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暴走王子の恋路、私が後始末します 〜え? また国が燃えてる? もう“ザマァ”でいいかしら〜

「──真実の愛に出会った!彼女と共に国を出る!」


 その発言が、第一王子アレクシス・リグレイスの口から放たれたのは、王国外交評議会のまさに冒頭だった。


 どうやら、今日も王子の脳内には花畑が咲き誇っているらしい。


 議場は凍りついた。物理的に気温が下がったのではなく、精神的な意味で。空気という空気が「またかよ……」と呻いた気すらする。


 貴族たちは言葉を失い、外交官は無言で目を逸らし、事務官はペンを折る。あのペン、今月三本目だ。経費精算の申請がまた増える。


 なにせその“真実の愛”の相手は、王国北部の小さな村に住む、元踊り子の平民女性──しかも、敵対関係にある隣国・デルート帝国と接点があるという噂までついてくる。


「アレクシス殿下。それは、公式の宣言と受け取ってよろしいのでしょうか?」


 沈黙を破ったのは、薄桃色の髪を一つに束ね、紅蓮のように冴えた瞳を持つ一人の女性官吏だった。


 ルシア・エルネスト。


 王宮に仕える平民階級の文官。地味な存在ではあるが、その正確無比な書類処理能力と、沈着冷静な言動により、裏方として王政に不可欠な人物と密かに評価されていた。


 しかし今、その評価とはまったく関係のない意味で、彼女は内心ため息をついていた。


 ──ああ、また始まった。年中行事に“王子の暴走”という項目でも加えるべきだろうか。


「当然だとも! 愛こそが国を導く道標だ!」


 アレクシスは胸を張って言い切った。その姿はある意味で潔い。馬鹿は馬鹿らしく堂々としている。問題は、彼が王族であるという点に尽きる。


 貴族たちの間に、微妙な気まずさが走った。が、ルシアは相変わらず無表情を崩さなかった。彼女の内面で鳴り響くベルは、もう警報のレベルを超えてサイレンになっていた。


「……では、後ほど書面にて正式な発表をまとめていただけますか? 国際条約違反の可能性もございますので、確認事項が多々ございます」


 丁寧な言葉遣いである。だがその実、内容は“お前が国際問題の引き金になっている”という宣告に他ならない。


 アレクシスは一瞬たじろいだが、すぐに笑顔を作ると椅子に座りなおした。


「わかった、わかった。そんな堅いことは言うまいよ、ルシア嬢」


 その態度がさらに腹立たしい。庶民に軽々しく“嬢”などと呼びかけるなと言いたい。が、ルシアはそんな感情を一切顔に出さず、淡々と一礼し、議場を後にした。


 ──これが、破滅の序章である。


 そして、王子の恋の物語の幕開けでもあるが、その台本はどう見ても悲劇でしかない。








 誰も知らぬ地下書庫の奥にある扉を開けると、そこには静寂と、ほんのわずかな魔力の残り香が漂っていた。


 金属製の箱から、彼女は一つの仮面を取り出す。それは、漆黒の光沢を持ち、身に着ける者の髪色と声を僅かに変える魔道具。


 ──“レディ・セレネ”。


 商会「ミストレイル」の代表。王都貴族ですら頭を下げる、謎多き商人。


 その正体が、王宮の書庫で埃まみれになっていた文官であるなど、誰が想像できよう。


 仮面を顔に当てると、ぱちり、と音が鳴った。


 薄桃色の髪が、黒く沈んでいく。紅蓮の瞳は変わらないが、光を湛えたそれは、もはや誰もが畏れる“彼女”のものだ。



 ──さて。次は、どの貴族の顔をひきつらせてやろうか。



 扉の閉まる音が、地下書庫の静寂を打ち破った。その音は、まるで一つの茶番劇が終演したことを告げる、滑稽な鐘の音のようだった。


 ルシアは仮面を外し、深々と息を吐いた。


 変化の魔法が解け、漆黒の髪が柔らかな薄桃色へと戻っていく。紅蓮のような瞳が仮面の裏に沈んでいた感情を露わにし、疲労と呆れと、そしてほんの少しの殺意が宿る。


「……あの王子、次は何を燃やす気なのかしら。今度こそ王宮じゃ済まないわよ」


 声には誰も答えない。書庫にいるのは彼女だけ。だがその沈黙すら、今のルシアには最高の理解者のように感じられる。


 ペンを取る。インク瓶のふたを開ける。ページを開く。これが彼女の戦争の始まりだ。


 机には、先ほどの外交会議の議事録がすでに置かれていた。


 ──『第一王子による非公式な対外発言』『王室婚姻政策逸脱行動』『国内混乱の懸念』──


 誰がどう見ても地雷。踏んだら終わり。だが王子は、笑顔で地雷原にダイブしていく。その姿は、ある意味で清々しい愚かさだった。


「もういっそ、あの花畑ごと国の外に放り出したいわね……愛と自由の国とか作って、勝手に統治でもしてくれたらいいのに」


 当然のように皮肉が出る。だがそれも仕方がない。


 今日で王子の“恋による外交的地雷原特攻”は今月四度目。


 しかも今回のは、敵対国家デルート帝国と接点のある女と来た。


 ──いい加減、国の命運を賭けるのをやめてほしい。恋愛に。


 資料をめくるたび、頭痛がひどくなる。貴族派の反応、軍部の態度、民衆の不安──全てが一枚の布のように繋がっており、どこを切っても火種が出てくる。


「しかも今日に限って、報告書の提出期限。まるで王子が狙ってやってるみたいじゃない」


 もちろん狙ってなどいない。ただの偶然。だがその“偶然”が何度も続くと、人はそれを“悪意”と呼ぶようになる。


 書庫の隅にある小さな魔法ランプに火を入れる。


 淡い光が書棚の奥に影を作り、その中でルシアの影が長く伸びる。


「……こんなところで、何やってるのかしらね、私」


 肩をすくめる。だが手は止めない。


 仮面をつけたままの自分と、素顔のままこの場にいる自分。


 どちらが本当かなど、もうどうでもいい。


 それより今は、アレクシス・リグレイスという名の暴走機関車を、どう止めるか。それがすべてだった。


「さて、公爵様のところにも一通。セレネ名義で“ご相談”でも送りましょうか」


 そうつぶやく声には、明確な皮肉と、仄かな興味が混じっていた。


 彼──レオン・フォン・ルヴェール公爵は、そう簡単に踊る相手ではない。


 だが、それだけに、価値がある。操れるなら、それはこの国そのものを動かすのと同義。


「次の幕は──少し、派手にいきましょうか」


 そう言って、ルシアは仮面を見つめ、また静かに微笑んだ。






 ◆ ◇ ◆






 ミストレイル商会──王都においてその名を知らぬ者はいない。


 軍需物資から貴族の嗜好品に至るまで、幅広い品を扱い、裏の流通ルートにも顔が利く。その代表、“レディ・セレネ”は、誰もが一目置く存在だ。だが、その正体が王宮の文官──ルシア・エルネスト本人であることを知る者は、いまだこの王国に一人としていない。


