最後の光の保存期間
光の最後の保存期間 — 全編・改稿版 —
西暦2130年 監査報告書:[管理番号2130-V-0982]
概要
本資料は、西暦2130年1月11日に行われた国立情報墓地における個人視覚ログの消去監査
記録、およびそこに付随する再構成された主観的記憶の全容である。被検体、高橋ハナ。彼女
の115年にわたる視界の記録は、人類が「共有」という進化の果てに何を失い、何に怯え、そし
て最後に何を奪い返したのかを物語っている。
第1章: 監査の開始(西暦2130年)
二一三〇年一月十一日、午前四時。国立情報墓地、第五〇九サーバーラック。
地下深いこの場所には、季節もなければ夜明けもない。あるのは、数千万人の「人生」を冷却
し続ける循環液の低い唸りと、無機質なLEDの点滅だけだ。
私の職務は、死者の視覚ログを監査し、その「価値」を裁くことだ。現代において、一人の人
間が一生で蓄積するデータ量は膨大を極める。維持コストが市民の平均納税額を超え、もはや公共
の利益に資さないと判断された低価値な記録は、この墓地で灰――すなわち、ゼロと一の完全な消
去へと至る。
私の指先は、一人の女の生涯をこの世から抹消するための実行キーの上で静止していた。
「管理番号 2130-V-0982。被検体、高橋ハナ」
コンソールの前に腰を下ろすと、冷たい青白い光が私の顔を照らす。一世紀以上前、まだプロ
トコルが未熟だった時代の不自由な規格のデータが、ホログラムとして展開された。総容量、一・
二ペタバイト。一人の人間が、一一五年間の生涯で「見た」すべての光が、そこには圧縮されてい
た。
「これほど古い個体が、なぜ今まで⋯⋯」
独り言が、結露した壁に吸い込まれて消える。通常、これほどの旧式データはとっくに整理さ
れているはずだ。だが、この「高橋ハナ」というデータには、政府直轄の強力なプロテクトが掛け
られていた形跡があった。それが今、何らかの理由で期限を迎え、私の手元に回ってきたのだ。
私はルーチンに従い、消去前の自動スキャンを実行した。だが、次の瞬間、コンソールに鮮烈
な紅い警告灯が走った。
――「タイムスタンプ不整合。合計四十二分間の未記録領域を検出」
心臓がわずかに跳ねた。あり得ないことだった。当時、世界を席巻していた『Sync-Eye(シン
クロ・アイ)』は、装着者の覚醒中、一秒の隙もなく視覚情報を外部サーバーへ送信し続ける。そ
れは個人の日記ではなく、社会という巨大な脳の一部としての「義務」だった。
記録が欠落しているということは、物理的なチップの破壊か、あるいはシステムそのものに対
する高度なハッキングを意味する。
四十二分。全人類が「共有」という進化の果てに、完全に透明になったはずの時代に、彼女は
何を隠し、何を独り占めにしたのか。
私は、その「空白」の正体を探るべく、データの深層へと意識を沈めた。すべての始まり――
チップが彼女の視神経に初めて火を灯した、あの酷暑の「最初の日」へと。
第2章: 神の眼、父の指(西暦2045年)
二〇四五年。その年の所沢市は、息を吸い込むだけで肺が焼けるような記録的な猛暑に見舞われて
いた。当時十歳だった私の記憶は、いつもアスファルトから立ち上る陽炎と、鼻を突く消毒液の匂
いから始まる。
「ハナ、これからは世界が違って見えるようになる。孤独なんていう言葉は、この世の辞書か
ら消えてしまうんだ」
父、高橋健一は、白磁のような診察台に座る私を覗き込みながらそう言った。父は高名な眼科
医であり、同時に、当時まだ「魂のプライバシーを侵害する」と激しく糾弾されていたSync-Eyeプ
ロジェクトの筆頭開発者でもあった。
父の指先は、わずかに震えていた。それは新技術への興奮によるものだと当時の私は思ってい
た。だが、今、監査官の視点でその震えを解析すれば、それが「恐怖」であったことは明白だ。父
は、自ら作り上げた怪物――全人類を網膜で繋ぐネットワーク――に、最愛の娘を一番に差し出そ
うとしていたのだ。
「どうして、私の目なの?」
私は、ステンレス製のトレイに並ぶ、見たこともない鋭利な器具を見つめながら尋ねた。父は
