臥薪嘗胆・臥薪篇
時は春秋時代。当時呉と越とは両者とも南方で力をつけてきた国であり、また江南の覇権を握るべく対立していた。
この時、呉王の闔廬は伍員という人物を推挙して国政を相談していた。
彼──この伍員という人物は同じく南方である楚の出身だったのだが、実は母国の王に父を誅殺され、同時に兄も喪い、命からがらにここ呉へと逃れていた。だが呉に入ってからは十分な計画と観察により楚侵攻の準備を行い、軍を率いて首都である郢を陥落せしめた。かくて員は、父兄を殺しし楚に報いたのだ。
だが問題はその後だった。越王の死を好機として越にも戦いを仕掛けたのだが、この時には敗北を喫してしまう。闔廬はその時に矢で足を射られ、やがてその傷のために亡くなったのだ。それから子の夫差が王位に就き、伍員も彼に仕えることにした。
夫差は越への復讐を誓った。彼は父を殺された苦しみを忘れぬよう朝夕は薪の上に臥して痛みの中で眠り、また家臣の出入りする度に「お前は、越がお前の父を殺したことを忘れたのか!」と叫ばせたのだ。この習慣の話は伍員や他の家臣のみならず、軍の最下層にまで広まっていった。
──ところが噂とは、常には正確に伝わらないもの。特に末端で動く兵卒等は、夫差が毎晩薪で寝るという情報しか知らなかったのだ。或る駐屯地の兵卒たちは語り合う。
「なあ、王様ってなんで薪なんかで寝るんだ? 絶対痛いだろ」
「いや俺に聞くなよ。まあ……それなりの理由でもあるんじゃね?」
「そうだ、俺たちも薪で寝てみよう。これなら王様の気持ちも絶対わかる!」
それから兵卒たちは薪を持ち込んで、毎晩その上で寝ることにした。だがやはり薪はゴツゴツしており、まともに眠れる者は誰もいない。そうして誰かが号令するでもなく、各々が薪の上で最も眠り易い体位を探るようになった。仰向けでもない、俯伏せでもない、横向きでもない、ましてや正座でもない……と。その試行錯誤と薪の凹凸とによって全身のツボが効率的に刺激され、日々の訓練と戦闘とで鍛えられた肉体を更に活性化しているとは露も知らずに──
そして三年目となる周の敬王二十六年*、夫差の軍は遂に夫椒の地で越を敗った。勝利の晩、伍員は兵士たちを集めて祝杯を挙げた。
「本当にありがとう。今回の戦で勝てたのも君たちのお蔭だ。前より強くなったな、本当に……いや、すごく強かった。課外訓練でもやってたのか?」
「やってませんよ~、本当に」
ここでは、薪のマの字さえ聞こえてこなかった。
【参考文献】
十八史略・巻一
史記・伍子胥列伝、越王勾践世家
*周の敬王二十六年……紀元前四九四年。当時は元号発明前であり、年は王の即位年数で記した。また当時は周が一応の君主であったため、周王による表記を用いた。また原典でもこの表記である。