 本日、商会の応接室に訪れていたのは、アレク王国でも屈指の権威と影響力を誇る男、ルヴェール公爵。


「ご足労いただき光栄です、公爵閣下」


 黒髪の仮面をつけたレディ・セレネが、紅茶を注ぎながら丁寧に言った。


 その微笑みは控えめで、完璧に計算された礼節の表れ。


「時間に対する対価は払っていただく。それが我が家の方針だ」


 レオン・フォン・ルヴェール公爵は無駄のない動きで椅子に座ると、目の前に置かれた書類に目を落とした。


 彼の言葉は丁寧だが、どこか冷たい。まるで気温そのものが下がるような感覚を、部屋に残す。


「この報告書、情報源は?」


「複数の外交官と、内務省側から得た公式・非公式の記録を照合しています。真偽については、裏付け済みです」


「ふむ……正確すぎて気味が悪い。これは三日前の王子の発言まで記録されているな」


「我々は、確実な結果をお届けすることを重視しておりますので」


 セレネの答えは一切の揺れがない。表情も、声音も、まるで彫刻のように整っていた。


「……第一王子がこのまま突き進めば、外交崩壊も時間の問題だ。いや、内政の方が先に崩れるかもしれない」


「民の信頼が揺らげば、貴族派の分裂も早まるでしょう」


「その混乱の中で、この契約を履行する。危険な橋を渡る覚悟はあるか?」


 公爵の視線が、鋭く彼女を射抜いた。


 仮面越しでも、空気が緊張する。応接室に立ち込める空気は凍てつくようで、まるで剣の刃を交えているかのような張りつめた静けさが支配していた。


「はい。民を守る責任を果たせるお方と歩む覚悟があります」


「誰が“民を守る”と言った?」


 一瞬の沈黙。


「……それは、貴方ではないのですか?」


「私は秩序を守る。民の感情や幻想には興味がない」


 セレネ──ルシアの瞳がわずかに揺れる。


「……失礼しました。目的は同じでも、道は違うのですね」


「ならば契約の意味を見直すべきかもしれない」


 レオンの指が、契約書の一項に触れる。そこには、商会による情報提供と軍備支援、緊急時の資源供給網の再構築案が明記されていた。


「私の方針は明快だ。混乱は認めない。誰であれ国家の枠を逸脱すれば、例外なく排除する」


「そのご意志があるからこそ、この国の均衡が保たれているのだと思っております」


「おべんちゃらを言うな」


「事実です。おべんちゃらを申す相手には、もっと花を添えますから」


 ようやく、わずかに空気が和らいだ。


 レオンは深く息を吐いた。書類の最後に目を通すと、羽根ペンを手に取った。


「……交渉は成立とする」


 ペン先が紙を走り、契約書に彼の名前が記される。


「ありがとうございます、公爵閣下。誠に賢明なるご判断です」


「決して私情で動くことはない。これも、国のためだけだ」


「もちろんです。その冷徹な判断力が、何より信頼に足る理由です」


 契約成立。


 セレネは立ち上がり、礼儀正しく一礼する。


 その一連の動きに隙はなく、完璧に整えられた仮面の演技である。


 だが、胸の奥では、ほんの僅かに、未知の感情が芽吹きかけていた。


 ──この男は、決して感情で動かない。


 だがそれだけに、“動かしたい”という衝動が、仮面の下で微かに息をしていた。






◆ ◇ ◆






 王都アレクシア。かつて“理性と秩序の中心”と称されたこの都は、今や情熱と愚行の奔流に押し流されつつあった。


 原因は一人──アレクシス・リグレイス、第一王子。


「私と彼女の愛は、どんな国境も、身分も、越えることができるのだ!」


 それは早朝の広場で叫ばれた、熱烈な宣言だった。


 しかも、その愛の対象たる“踊り子”は、風邪で寝込んでいる真っ最中。


 従者の制止も空しく、王子は勝手に壇上に飛び乗り、自作の詩を叫び散らし始めた。


「愛は炎! 燃え上がる情熱で国を照らすのだ!」


 民衆の反応は、概ね冷ややかだった。



「またかよ……」

「王子って、本当に暇なんだな」

「詩じゃなくて国政をどうにかしてくれ」



 その日、騎士団は王子の護衛名目で三度も広場を封鎖し、市場は半日ストップ。配達の遅延、荷崩れ、交通渋滞、泣き叫ぶ子どもと叫び返す親。


 誰かが「王子のせいで婚約破談になりかけた」と本気で泣きついたという噂まで流れた。


 その王子はというと、壇上で「愛の福音は鳩の翼に乗って空へ昇る!」などと謎の格言を叫びながら、鳩を勝手に放ち、町の神殿管理局から罰金通知が届く始末だった。




 ◆




 王宮南棟の執務室──


 ルシア・エルネストは、震える手で報告書を閉じた。


「……やってくれたわね、アレクシス」


 薄桃色の髪がやや乱れたまま、彼女は書類の山に顔を伏せた。


「愛の炎で国を燃やすって、もう比喩じゃないのよ……」


 誰も返事などしない。


 広場混乱による損害報告。市民への影響一覧。配備された騎士団からの疲弊報告。そして、ついに舞い込んできた外交担当者からの通達──



【デルート帝国側より、王子の行動を非公式に“遺憾”と表明】



「……あと一回やらかしたら、戦争よ?」


 ルシアは額を押さえた。冷静を保つ訓練は積んできた。だが今は、皮肉しか出てこない。


「恋愛って素晴らしいわね……国家崩壊すら引き起こすんだもの」


 インク壺の縁でペン先を叩きながら、誰にともなく呟く。


「“この広場で愛を叫びたい”だなんて、昔の詩人か何かかしら……あの人、近代政治学って知ってる?」


 誰かが言うべきことを言わないと、本当に滅びる気がする。


「前回の演説で“農民も踊れ”って言ってたけど、収穫期に踊る余裕がどこにあるっていうのよ……」


 彼女は椅子にもたれ、天井を見上げた。


 次の一手を考えながら、心のどこかで切実に思う。


 ──こんな馬鹿王子の尻拭いで、私の寿命、どれだけ削れてるのよ。


 苦労が骨に染みる。仮面を外しても、彼女の仕事は終わらない。







 王都の空気は、ゆっくりとだが確実に変わり始めていた。


 アレクシス王子の暴走を笑っていた貴族たちは、今ではその名を聞くだけで顔をしかめるようになった。嘲笑は、警戒へ。そして警戒は、恐怖と自己保身へと変わる。


「……このままでは我らまで民の怒りを買いかねん」


 貴族派の私的会合にて、重鎮の一人がぼそりと漏らした。


「第一王子を支持していた記録が、あちこちに残っている。今さら手を引いたとて、遅いかもしれぬ」


「だが、あの暴れ馬に賭け続けるのは愚策だ。民は疲れている。王子を“愛の騎士”などと呼んでいたのは、もはや昨日の話」


