話を。
『着替えのとき見ちゃったのよ。背中に引っかき傷があったのを』
……まさか、それも猫にやられたの?
「うちの庭にネコチャンが住み着いてくれるとはね。夜中探しに行く手間が省けたよ」
夜中にわざわざ猫探し!?
大の大人がやることなの!?
「うーん、黒い毛並みに金の目……かぁわいいねぇ……」
私の体にスリスリと頬ずりをし、そして言う。
「君の名前はクロにしよう。よろしくね、クロ」
勝手に名前を付けられた。
……まさか、毎日ここで待ち伏せされるわけじゃないよね?
そのまさかだった。
時間帯を変えても。
草陰に隠れても。
雨の日も風の日も雪の日も。
私が中庭に出ると、ライオネルは見張っていたかのように屋敷を飛び出してくるのだ。
そして私の腹だの背中だのに顔を埋めてハスハスクンカクンカしてくる。
冗談じゃない! と私は思った。
このままじゃおちおち昼寝もしていられない。
第一、私だってレディなのだ。猫だけど。
旦那様とはいえ、白昼堂々腹に顔を埋めてハスハスなんてされたくはない。猫だけど。
なにか策はないか。
ライオネルの魔の手から逃れ、中庭のお気に入りポイントで平和にお昼寝できる策は。
それで、閃いた。
ライオネルはとんでもないストレスを抱えているのではないか、と。
だって、そうじゃなきゃこんなに猫に執着するはずない。
はっきり言って異常だ。
どんな病気を持っているかも分からない、ノミやダニがいてもおかしくないその辺の猫に顔を埋めるなんて。
なにか心の闇があるに違いない。そうでなきゃ説明がつかない!
現に、ライオネルは猫状態の私によく愚痴った。
「今朝はちょっと肌寒いねぇ」
と言われれば執務室に忍び込んでブランケットを用意。
「湿疹ができちゃった……草むらにフリバ草が混じってたみたい……」
と言われればよく効くという軟膏を作り、メイドに頼んで彼の寝室に届けさせた。
「なんか最近風邪っぽいんだよね」
と言われれば庭で薬草を摘み、体を温めるハーブティーを作った。
本当はフリバ草を入れると良いんだけど、湿疹ができたと言っていたからやめておこう。もしかしたらアレルギーがあるのかもしれない。
よし、うまくできた。
あとはこれをライオネルに飲ませるだけ。食事と一緒にダイニングテーブルにでも置いておけばいいかな――
「なにやってるんだ」
ドキリ。
私は錆びついた機械みたいな動きで振り返った。
ライオネル。その冷たいアイスブルーの瞳から刺すような視線が注がれる。
「あー……その……」
「最近俺の周りをうろちょろして、なにを考えているんだ?」
ライオネルの抑揚を押さえた冷たい言葉に冷や汗が噴き出すのを感じる。
まさか「あなたにお腹をハスハスされるのがイヤなのでやっています」だなんて言えるはずもない。
〈変身〉の能力がバレれば離婚どころか最悪処刑もあり得る。
私が狼狽えているのを見て、ライオネルの視線はますます冷たさを帯びていく。
もしかしたら、私が彼に媚びているとでも思ったのかもしれない。
「君は自分の部屋で好きに過ごしていればいいんだ。俺に構わないでくれ」
その言葉に、私の中でなにかがキレた。
「は?」
ライオネルがギョッとしたのが分かった。
まさか言い返されるとは思わなかったのだろう。
私のことを大人しくて従順な女だと思っていたのかもしれない。まぁ実際そういうふうに振る舞っていたんだけど。
〈氷の伯爵〉ならともかく、猫の腹に顔を埋めてハスハスしてる変態に偉そうにされたくない。
そもそも誰のせいでこんなことになっていると思ってるの? アンタがハスハスするせいでしょうが!