私の頬に手を添えた。その手のひらは、熱に浮かされたように熱く、じっとりと湿っていた。
「お前は私の最高傑作だからだ。そして、私は⋯⋯お前を愛しているからだ。ハナ、世界を救
うのはお前なんだよ」
父の言葉は、医学的な確信と、自分自身に言い聞かせるような祈りに満ちていた。しかし、そ
の手術室の隅に、もう一人の視線があったのを私は覚えている。
白衣を着ていない、黒いスーツの男。
男は彫刻のように微動だにせず、影の中に溶け込んでいた。父はその男の存在を、あるいは男
が象徴する「組織」の圧力を無視するように、私の視神経への処置を続けた。今、監査官として当
時の視覚ログを再生しても、その男の顔だけは厚い「ノイズ」で塗りつぶされている。チップが起
動する直前、私の生身の肉眼が捉えた、最後の人間の記憶。
「接続を開始する。Sync-Eye、オンライン。⋯⋯ハナ、目を開けなさい」
父の声に従って、私はゆっくりとまぶたを上げた。視界の右隅に、小さな、青いドットが点滅
していた。録画開始のシグナル。同時に、私の脳内に直接、父の声が響いた。
『⋯⋯ハナ、聞こえるか? ああ、素晴らしい。同期率は九十九・八パーセントだ』
私は、父が手に持っているタブレット端末の画面を見た。そこには、診察台に座る自分自身
の、不安げな膝が映っていた。自分の視覚が、他者のデバイスへと流れ出していく不思議な感覚。
だが、その時だ。
画面の中の「現実の父」のすぐ後ろに、先ほどの黒いスーツの男が立っていた。しかし、私の
網膜から送られているはずのリアルタイム映像の中には、その男の姿だけが、まるで最初から存在
しなかったかのように綺麗に消し去られていた。
それが、私の視覚が共有物になり、同時に「検閲」という檻に閉じ込められた瞬間に体験し
た、最初の謎だった。
第3章: 透明な通学路(西暦2050年代)
二〇五〇年。私が中学生になった頃、世界から「秘密」という概念はほぼ絶滅していた。Sync-Eye
はもはや特別な技術ではなく、水道や電気と同じ社会インフラとなっていた。街中のあらゆる視線
はネットワークで結ばれ、いじめ、犯罪、そして「不適切な思考」さえも、すべてが見られている
ことで根絶された――そう、公式には謳われていた。
私の登校路は、文字通り「透明」だった。私の網膜が捉える映像は、リアルタイムで学校の管
理サーバー、そして父の私設端末へとストリーミングされている。私が何を見て、何に視線を止め
たか。そのすべてがメタデータとして記録され、解析される。
「ハナ、今日も『繋がってる』の?」
休み時間、クラスメイトのミキが私の机にやってきた。彼女は数少ない「独立派」の家庭の子
だった。
「うん。お父さんが、ずっとチェックしてるから。私の目は、プロジェクトの『聖域』なんだ
って」
私は力なく笑った。ミキは、デバイスを通さない生身の瞳で私をじっと見つめた。彼女の瞳に
は、私の網膜投影には映らない「深み」があるような気がして、私はいつも居心地の悪さを感じて
いた。
「大変だね。自分の視界が、自分だけのものじゃないなんて」
ミキの言葉が、胸の奥に刺さった。私は返事をせず、窓の外に視線を逃がした。校庭の隅、古
びた桜の木の下。そこに、また「あの男」が立っていた。
黒いスーツ。夏の陽光をすべて吸い込むような、重い黒。彼は五年前の手術室にいた時と同じ
ように、彫刻のように静止して私を見上げていた。
(お父さん、またあの人がいる)
私は反射的に、父へと意識を向けた。次の瞬間、私の脳を直接揺さぶるような、父の焦燥に満
ちた声が響いた。
『ハナ、あっちを見てはいけない。すぐに視線を逸らしなさい!』
その叫びとほぼ同時に、私の視界に「フィルタ」が掛かった。強烈な電子の火花が散ったかと
思うと、黒いスーツの男が立っていた場所が、不自然なほど鮮やかな「満開の桜」のグラフィック
で上書きされた。今は初夏だというのに、私の右眼の中だけでは、狂い咲きの桜が舞い散ってい
る。
「⋯⋯あ」
私は思わず声を漏らした。網膜に焼き付いたデジタルな桜の花びらの隙間から、男の輪郭がわ
ずかに、ノイズとなって溢れ出していた。父は私を守っているのではない。私の眼を使って、誰か