 ルシア・エルネストは、その会議の“記録係”として隅にいた。


 仮面の下でもない。今はただの文官として。


 だが、彼女の耳に入った言葉はすべて、正確に商会の記録に転写されていく。


 そしてその情報は、すぐに“レディ・セレネ”へと渡るのだ。




 ◆




「で、また演説ですか」


 その日の午後、第一王子は王立劇場の前で『愛と芸術による民衆啓発』と題された新たな一人劇を披露していた。


 観客は通行人。演出は即興。そして内容は、例によって愛のメタファーと政治批判が入り混じった、混沌。


「“この国の貴族制度は、真実の愛に抗う古き壁”……だそうです」


 報告を聞いたルシアは、机に額を打ちつけた。


「その壁で飯を食ってる人間が、それ言う……?」


 今日だけで、三回目の政治的自爆発言。


「もういいわ。次は“言論被害”という名目で公的非難を出しておきましょう」


「セレネ様、それは……」


「ええ、ええわかってるわよ。形式上は“民の声”として処理するわ。どうせ、民は今や完全に黙っていないし」


 そしてその“声”は、皮肉にもセレネの商会を通じて、緻密に編集され、丁寧に拡散されていくのだった。


 






 その頃、ルヴェール公爵邸。


「王子派の重鎮三名が、先ほどルシア嬢の監査下で正式に王政支持に転じました」


 公爵の側近が冷静に報告する。


「ようやく、自分たちの立場が危ういことに気づいたか」


 レオン・フォン・ルヴェールは、書類を読みながら言う。


「……彼女は恐ろしいな。手を下さずに首を落とす」


「“見せしめ”があったからこそです。王子が今朝、“恋の自由市場”を開設すると宣言し、民間の露店と勝手に契約を交わした結果……」


「……まさか」


「はい。税率未申告、販売違反、街路法違反、市場組合の統制破壊。罰金総額、一日で四千リルス。加えてパン屋三軒倒産、騎士団疲弊、鉄道遅延六時間」


 レオンは眼鏡を外し、無言で額を押さえた。


「……あの男、経済という言葉を愛の詩と同じだと思っていないか?」


「“市場も恋も、縛ってはいけない”とおっしゃっていました」


「そうか。ならば彼に教えてやるべきだ。“恋と同じく、市場も死ぬことがある”と」




 ◆




 そしてその夜、ルシアは商会地下で報告を整理していた。


「五名、七名……ああ、これで十三名目の寝返り」


 机の端にある砂時計が、ゆっくりと時を刻む。


「あと三手。そうすれば、第一王子の地盤は完全に崩れる」


 ついでにこの国の“忍耐”という概念も、あと一息で音を立てて崩れ落ちる。


「……私の髪、あと何本残ってるのかしら」


 冗談とも皮肉ともつかない独白が、静かな書庫に響いた。


 だが、彼女の視線の先には、王子ではなく──王国の未来があった。


 そしてその未来は、今まさに、彼女の手の中で動かされているのだ──。



 王国は、外から見ればまだ平穏に見えた。街は灯りに包まれ、人々は一見、日常を生きている。


 だが、舞台の裏では、継ぎ接ぎだらけの支柱が音もなく崩れ落ち始めていた。


 貴族派は揺れていた。第一王子を支持していた者たちが次々と離脱し、反王子派への接触を始めていた。彼らは“忠義”を語る者たちだった。



 ──その忠義が、いつから利害になったのかは誰も言わなかった。



「セレネ様、南部のカランド侯爵家が離脱の意向を示しています。代わりに王政中立への声明を出すようです」


「……事実上の寝返りね」


 ルシアは書類をめくる。


「それで? 家名の保持は?」


「すでに私有地の半分を放棄し、形だけの“罰”を自発的に出しました」


「自己処理ね。悪くないわ、見せしめにもなる」


 彼女の声には、感情がなかった。


 忠義を捨てる者に、同情は必要ない。王政の軸がずれれば、揺らぐのは民の生活。だからこそ、揺れる貴族を許す余地はない。


 だが──


「問題は、ルグラン子爵家か」


 彼らは王子派の最古参であり、なお“忠義”を貫くと言い張っていた。


「“王子の行動は若さゆえ。今こそ支えるべき”と声明まで出しているようです」


「……じゃあ、その“若さ”で国を焼き払われても、黙ってるつもりなのかしら」


 そう言ったルシアの顔には、皮肉も怒りもない。ただ、心の底から呆れていた。


「忠義って言葉、いつから脳停止の免罪符になったのかしらね」


 忠義とは、時に盲目になることだ。だが、利害ですらない忠義など──ただの自己満足に過ぎない。






 ルグラン子爵邸では、その夜も“会議”が行われていた。


「王子殿下は、決して間違ってなどおられん。あのお方は──愛を知っておられる」


「子爵、民の混乱が出ています。財務担当官が“王子演説による市場の実害”を報告しています」


「だが、その犠牲も──大義の前では些事に過ぎん!」


 ルシアの部下が、そのやり取りを魔石で記録していた。


「……これ、もう十分じゃないですか?」


「いいえ。まだ。もっと“忠義”を語らせて。最後まで言わせれば、それは“証拠”になる」


 彼女は冷たくそう告げた。




 ◆




 王都西区の古書店にて。


 レオン・フォン・ルヴェールは、ルシアからの書簡を開いた。


【“真なる忠義とは、国を燃やすためにあるものではない”】


 一文だけの手紙。それで十分だった。


「……皮肉屋め。だが、痛いほどに正しい」


 レオンは静かに笑った。




 ◆




 その夜、ルシアは仮面を手に、商会の地下へと降りていった。


 報告書が山となり、忠義の名を借りた滑稽な妄信が並ぶその中で、彼女は呟いた。


「忠義ね……。そうね。私にもあるわ。守るべきもの。捨てるべきもの。選ぶべき未来」


 仮面が、彼女の手の中で、静かに嗤った。


 それは、かつて王を支えた多くの忠臣たちが、今や誰のために忠義を尽くしているかもわからぬまま沈んでいく中で、


 ひとり、仮面の女だけが、確かな答えを胸に歩き続けていたことを証明するような笑みだった。




 深夜、王都に静寂が訪れる頃。商会ミストレイルの奥深く、灯火ひとつだけが仄かに揺れていた。その灯火の下、仮面をかけた女がひとり、机に向かっていた。


 ルシア──否、“レディ・セレネ”が、仮面を手に再び姿を現す時である。


 その仮面は、商会の代表としての顔であり、同時に彼女の“真の顔”を覆い隠すものでもあった。普段の彼女の穏やかな顔つきや声とは裏腹に、この仮面が表すのは、冷徹な意思と計算だった。