とは言えないので、私は持っていたハーブティーをライオネルに押し付けた。
「いらないならどうぞ捨ててください!」
ぽかんとしているライオネルに背を向けて歩き出す。部屋を出る寸前、呆然とした声が追いかけてきた。
「怒った君は……まるで猫のようだな」
ギクリ。
「そ、そそそそんなわけないじゃないですか。オホホ……」
なんとかそう反論し、今度こそ部屋を出たのだった。
*
「クロぉ〜がんわいいねぇ〜ハスハスハスハス」
私はライオネルにお腹を吸われながら死んだ目で空を見上げている。
くっ……ライオネルの猫捕獲スキルがどんどん上がっている。早急に解決しないと、私のお腹の毛が全部ライオネルに吸われてハゲてしまいそうだ。
「……分からない……」
一心不乱にハスハスしていたライオネルが私のお腹から不意に顔を上げた。
「人間ってよく分からないんだ。目に見える表情や言葉と心の中が一致しているとは限らない。それが怖い」
猫になに話してるんだと思わないでもないが。
……正直、その気持ちは私にも分かる。
貧しい平民の子に施しなんかしている両親が、家に帰ったら実の娘の私に手を上げるのだ。人間なんて裏で何をしているか分からない。
ライオネルも人間を信じられないから、私に「愛するつもりはない」なんてことを言ったのだろうか。
そのアイスブルーの目がここではないどこかを向く。
「――あの人はどうなんだろう」
あの人というのは――
と、考える暇もなくライオネルは再び私の腹に顔を埋める。
「その点、猫は裏表がなくて大好きだ! ハスハスハスハスクンカクンカ!」
「ニャアッ!」
自慢の爪を一振り。確かな手応え。
見ると、ライオネルの頬に立派な爪痕が。
しかしというべきかやはりというべきか。ライオネルは血の滲む頬をそっと指で撫で、そして満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
なんでだよ……。
*
「ねぇ見た? ライオネル様の頬の傷」
「見た見た! 愛人とケンカでもしたのかしら?」
相変わらず、メイドは勝手な憶測でおしゃべりをしている。
私は草むらの中からチラリとメイドたちを見上げる。
ライオネルの冷たい言動には腹が立つけど、確かにこんな環境じゃ女性嫌いになっても仕方がないのかもしれないね。
「じゃあ私が新しい愛人の座をいただいちゃおうかしら」
「なに言ってるの。クラウディア様にバレたらどうなるか」
「だって、ライオネル様ったらこの前クラウディア様のことを“猫みたい”だなんて言っていたのよ? クラウディア様はとても動揺していて、なんだか可哀想だったわ」
メイドは全然可哀想だなんて思っていなさそうな口振りでそう言った。
なるほど。言われて気が付いた。
猫はこの国でも不吉な害獣とされている。
“猫みたい”だなんて言葉はとんでもない侮辱語に相当するのだ。
まぁ私は〈変身〉の能力がバレたんじゃないかと焦ってそれどころじゃなかったし、あの変態的な猫好きのライオネルが猫を侮辱の意味で使うとは考えられないけど。とにかく第三者からはそう見えたらしい。
「そんなに毛嫌いしてるんだもの。ライオネル様がクラウディア様の言うことを聞くはずないわ」
「でもライオネル様ってメイドと全然話さないじゃない。使用人になんて興味がないんじゃ?」
「ふふふ。問題ないわ」
そう言って取り出したのは小さな瓶。中は桃色の水薬で満たされている。
「ローンチ商店の惚れ薬よ。これを盛ればたちまち私に夢中になるわ」
あら、と思った。
別に焦った訳じゃない。ただ、良い案だと思ったのだ。
本当にライオネルに愛人ができてくれれば、もう私のお腹をハスハスされずに済むのではないか。
しかしメイドの計画は杜撰と言わざるを得ない。
屋敷に幽閉されていた時は暇な時間が有り余っていたから、片っ端から本を読んだものだ。
その時に知った。
市販の惚れ薬のほとんどにはフリバ草が入っている。
ライオネルはフリバ草で湿疹ができたと言っていた。おそらくはアレルギーだ。
惚れ薬というのは飲ませて終わり、というわけじゃない。
市販の惚れ薬の効果時間なんてせいぜい30分くらい。
その間現れる薬効による動悸を本物の恋だと錯覚させることこそが重要なのだ。
それなのに湿疹が出ただの唇が腫れただの、恋を邪魔するような症状が出たらそれどころではなくなってしまう。
ちょっとお高いけれど、フリバ草の入っていない惚れ薬もあるはずだ。
メイドにはそっちを使ってもらわなければ――
ということで、私はさっそく行動に移した。
「ねぇ知ってる? ライオネル様はフリバ草にアレルギーがあるのよ。あなたも気をつけて差し上げてね」
先ほど話していたメイドに、それとなくフリバ草のことを伝えようと思ったのだ。
幸運にも例のメイドの担当はダイニングルーム。
フリバ草は肉料理に添えられることも多いハーブだから給仕をするメイドにライオネルのアレルギー情報を伝えるのは別に変じゃない。
しかし、メイドの返事は私が期待していたものではなかった。
「へぇ。そうなんですね」
……これ、絶対ピンと来てない。
なんで? もしかしてだけど、惚れ薬にフリバ草が入っていることを知らないの?