を「消して」いるのだ。
私は、世界を写し出すレンズではなく、権力が不都合な真実を塗り潰すための「キャンバス」
に過ぎなかった。
第4章: レンズの中の青春(西暦2060年代)
二〇六〇年代。私は二十歳になり、一万人以上のフォロワーを持つ「ビジュアル・ライバー」とし
て生きていた。
私の視界はもはや私個人のものではなく、一種の公共財となっていた。だが、数万人の称賛に
包まれながらも、私の内側には常に虚無感が広がっていた。私の見る世界はすべて、父という「フ
ィルター」を通した後の、美しく加工された虚像に過ぎないことを知っていたからだ。
だが、その完璧な「聖域」に、ある日、決定的な「異物」が混入する。大学の図書館で出会っ
た男、サトシ。彼は最新のデバイスを一つも持たず、古びた紙の本をめくっていた。
「⋯⋯何か、面白いものでも見えた?」
ふと顔を上げた彼と目が合った瞬間、私の視界の右端で、青い録画ドットが狂ったように激し
く明滅を始めた。
――『致命的なエラー。プライマリ・オブザーバーとの同期が切断されました』
父の監視、そして数万人のフォロワーたちの視線が、サトシという存在を中心とした空間だ
け、すっぽりと消失していた。
「君の目は、とても重そうだね。少し、休ませてあげようか」
サトシが立ち上がり、私の方へ一歩踏み出す。彼が私の右目にそっと手をかざした刹那、二〇
四五年以来、一度も途切れることのなかった「青い光」が、耳鳴りのような音を立てて完全に消え
た。
完璧な、真空のような静寂。
サトシは皮膚の直下に、極薄の銅織メッシュによる電磁波シールドを埋め込んでいた。それ
はSync-Eyeが発する個体識別信号を物理的に遮断し、周囲に局所的な「死角」
を作り出す。その数秒間、私は初めて、父からも、世界からも見られない「透明な自由」を手に入
れたのだ。
「⋯⋯⋯⋯サトシ⋯⋯さん」
私の震える声は、誰に記録されることもなく、図書館の静かな空気の中にだけ溶けていった。
第5章: 歩く暗点
「サトシ⋯⋯さん」
私の唇が震えた。彼が手をかざしている間、私の世界からは一切の「他者の視線」が消失して
いた。だが、彼が身を引いた瞬間、父の怒号が戻ってくる。
『ハナ! 何をしている、その男から離れろ!』
サトシは落ち着いた手つきで、再び私の視界に「沈黙」を強いた。「静かに。あと数分だけ、
この『穴』は保てる」
サトシは書架の影で語り始めた。父、高橋健一がSync-Eyeを完成させる過程で行った非人道的
な負荷テスト。適合率の低い被検者たちの視神経を焼き切り、精神を崩壊させた数々の実験。サト
シの父もまた、その犠牲者の一人だった。
「君は、父親にとっても政府にとっても、ただの『完成された檻』なんだ。異常なまでの適合
率を持つ君の脳を監視することで、彼らは人間の意識を完全に制御するプログラムを完成させよう
としている」
サトシは去り際に、私の耳元で囁いた。
「次に『あの男』を見かけたら、瞬きをせずにその中心を見つめて。システムのフィルターが
追いつかないほど強く、焼き付けるように凝視するんだ」
サトシが去り、デッドスポットが消失した瞬間、私の視界は再び数万人の称賛に埋め尽くされ
た。だが、私の心はもう、共有されることのない深い闇の中に沈んでいた。
第6章: 検体リストの残影(西暦2071年)
二〇七一年のある夜。サトシから手渡されたウイルスチップを使い、私は一時的に「観測不能な亡
霊」となって父の診療所に忍び込んだ。最新のホログラムストレージの背後に隠されていたのは、
分厚い、物理的な紙のファイルだった。
『Sync-Eye 第四世代:適合個体及び排除個体リスト』
ページをめくるたび、赤インクで「×」印が引かれた無数の顔写真が目に飛び込んできた。そし
て、最終ページ。
『本個体の視覚は、政府高官向け「透過処理プロトコル」のマスターキーとして運用する。適
合率の極限化により、特定波長の認識を脳内で自動的に抹消。対象を「無」として定義する世界唯
一の生きたフィルターである』
愛されていたのではない。私は、父が最も恐れる権力者――あの「黒いスーツの男」を世界か
ら消し去るための、精巧なレンズに過ぎなかったのだ。