 その日も彼女は、見知らぬ者を迎えていた。その人物は、王子派最後の一人、ルグラン子爵家の長男、ヴァン・ルグラン。


「……お前が“セレネ”か」


 その声は低く、冷たかった。


「なぜここに?」


「父の命だ。“民を扇動し、貴族を誘導している魔女を討て”と」


 ルシアは一瞬、目を細めた。だがその反応も、すぐに消え去った。仮面の下で、何も感じなかったかのように無表情を保っていた。


「討つ? 面白いわね。忠義という名の仮面を被って、利を求める者たちが本気でそんなことを考えるの?」


「貴様──!」


 ヴァンが怒声を上げながら一歩踏み出す。


 だが、その一歩が踏み込んだ瞬間、ルシアは手のひらをかざした。部屋の空間が、目に見えない力で凍りついたような静寂を作り出す。無意識のうちにヴァンは足を止め、体を硬直させた。


「ここまで来てくれたのは感謝するけれど、あなたの忠義に“命”を預けるつもりはないわ」


 彼女の言葉は、低く、冷徹だった。


「わたくしは、商会の代表。そして、“王都を守るための秤”でもあります。忠義を盾に暴力を振るう者たちを処分するのが、今、必要なの」


 ヴァンは言葉を呑み込んだ。目の前に立つ“レディ・セレネ”が、ただの商人に見えることを彼は知っていたが、その目には単なる商会の代表ではない、暗殺者に近い冷徹さを感じ取ったのだ。


「貴方の声も、怒りも、今宵限りの“戯言”として処理させていただきます」


 その瞬間、ヴァンの体は完全に自由を失った。動けなくなった彼に、ルシアは言葉を重ねる。


「あなたの“忠義”も、これで終わり。命令する者がどれだけ暴れようと、その無意味さを理解しなければ、貴族の意味すら無くなる」


 言葉が切れると同時に、ヴァンは意識を失った。周囲の空気がその場を支配し、ルシアはすぐに彼を部屋の片隅に転がした。


「忠義とは、命を捨てるためにあるものではないわ。守るべきものがあるなら、それを奪わせてはいけない」


 その後、ヴァン・ルグランの死は、あっという間に王都を駆け巡った。王命により、ルグラン家は所領を剥奪され、名誉も地に落ちた。記録にはただ一行──


【反乱の兆候、未然に制圧】


 ヴァン・ルグランが、果たしてどうして忠義を命として捧げようとしたのか、それは誰にもわからなかった。ただ、彼が一晩で消えたという事実だけが人々の間で囁かれることとなった。




 ◆




 王都の路地裏、暗い空気に包まれた隠れ家で、ルシアは静かに一息ついていた。表面上は、商会の代表として完全に“演じきった”今の自分に、やりきった感はあった。だが、目の前にある“仮面”に手を触れると、それが不気味な笑みを浮かべているような気がしてならなかった。


「忠義という仮面をかぶり、利を貪る者たちに必要なのは──死という現実だけ」


 そうつぶやくと、ルシアは仮面を持った手をゆっくりと下ろした。その瞬間、彼女の内に宿る冷徹な力が漸く完全に解き放たれた。


 翌日、王都の市場では、流れに乗って話題が変わっていくのが見て取れた。昨日までは、ルグラン家の名誉がどれだけ傷ついたのかがささやかれていたが、今は新たな情報が流れ始めていた──


【“セレネ”という商会代表が何者かの陰謀を妨害し、王政を守った】


 それは奇妙な話だった。だが、それもルシアが仕掛けた新たな舞台の一部に過ぎなかった。彼女はこの王都で、何もかもを掌握していた。


 仮面が静かに、そして確実に嗤った。




 王宮が主催する、春季大祝宴──それはもともと、王国の安定と繁栄を象徴する年中行事のひとつだった。


 貴族、商人、外交官、そして名だたる芸術家たちが一堂に会し、煌びやかな舞踏と饗宴に興じる。その光景は、国家の威信を体現する場でもあった。


 ──今年を除いて。


「お集まりの皆様、ようこそ。わたくしの愛と祝福を、王国の全てに!」


 声高に叫びながら登壇したのは、言うまでもなく──第一王子、アレクシス・リグレイスである。


 その衣装は黄金の刺繍に真紅のマント。まるで演劇の主人公のような装いで、どこか滑稽ですらあった。


「……また始まったわ」


 ルシアは扇で口元を隠しながら呟く。隣の貴族がかすかに頷いた。


「今日も“革命演劇”の幕開けか」


 貴族たちの間には微妙な緊張が走っていた。王子の“前科”は皆知っている。だが、これほど大きな舞台で暴走を始めたのは初めてだった。


「本日! 我が愛しき花──レリアナ嬢との婚約を、ここに宣言する!」


 場が凍った。


 レリアナ──王子の“真実の愛”とされた元踊り子。だが現在、彼女は重篤な病で療養中であり、婚約の件など誰にも知らされていなかった。


「私たちの愛は、病など超えて結ばれるべきものだ!」


 アレクシスは勝手に花束を用意し、レリアナの席──無人の席──へと向かっていく。


「レリアナ、返事を聞かせてくれ!」


 ……当然、返事はない。


 その沈黙を、王子は“深い感動”と解釈したらしい。


「ありがとう、愛している!」


 婚約成立を宣言する王子の横で、花束は机から滑り落ち、床に散った。


 