マズいぞ。このままでは愛人計画が失敗するどころか、湿疹のストレスでライオネルにますます腹を吸われかねない。
それだけは阻止しなければ。
かくなる上は、実力行使しかない。
食事を終えた私は猫に変身し、厨房に忍び込む。
ライオネルはいつも私のあとに少し遅めの昼食を食べる。
あのメイドはここで勝負を仕掛けるに違いない。
予想通り、見つけた。
厨房の台の上。惚れ薬の小瓶が置いてある。
お茶か、あるいは料理に混ぜて出すつもりだったのだろう。
私は床を蹴り、台の上に着地。惚れ薬を瓶ごと口にくわえる。
よし。これで少なくともライオネルが湿疹に苦しむことはなくなった。
あとはこのまま見つからないよう逃げ出すだけ。
が、甘かった。
気配を感じて振り返ると、鬼の形相をしたメイドと目が合った。
「この泥棒猫!」
マズい!
私は駆け出した。
厨房からダイニングルームへ、そして窓を伝って外へ。
さすがにここまでは追ってこれまい――なんて考えは甘かった。
「待てッ!」
あのメイドが、窓を飛び越えて追ってくるではないか。しかも足が速い!
必死になって走るが、隠れられるような洞穴も登れるような木もなく、やがてメイドの手が私の首根っこを掴んだ。
「よくもやってくれたわね」
私の口から惚れ薬を強奪。しかしそれだけでは飽きたらない。
メイドは私を片手で掴んだまま、辺りを見回す。そしてその視線は庭の池へと向けられた。
イヤな予感。
「黒猫なんて不吉だわ」
そんな不穏な言葉が聞こえた瞬間。
内臓がひっくり返るような浮遊感に襲われた。
世界がひっくり返り、そしてひっくり返っているのは世界ではなく自分であると気付く。
あのメイド、私を池に放り投げたのだ。
バシャン、と。
水面に叩きつけられ、なすすべなく水に沈む。猫の姿でも、人間の姿でも、私は泳げないのに!
水面からなんとか顔を出し、必死に藻掻く。しかしすぐ体力の限界が訪れた。
水のなかに体が沈んでいく。
私はこのまま猫として死ぬんだろうか。そうなると「クラウディア」は行方不明ってことになるの? それだとライオネルは再婚しにくくて困るかしら。
ああ、私ったら死の間際になにを考えて――
と、その時。
体が急激に浮上した。
目を開くと、飛び込んでくるのは水に濡れたアイスブルーの瞳。
冷たい視線を送るでもなく、バターのように蕩けさせるでもなく、今はただ信じられないものでも見たみたいに見開かれている。
「ライオネル……?」
と、口に出して初めて気付いた。
変身が解けていることを。
私、もしかして公衆の面前で変身を解いてしまったの?
――マズい。
離婚して実家に戻るのはイヤだ。火炙りも同じくらいイヤだ!
「あのっ、その」
なにか言い訳を、と思うが全然言葉が出てこない。
しかし動揺しているのは私だけではなかった。
「おっ……奥様!?」
メイドの狼狽える声が聞こえる。
「あの、違うんです……私は、ただ……」
カシャン、という小さな音。
動揺したせいで惚れ薬を落としたらしい。
それをライオネルは見逃さなかった。
「そうか。君が俺を守ってくれていたんだね」
そしてライオネルは私の頬をそっと撫でる。
「その――」
アイスブルーの瞳を右へ左へ泳がせて。
絞り出すように発した言葉は。
「僕と結婚してくれないか」
私は唖然とした。
そして、思ったまま答えた。
「もうしておりますわ。旦那様」
するとライオネルは照れ臭そうに笑った。
その後。
〈変身〉のことがバレたおかげでもう猫の姿になってもハスハスされなくなった――なんてことはなくて。
それどころか人間の姿の時もハスハスしようとするライオネルから逃げ回ることになるとは、全くの予想外であった。
お読みいただきありがとうございました。
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