「⋯⋯満足か、ハナ」
背後で、冷え切った声がした。振り返ると、入り口に父が立っていた。彼の背後には、いつも
のようにあの「黒いスーツの男」が、ノイズの塊として影のように寄り添っている。
「見るな! ハナ、見るんじゃない!」
父の制止を無視し、私はノイズの中心を凝視し続けた。網膜が熱を持つ。脳を焼くような高
熱。その瞬間、バリバリとガラスが割れるような音と共に、デジタルの皮膜が剥がれ落ちた。
ノイズの向こうから現れたのは、人間離れしたほど冷徹な瞳をした、一人の初老の男の姿だっ
た。初めて、私の記憶の中に「消されていた支配の顔」が刻印された。
第7章: 復讐の回路(西暦2085年)
二〇八五年。父の誕生日に、私は彼に「究極の共有体験」を贈ることにした。父の肉体の眼はすで
に光を失っていたが、Sync-Eyeのチップは依然として私の網膜と接続されていた。
「今日はね、お父さん。あなたがずっと見せたがっていた、私たちの『家族の歴史』を辿る旅
よ」
私はサトシの特製サーバーを起動し、父の脳へ、私がこれまで隠蔽されてきたあらゆる犠牲者
たちのログを流し込んだ。サトシの父親が絶叫した瞬間、私が「桜の木」で塗りつぶされてきた場
所に立っていた男の正体。それらを爆発的な情報密度で、盲目の父の脳内に直接焼き付けた。
「止めてくれ、ハナ! これはエラーだ!」
父は激しく身悶えしたが、脳に直接書き込まれる真実から逃れる術はなかった。
この時、システムの防衛プログラムと外部ジャックが激しく衝突した結果、あらゆる観測から
切り離された物理法則の外側の時間――「空白の四十二分間」が生まれた。
四十二分後、父は廃人のように動かなくなった。この四十二分間だけが、私の人生で唯一、父
という呪縛からも、世界の監視からも解放され、私自身の怒りだけを燃やし尽くした真実の時間だ
った。
第8章: 遺物の時代(西暦2100年)
二一〇〇年。世界はSync-Eyeを過去のものとしていた。百五歳になった私は、所沢の古い屋敷で、
静かに朽ち果てていくのを待っていた。
私の視界は常にデジタルな砂嵐に覆われていた。だが、この崩壊しつつある脳内には、依然と
して一・二ペタバイトの「検閲された真実」が眠っている。
「⋯⋯これを、一方向性の時限爆弾に作り変える」
私は、自分の脳内に蓄積された全データを、消去プロセスそのものが全ネットワークへの一斉
配信のトリガーになるように再構築した。私が死に、監査官が消去ボタンを叩いたその瞬間、この
世界の欺瞞はすべて暴露される。
作業の合間、視界のノイズの向こう側に、一人の青年の影が見えた気がした。
「⋯⋯⋯⋯サトシ、準備はいいかい?」
私はゆっくりとまぶたを閉じた。デジタルな光が届かない、まぶたの裏側。そこだけが、最後
まで誰にも共有されることのなかった、私だけの聖域だった。
第9章: 夜明けの無(西暦2130年)
二一三〇年一月十一日、午前四時三十分。国立情報墓地。私は一人の女が仕掛けた巨大な爆弾の信
管に触れようとしていた。
ハナの生涯を辿り終えた私の指先は、もはや最初のような冷徹さを失っていた。
「⋯⋯ハナ、君が本当に見たかったものは、これだったのか」
最後の一撃を叩き込んだ。【DELETION EXECUTED ― 消去完了】
直後、システムが消去を開始した瞬間、ハナの脳内に蓄積されてきた「真実」が全世界の網膜
へと放流された。人々が「幸福な夢」を共有していた網膜に、犠牲者たちの叫びと、ハナが最後に
見た「加工されていない本当の夕焼け」が強制的に上書きされていく。
世界中の通信網がダウンした。すべてが共有され、そして、すべてが壊れた。
私は墓地の外へと歩み出た。二一三〇年の東京。そこには、すべての人々が自らの手で脳内デ
バイスの接続を断ち切り、ただ立ち尽くす光景が広がっていた。
誰にも解析されない、誰にも記録されない、ただそこにあるだけの光。東の空がゆっくりと白
み始める。
何も見えない。何も聞こえない。ただ、夜が明けていく。
私たちは今、すべての夜明けまえに立っている。一人の女が保存し続けた、最後の光をその手
に握りしめて。