 ルシアは、深く目を閉じた。


「これは……もう、革命ごっこどころじゃないわね。精神病院案件だわ」


 周囲では一部の貴族が席を立ち始めた。外国からの使節の顔も曇り、騎士団がそっと退席の準備を進めている。


 だがそれでも、王子は止まらない。


「そして! 本日、王政に改革を提言します! 民主制の導入、民による愛の投票制度を!」


 ──王国建国以来、最大の暴言である。


 その瞬間、会場全体が凍りついた。


 貴族たちの間に、低くざわめきが走る。使節団の一部は席を外し、報道員が顔色を変えて走り去った。宴の空気は、もはや“政治災害”そのものだった。


 そして静かに、一人の男が立ち上がる。


 レオン・フォン・ルヴェール公爵。


 彼の一歩は、まるで鐘の音のように響いた。


「第一王子殿下」


 声は低く、だが会場全体が耳を澄ますほどの威圧感があった。


「王政の根幹を揺るがす提案を、酩酊状態で行うおつもりですか?」


 アレクシスは、一瞬だけ怯えた表情を浮かべた。だが、すぐに開き直る。


「私は本気だ! 愛こそが政治を導く時代が来る!」


「──その理想が現実を導くためには、少なくとも理解力と責任が必要です」


 レオンの言葉に、いくつかの貴族が同意を示す。


「あなたは自分の愛を証明するために、何度民を振り回しました? 何度、国家の信頼を削りました?」


 アレクシスは口を開こうとしたが、その先の言葉が出てこなかった。


「……貴族会議は、明日緊急招集されます」


 レオンは、それだけを言い残し、踵を返した。


 宴は凍りついたまま終わりを迎えた。後にこの夜は、“無言の葬送”と呼ばれるようになる。


 仮面の下で、ルシアは静かに微笑んでいた。


「終わりね。王子の時代は」




 貴族会議──それはアレク王国の政を担う者たちが一堂に集まり、重大な決定を下すための場である。


 その朝、王宮最大の会議室は、異様な緊張感に包まれていた。列席する者たちの表情は固く、視線は一様に、前方の玉座を見据えていた。


「第一王子アレクシス・リグレイス殿下の言動は、国家の根幹を揺るがすものである」


 レオン・フォン・ルヴェール公爵の宣言で会議は始まった。その口調は静かでありながら、誰の耳にも鋼のような確信が響いていた。


「もはや“若気の至り”では済まされぬ。王家の一員としての責任を著しく放棄している」


 公爵の言葉に同意するように、席の端でルシア・エルネストが一歩前に出た。彼女は無言で資料を差し出し、その中には、王子の過去半年間の行動記録が綿密にまとめられていた。


「こちらが、王子殿下の影響記録です。経済、外交、市政、民意……いずれも悪化を極めております」


 貴族たちの間に重い沈黙が落ちる。資料に目を落とすたび、誰もが眉間に皺を寄せた。


「我が領でも農作物の搬入が止まった」

「使節団が撤退を通告してきた」

「我が家の後継者が、王子の発言に抗議して出奔した」


 次々と上がる“実害”の声。それはもう、責任論や擁護論を許さない重みを持っていた。


 老宰相が静かに席を立った。


「諸君。我々が問うべきは、王子の“資質”ではない。国家を導く資格が、彼にあるか否かだ」


 沈黙の中、ルヴェール公爵が椅子を引いた音が、場の空気を変える。


「第一王子アレクシス・リグレイス殿下に対し、“王位継承権の剥奪”を議題とする」


 誰かが小さく息を呑んだ。だが反論の声は上がらない。皆が理解していた──これはもう、避けられぬ結末だと。




 その頃、王宮の温室ではアレクシス王子がバラの世話をしていた。


「このバラは、レリアナの髪色に似ていると思わないか?」


 返事はない。使用人も側近も、既に彼のもとを離れていた。残されていたのは静寂と、王子のひとりごとだけだった。


「……誰も、わかってくれない。僕の愛は、本物だったのに」


 その声が温室のガラスに当たり、消えていく。王政の未来を語るには、あまりに儚い音だった。



 会議の決定は、その日のうちに下された。アレクシス・リグレイス第一王子、王位継承権剥奪。



 民衆への発表は“静養による辞退”という形式をとったが、誰の目にも、それが“粛清”であることは明白だった。


 民の反応は驚くほど静かだった。「ようやくか」「遅すぎた」──むしろ安堵すら感じられる空気が広がっていた。熱狂も憤怒もない、ただ疲れ切った者たちのため息だけが街を包んでいた。



 その夜、ルシアは自室の執務机に向かって一通の手紙をしたためた。宛先はレオン・フォン・ルヴェール公爵。


【王子の時代は終わりました。次は、未来をどう描くか。あなたと私の“交渉”は、ここからです】


 ペンを置き、仮面を静かに机に置いた。その銀面が月明かりを反射し、ほのかに微笑んでいるように見えた。


 これが、最後の引導。そして、沈黙の祝砲だった。




 王子が軟禁されてから数日後、王都にはようやく落ち着きが戻りつつあった。


 ざわめきも、混乱も、憤怒すらも過去のものとして沈み、街路には再び日常の声が響く。鍛冶場の鉄音、子どもの笑い声、露店の値切り交渉──それらが王都アレクシアに戻ってきたのは、あまりにも久しぶりのことだった。


 この変化は突然に起こったわけではない。


 人々の心が音もなく揺らぎ、傷つき、徐々に元の生活へと重心を戻していったのだ。破壊ではなく、静かな“修復”。そして、その修復を裏から支えていたのが、仮面の女だった。


 ミストレイル商会の上階、重厚なカーテンで光を柔らかく遮った執務室の奥。仮面をつけた“レディ・セレネ”──正体を偽ったまま、影の中で王国を動かしてきたルシア・エルネストは、そこにいた。


