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雨に濡れた元恋人

作者: LEN


夜。突風が吹き荒れる。雨戸へ打ちつける大粒の雨。

ただのマンションの一室がまるでシェルターのように思えてくる。

湯気の立つ珈琲。くたびれたTシャツの着心地。濡れない安心感。

速報。と流れるニュース。 

大阪市東淀川区で成人男性が住まいのアパートで何者かに包丁で刺されて死亡。犯人は未だ逃亡中。


「近所やねんけど、こっわ」


東淀川区はこの辺りでも治安が悪いと聞く。昔はヤクザの事務所があったとか、浮浪者が絶えない地域だとか。

行ったことないし、行こうとも思わない。

近所で起きた殺人事件だが、どこか他人事で地上波からNetflixに画面を切り替えた。最近はもっぱら韓国ドラマに夢中になっている。10代の頃は、おばさんが韓国ドラマやらアイドルやらに黄色い歓声を上げていたのを横目に冷たい視線を向けていたが、不思議と今は共感できてしまう。

突風が雨戸を叩く。外で何かが飛ばされてアスファルトの上を転がっている音がする。敏感になっている鼓膜を刺すようにインターホンが鳴る。

何だ、配達か? こんな雨の中?

引っ掛かりを覚えながらも対応すると、小さな画面には知った顔が映っていた。


高校の頃に付き合っていた元恋人だ。


びしょ濡れの元恋人はこっちの声が聞こえると安心するように笑って、お風呂貸してほしい、と言う。

色々と込み上げる疑問はさておき、あまりに捨て犬のような顔をしていたので鍵を開けて中に入れた。

久しぶり、とか、急にごめんね、とか、そのようなことを言いながら彼女は震えていた。寒いのだ。

ひとまずシャワーを浴びさせて、適当な服を貸した。田中詩織たなかしおり。元恋人。険悪な別れ方をしてから一度も連絡を取っていなかった。


「春馬、ごめんね急に。お風呂と、服も、ありがとう」

「それはええけど……お茶、淹れるわ。座ってて」


詩織は遠慮しながらソファーではなくカーペットに腰を下ろす。湯を沸かして温かいお茶を淹れた。


「それで、どうしたん」


彼氏と別れて同棲していたマンションを出てきた。と、極めて端的に詩織は話した。


「こんな雨の中?」

「うん」

「どうせまた、しょうもないことで喧嘩したんやろ」


しょうもないこと。靴下が裏返しだとか。トイレットペーパーを補充していないだとか。

詩織は怒ると口をきいてくれなくなる。でも底抜けに優しいから、どれだけ怒っていてもご飯は作ってくれるし、掃除もしてくれる。家政婦みたいに尽くしてくれる。だから甘えてしまう。俺は甘えてしまった。ぞんざいに扱ってしまっていた。ある夜、詩織は部屋を出て行った。俺は追いかけなかった。それっきりだった。


「そいつは、俺みたいなんと違うやろ。仲直りした方がええ」

「うん、春馬とは違うよ」


俺は、自分が身勝手な性格だと自覚している。けれど、あらためて言われると少し傷つく。


「お茶、冷める前に飲みや」


詩織は頷きもせず、マグカップを両手で包み込む。

温まっているはずだが、まだ手は震えている。視線を向けると、その手を隠すような仕草をする。


「ゲーム、相変わらず好きなんだ」


ゲーミングチェア、モニター、PC、それらに視線を向けた詩織が懐かしむように言う。


「まぁ、好きっちゅうか……」


何度かゲームが原因で喧嘩した記憶を思い出して、どうにも気まずさを感じる。


「教えてよ、久しぶりに」

「え」

「だめ?」

「いや、まぁ」


PCゲームではなく、テレビゲームをつけた。

コントローラーを詩織に渡して、レースゲームをする。


「え、な! ちょっとやめっ、もう!」

「鈍臭いなぁ」

「もういっかい!」


何度やっても詩織が負ける。どれだけ負けても楽しそうに笑っている。


「私にも勝たせて!」

「暴論やなぁ」


雨風は強まるばかりだ。危ないから、と今夜はそのまま泊まらせた。

夜な夜なやったゲームの合間に、詩織がハムと卵の炒飯を作ってくれた。

十代を思い起こす味。密かに、まだ詩織のことが好きだと思う。その心のままにキスをした。詩織は避けなかった。もう一度だけ。それ以上はダメだ。理性はあった。


「もう一度だけ」


甘い声が耳元で囁く。熱くなる。心地良くなる。好きになってしまう。重なる。好きだと言いそうになる。理性と目が合う。逸らす。体温が残る。消えない。消えそうにない。

雨戸を叩く風から守られて聞こえる寝息。

いつもより布団が温かい。

鳥のさえずり。朝を迎える。隣に詩織はいなかった。


テレビのニュース番組。速報。


今朝、昨夜起こった殺人事件の犯人と思われる女性が自首したそうだ。

田中詩織氏容疑者は、昨夜、事件の直後に自ら通報した後、逃走。本人はそのことについて、会いたい人がいた。と供述。

事件の真相について。

松岡健二まつおかけんじ氏被害者は田中詩織氏容疑者の恋人であった。

近隣の住民からは、昼夜問わず激しい物音が頻繁に聞こえていた。怒号のような声と物音に迷惑していた。と証言があり、警察は田中詩織氏容疑者が日常的に暴力を受けていたのではないか。正当防衛による殺害であったのか。それらの捜査活動に尽力していく。と発表。


「痣……」


暗がりでハッキリとは見えなかった。けれど、確かにあった。背中、腕、腹、体のあちこちに痣があった。

警察に電話した。昨夜、事件の直後に田中詩織と会っていたと話した。痣のことを話した。詩織の性格を話した。俺が知っている詩織のことを、元恋人のことを話した。

詩織は悪くない。絶対に、詩織は人を傷つけない。


なぜ、自首する前に詩織は俺に会いに来たのか。今朝からずっと考えていた。


「春馬とは、もう少しだけ遅く出会いたかった」


別れた日に詩織が言い残した言葉。

もしも、もう少しだけ遅く詩織と出会っていれば。たったそれだけのことで未来は変わったのだろうか。

今はただ、詩織が帰ってくる日を待っている。

10年でも20年でも待っている。


詩織はもう、泣いちゃダメだ。


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