 仮面の魔力によって黒に染められた髪が、昼の光を拒むように艶を潜めている。


「……随分と、静かになったものね」


 彼女は窓辺に立ち、遠くの市場の風景を見下ろしていた。


 喧騒はある。人の声も、馬のひづめの音も、日常は確かに動いている。


 だが、そのすべてが“正常”であると、心から思えるまでにはもう少し時間がかかるだろう。


 その背後で、控えめなノックが三度。


「入れ」


 扉が開き、重い足音とともに現れたのは、ルヴェール公爵──レオンだった。


 彼の姿は変わらない。整えられた礼服、鋭く研がれた視線、そして言葉より先に伝わる威圧感。


「静養、ご苦労だったな。……王都がようやく、形を取り戻してきている」


「そうですか。それなら、良かった」


 ルシア──いや、“セレネ”はいつも通りに仮面越しで答える。声の調子は冷静で、感情の抑揚を削いだ政治の響き。


「お前の動きがなければ、ここまで整うことはなかった。これは事実だ」


「名誉なことですが、誤解のないよう願います。私は、この国の秩序が必要だった。ただそれだけ」


 一切の謙遜でも誇示でもない、ただの事実陳述。だがその言葉に、レオンはわずかに目を細める。


「……ふむ」


 彼の足音が、執務机の脇で止まった。


「お前には、今後も政務顧問として関わってもらう。正式な任命は近日中に下す」


「無理です。代わりに私の一番信頼している──セレネ。彼女を政務顧問としてください」


「...あぁ。分かった。王政そのものが、お前の知恵を必要としている。それだけは理解しておけ」


 セレネは、返答をしなかった。


 長い沈黙のあと、レオンの視線が仮面へと落ちた。


「……その顔も、随分と見慣れた」


「それは皮肉でしょうか」


「いや。ただの観察だ」


 淡々としたやりとり。そのどこにも、甘さや感情のほころびはない。ただ、互いに一歩も退かない者同士が、見えない境界線の上で歩み寄る気配だけがあった。


 レオンは踵を返しかけたが、ふと振り返った。


「いつか、お前がその仮面を外す時。……その時も同じように、理知的であってほしいものだ」


「……努力はします」


 それ以上は言わない。彼も問わず、彼女も語らず。


 扉が閉じたあと、ルシアは仮面の縁にそっと触れた。


 その冷たさは、今もなお、彼女の素顔を隠し続けている。


 ──仮面の裏にあるもの。


 それを明かす日は、まだ訪れない。


 けれど、その日が来る可能性は……わずかに、確かに、存在していた。





 温室には、今日もバラの香りが満ちていた。


 ──ただし、そのバラを育てているのが“元”第一王子アレクシス・リグレイスであることを知っている者は、今やほとんどいない。


 王政を追われ、婚約を破棄され、臣民の支持を失い、名を剥奪された男。その末路が、王宮の片隅で花を世話する園芸係──というのは、皮肉としても出来過ぎている。


 彼がかつて歩いた赤絨毯は、今や誰かの靴の汚れを吸う道となり、彼がかつていた王宮の玉座は、今では影すら踏ませてもらえない。


「……咲いた……咲いたぞ、レリアナ……」


 囁くような声。


 バラの花弁は美しかった。彼が朝晩の水やりを欠かさず、丁寧に手入れした成果だった。


 けれど、その美しさを誰に見せるわけでもなく、称賛の言葉も得られない。


 それはただ、静かに咲き、静かに散るだけのもの。


「レリアナ……君に……」


 彼の手が震えながらポケットに入った一通の手紙を取り出す。


 それは、彼が人生で初めて、本当の意味で“拒絶”された手紙だった。


『……殿下の“愛”は、私には重すぎました』


 ──重すぎる、という言葉。


 それが、何よりも彼の心を深く刺した。


『私が愛してほしかったのは、“私”であって、殿下の幻想ではありません』


『殿下の中にあった“理想の私”が、私を殺したのです』


 何をどう読み返しても、そこに“希望”はなかった。


「……そんな……そんなはずは……」


 膝が折れた。地面に崩れ落ちた彼の手から、土がこぼれる。


「君を幸せにしたかった……。誰よりも……。僕は……ただ……」


 声が震える。


 誰よりも、誰よりも愛していた。──その“愛”が、相手を息苦しくさせていたという事実。


 王子としての矜持ではなく、人としての尊厳が、音を立てて崩れていく。


「みんな、わかってくれない……僕は、正しかった……僕は……」


 叫んだ。


 けれど、返事はない。


 温室の中にいるのは、花と、沈黙と、惨めな男ひとり。


 その背に、かつて慕っていた騎士も、仕えていた使用人も、今は誰もいない。


 目を伏せ、涙をこらえようとしたが、もう意味はなかった。


「違う……違うんだ、僕は間違ってなんか──」


 声が掠れた。


 ──間違っていたのだ。


 民を愛していると言いながら、民の声を無視し、


 恋人を守ると言いながら、彼女の意志を踏みにじり、


 “愛”を語りながら、世界の中心にいたのは常に“自分”だった。


「……どうして、誰も……僕の気持ちを……」


 その答えすら、今の彼にはわかる。


 ──誰も、見ていなかったからではない。


 彼が、誰の声にも耳を貸さなかったのだ。


 孤独というより、“自分しかいなかった世界”。それが、彼の築いた王国だった。


 温室の隅に、使われなくなった枯れた鉢が山積みになっている。


 まるで彼自身のように、手入れを忘れられ、命を落として朽ちていった植物たち。


「……ごめん……ごめんな……」


 誰に向けたのかもわからない謝罪の言葉が、ただ虚しく空気に消えていく。


 花たちは美しかった。


 だが、彼はもはや、その美しさを誰とも分かち合えない。


 ──これが、アレクシス・リグレイスに与えられた、最後の“ザマァ”である。


 社会的死。


 恋人からの拒絶。


 仲間からの沈黙。


 民からの忘却。


 国家からの剥奪。


 その全てを抱えてなお、ただ生きるしかない。


 ──この男は、死にさえ値しない。


 そして、生きる意味も与えられない。


 それが、この国のすべてをかき乱した“王子様”に与えられた、完璧な裁きだった。





 王都アレクシアは、表面上の平穏を取り戻していた。


 王子アレクシス・リグレイスの失脚と継承権剥奪は、王政史に残る茶番として片付けられつつある。貴族たちはようやく胸を撫で下ろしたが、その胸の内は、次に降ってくる災厄の予感でざわついていた。


 ──デルート帝国。


 北方に広がるこの大国は、アレク王国にとって不倶戴天の仮想敵であり、長年にわたり「停戦中」という実に便利な名目の下で、静かに牙を研いできた。


 そして今、その刃が鈍く光を帯び始めた。


「国境地帯にて帝国軍、演習名目で三千規模の部隊を展開。前線配置は防御ではなく突破型……ほぼ確定です」


 報告書を前に、王政顧問ルシア・エルネストは指先でページをめくりながら、ため息一つ。


「また“演習”ね。あの国は、戦争の前に体操をするのが好きらしいわ」


 軍務卿が渋面で頷く。


「こちらも防衛陣形を──」


「急ぎすぎですわ、閣下。焦りは敵を利する最良の手段。どうか落ち着いてください。演習は演習。偶発的衝突に見せかけて、我が国が先に剣を抜いたように“演出”されるのが関の山です」


 ルシアの声は、穏やかだが冷徹だった。


「──よって、別の手を打ちましょう。静かに、確実に」


 その言葉が意味するものを理解した者は、少なかった。


 彼女がその夜、王政庁舎の地下保管室に足を運び、ひとつの仮面を取り出すまで──


 “レディ・セレネ”。


 王都一の影響力を誇る商会、ミストレイルの代表にして、無数の貴族を手玉に取る仮面の商人。その鋭利な情報戦は“第二の王政”と恐れられていた。


 もちろん、公には“別人”ということになっている。


 王政内の誰もが、あの高貴で冷徹な商会代表が、庶民出の文官ルシアと同一人物だなどとは思いもしない。なぜなら、人は見たいものしか見ないからだ。


「再始動。セレネ。目的は外交封鎖と補給線遮断。ねぇ......」


 ぱちり、と仮面が嵌る。


 髪が黒く沈み、眼差しが鋭く変わる。魔力が気配を変え、声までもが別人のそれへと変貌する。


 ──そう。彼女は“なりきる”のではない。完全に“別人”になるのだ。


 翌日、ミストレイル商会本館の奥では、すでに“作戦会議”が始まっていた。


「帝国の貿易船がカルナ港へ不正物資を搬入中。件の物資、軍需指定。証拠映像はこちら」


「送達遅延を偽装して、搬入先との契約を流す。信用格付けを“意図的に”下げてやれば、連鎖的に信用崩壊が起きるわ」


「商業戦……ですか」


「違うわ、“国家戦”。武器を使わずに敵国を崩す。戦争って、案外静かなものよ」


 一方、王政庁舎ではルシア・エルネストとしての彼女が、いつもどおり書類を黙々と処理していた。


「ルシア様、セレネ様からの文書です。“本件、帝国との物流障害につき、通商遮断の準備を”とのことです」


「ありがたいですね。本当に頼もしい方です」


 ルシアは微笑を浮かべ、文書を受け取った。


 その手の中で、彼女の“影”が動いていた。


 ──滑稽だった。


 彼女を最も信頼している者たちが、皮肉にも“仮面の彼女”にだけ希望を託している。


「本当のことほど、人は信じない。むしろ、嘘のほうが安心するものよね」


 仮面を通せば英雄。


 素顔なら、ただの平民。


 それが、この国の“真実”だった。


 だからこそ、彼女は黙して働いた。


 夜、ミストレイルの私室で仮面を外す。


 素顔に戻った途端、肩から力が抜ける。


「疲れた……でも、もう少しだけ」


 国を守るためなら、素顔など捨ててもいい。


 誰に知られずとも構わない。


 ただ、国が平穏を取り戻すまで。


「──この国が、誰かの“お遊び”で壊れないように」


 仮面を見つめながら、彼女はまた静かに、微笑んだ。


 アレク王国の地図を眺めながら、ルシア──否、“セレネ”は静かに指を走らせた。


「……次は、ここね」


 彼女の指が示したのは、国境近くの交易都市・ベルンハイム。


 そこは、デルート帝国との唯一の中立港湾都市であり、表向きは両国の平和を象徴する貿易拠点だった。だが今、その港の裏で、別の火がくすぶっていた。







 帝国の供給船が続々と入港し、謎の“芸術品”や“祭礼器具”の名目で大型木箱を運び込んでいる。中身は──問うまでもない。


「祭礼にしては、随分と火薬の匂いが濃いこと」


 セレネは仮面の奥で微笑んだ。


 王政庁舎では未だに“演習拡大”という柔らかい言葉が踊っているが、彼女の元には既に確証があった。


 戦争の準備は、もう始まっている。


 だからこそ、彼女も“商戦”の装いで戦場へ赴くのだった。


 王国と帝国、それぞれの代表がベルンハイムに集うことになった。


 場所は中立評議会の迎賓館。


 アレク王国側は“セレネ”を外交顧問として派遣。


 ──公的には、彼女は“王政顧問ルシア”とは無関係の、独立した大商会の女主人である。


 帝国側の代表は、若き使節官・エルヴァン・セレイア。


 帝国宰相の甥にして、知性と毒舌を併せ持つ冷笑の策士。


「これはまた……仮面の女神が舞い降りたと噂されるだけのことはある」


 出迎えた彼の口からは、丁寧な皮肉が漏れた。


 セレネは応じるように一礼した。


「光栄です。使節官殿も、さながら帝国劇場の第一座長のような佇まいで」


「貴女に比べれば、私はまだ顔を隠す勇気が足りないようだ」


「顔を隠すのではなく、期待を隠しているだけですわ。仮面は“顔”ではなく、“価値”を守るものです」


 彼は小さく笑った。


「なるほど。では、その価値とやらが“交渉”で明かされるのを、楽しみにしております」


 交渉は、当初から緊張を孕んでいた。


 帝国は軍の集結を“地元の治安強化”と主張。


 セレネは、冷静に笑いながら返す。


「治安強化にしては、あまりに手厚いですね。周囲に暴動でも起きたのかしら?」


「我が国では、平和もまた“力”で保証するものでして」


「それは素晴らしい。でも、“平和のための演習”の船が、偶然にも火薬と兵糧を積んでいるとしたら、どのように解釈すれば?」


 会談は言葉の刃で斬り合う静かな戦だった。


 だが、帝国が思い描いた“圧力”は通用しない。


 なぜなら、彼女の手元には──すでに“切り札”がある。


「これが、昨夜帝国船が搬入した“芸術品”の検査記録です」


 使節官エルヴァンが目を細める。


「……これは」


「火薬十樽。乾燥兵糧六百袋。連絡将校二名分の身元証明」


「……随分と、鑑賞に実用的な芸術ですね」


「戦争は、いつだって“見世物”ですもの」


 会談は、沈黙のまま終了した。


 結論は出さず、ただ事実だけが残された。


 その夜、王国商会の傘下にある港湾管理局が、帝国船への接岸許可を一時停止。


 帝国は抗議声明を出すが、すでに複数の中立国が“警戒強化”に同調し始めていた。


 戦争は、未だ始まっていない。


 だが、セレネは“勝ち”を拾い始めていた。


 帰り道の馬車の中、仮面を外したルシアは窓から夜の街を見下ろしていた。


「仮面の女にしかできないこと……少し、疲れてきたかもね」


 それでも、また明日も仮面を被る。


 誰にも正体を知られず、誰にも感謝されず、それでも“正しさ”だけを背負って。


 そんな彼女に、ふいに一通の書簡が届く。


 ──送り主:エルヴァン・セレイア。


【“次回は、仮面なしでお会いできれば幸いです。誤解のないように言いますが──これは、外交上の“脅し”ではありません。……私個人の、好奇心です”】


 その文面を見つめながら、ルシアはそっと微笑んだ。


「好奇心……ね。仮面を外すには、随分と面倒な言い訳だけど」


 笑いながらも、その手がわずかに震える。


 仮面の奥に隠していたはずの何かが、微かに顔を覗かせる。


 夜の帳が下りていく街で、ルシアはもう一度仮面に触れた。


 ──このまま何も起こらなければ、それはそれでいい。


 でも、もし。


 もし仮面を外すときが来るのなら。


 その瞬間、彼女は誰の顔で笑うのだろうか。


 ルシアとして。 セレネとして。 それとも──そのどちらでもない、素顔の自分として。


 その予感は、まだ言葉にならずに、ただ胸の奥でくすぶっていた。




 仮面は、飾りではない。


 それは誰かの欲望を拒む盾であり、真実を切り裂く刃。




 そして今、王国の仮面は、敵国の虚飾を暴く時を迎えていた。


 ──事の発端は、小さな誤報だった。


 デルート帝国側の港湾管理局が、王国の輸送船が「領海侵犯した」として拿捕を発表。積荷は武器だと主張し、王国への非難声明を各国にばらまいた。


 だが。


 その「武器」は、王国が帝国へ正式に輸出していた“戦災医療物資”だった。


 しかもそれが搬入された証拠となる港の記録──それを“あろうことか”提供したのは、帝国の地方官庁自らだった。


「無理な工作は、無様を晒すだけ。……素敵な手の内をありがとう」


 セレネは、手元の報告書に一筆添え、封筒に入れて封をした。


 宛先は、帝国が警戒していた中立諸国の情報機関。


 その夜、三つの国が一斉に帝国に照会要求を出し、四つの新聞社が“戦争詐欺”として帝国非難を掲載した。




 翌朝の市街──


「また帝国がやらかしたぞ」

「フェイク声明を流すなんて、もう末期だな」


 笑いと皮肉が、国を揺らす。


 デルート帝国、外交的信用に深刻な打撃。


 その打撃が、貿易停止、通貨下落、そして対外融資契約の撤回へと連鎖していくのに、そう時間はかからなかった。


 国際経済という名の絞首台に、自ら首をかけたのは他でもない、帝国だった。


 その報を受けて、王国会議室では。


「……これは、明確な“勝利”だな」


「武器を使わずに、ここまで帝国を潰すとは」


「やはり、“セレネ様”は恐ろしいお方だ」


 笑う者もいれば、震える者もいた。


 だが、その中心にいた彼女──仮面の女は、冷たく言い放った。


「勝利ではありません。まだ“足を滑らせた”程度。次は、こちらから押し返す番です」


 その言葉に、一瞬、空気が止まった。


「──王国として、正式に“通商封鎖”を発動します」


 彼女の言葉は剣より鋭く、鉄より重く。


 その一言で、デルート帝国に残された“逃げ道”すら断たれた。


 港は閉じ、物流は止まり、金融は死んだ。


 そしてついに、帝国議会内での抗議デモが爆発。


「戦争を招いたのは、政庁の失策だ!」

「セレネに屈したのはお前たちだ!」


 その名が、敵国の議事堂で罵声と共に飛び交う日が来ようとは、誰が想像しただろうか。


 ──仮面の女の名前が、敵の恐怖として語られるという皮肉。


 そして夜。


 ルシアは静かに仮面を外し、薄く笑った。


「さて、あとは……どこまで崩れるか、見届けましょうか」


 仮面の内側にある温度は、もうどこか現実離れしていた。


 彼女が今、唯一恐れているものがあるとすれば。


 それは──自分自身の“快感”だった。


「成敗、完了。だけど……気を抜いたら、私もこの“役”に飲み込まれるわね」


 夜の帳が降りる王都で、仮面は静かに光を失った。


 それでも、彼女の胸の奥で、何かがまだ燃え残っていた。


 復讐でも、誇りでもなく。


 たった一つの、誰にも見せられない“顔”を。


 いつか、本当に必要なときだけ見せる日のために──



 春風が、王都に花の香りを運んでいた。


 アレク王国最大の祭礼──“春の凱祝祭”。


 戦火を避け、平穏の訪れを祝い、民と貴族とが一堂に会して踊り、食べ、笑う祝祭。その賑わいは、王国の心そのものであり、そして今年は、少しだけ特別だった。


 デルート帝国の外交的敗北。情報による制裁の連鎖。そして仮面の女“セレネ”の存在がもたらした平穏。


 誰もが安堵し、誰もが未来に期待を向けていた。


 ──ただ一人を除いて。


「……あの仮面、今日は着けてないんだな」


 公爵──レオン・フォン・ルヴェールは、静かに言った。


 祭の終盤、灯火が点され、桜灯が街を照らすその片隅で、彼は一人の女性と向き合っていた。


 ルシア・エルネスト。


 王政顧問、文官。仮面などつけていない、ごく普通の平民出身の女性。


「何か……ご用件でしょうか、公爵閣下」


 彼女の声は、普段通りに穏やかだった。


 だが、レオンはゆっくりと首を振る。


「いや。ただ、礼を言いに来ただけだ。“セレネ”殿への」


 一瞬、ルシアの呼吸が止まった。


 祭の音楽が遠くで響き、風にのって花弁が舞う。


「……仮面の下の人間に、そんな挨拶をして何になるんです?」


「仮面が無ければ国を救えなかった。それは理解している。ただ……」


 彼はポケットから、一枚の書簡を取り出した。


 かつて彼女が“セレネ”の名で送った、ただ一人の協力者に宛てた、手書きの文だった。


「この文の癖が、私の記憶にあるものと一致した。文官時代に、幾度となく受け取った議事録。あれはお前のものだった」


 ルシアは、もはや否定もしなかった。


 静かに、ただ静かに目を伏せた。


「どうか、ご内密に」


「もちろん。誰にも言わない。お前がそれを望む限り」


 彼の声は優しかった。思いがけないほどに。


「……仮面を外した後、残るものはなんだと思う?」


「……虚無、かもしれません」


「だとしたら、私はそれに手を伸ばしたい。少しでも、それが空ではないと証明するために」


 風が吹き、桜が彼らの間を通り抜けた。


「仮面のお前が消えても、私は、素顔のお前と話がしたい。国の話ではなく。政の話でもなく」


 ルシアの瞳が、ゆっくりと彼を見返す。


 彼女の口元が、初めて“仮面のない笑み”を形作った。


「……ならば、春の終わりにもう一度、同じ場所で」


 レオンは小さく遠くを見て頷いた。


 そして人々の歓声の中、彼女は人混みの中へと消えていく。


 だが今、その背には、もう仮面はなかった。


 夜空に打ち上がる花火が、未来の予感を照らすように咲き乱れていた。


 彼はその光の中で、ただ一つの疑問を胸に抱いていた。


 ──あの微笑は、仮面の彼女が見せたことのないもの。


 ──あの声は、記録の行間に潜んでいた温度そのもの。


 もどかしさから勘違いしてるのかもしれないが、これは“始まり”なのかもしれないと。


 冷静さと計算の先にある、名もなき関係の一歩目。


 確信ではない。ただ、ひどく静かな確信の“気配”。


 それだけを手土産に、レオンはその場を後にした。




◆ ◇ ◆




 ──そして春が終わり、夏の兆しが訪れるその頃。


 王都のとある小さな庭園の一角で、一人の男が、約束の時間を待っていた。


 彼の手には、花束も宝石もない。


 ただ、一枚の白紙と、一枝の花が添えられていた。


「……さて。あの仮面が、どんな顔で来るのか」


 風がそよぎ、彼は静かに目を閉じた。


 そして、足音が一つ、石畳を鳴らした。


 始まる前の静寂。それは、あまりにも穏やかで─────。



 未来を思わせるには、十分な余韻だった。


 花の香りと共に現れた彼女の姿は、仮面も鎧も纏ってはいなかった。


 ただ、軽やかなワンピースに身を包み、胸元には一輪の小さな蓮の花が揺れていた。


「遅れてしまいました。お待たせしましたか?」


「いや、ずっと前から──この日を、待っていた」


 ルシアはその言葉に、今度は隠さず笑った。


 そしてその笑みは、春の終わりを告げる風に乗って、静かに夏へと溶けていった。


















お疲れさまでした!!

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!


いや~ちょっと長くなっちゃいましたね、すみません……(汗)


実は、アレクシス王子のキャラは、当初はもっと真面目にする予定だったんです。

でも、ある程度書き進めたあたりで「あ、これもうブレーキ効かないな」ってなりまして(笑)

それならもう、全力で突き抜けてもらおう!ということで、今の彼になりました。


最後のシーン、もう少し恋愛要素を入れたかった気持ちもあるんですが……

正直、そのときの私の体力が尽きかけていて……すみません!(笑)


そして最後に大事なことをひとつ──

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それでは、改めて。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
とにかく圧巻の筆致でした。アレクシス王子の破滅的な恋愛暴走と、それを冷静かつ冷酷に後始末するルシア=セレネの対比が鮮烈で、物語全体に心地よい緊張感と風刺が通奏低音として流れていました。王子の「愛の詩」…
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