覆水盆に返らず
時は殷周交代の期。呂尚という男は、初めは馬氏の女を娶って妻とした。だが彼は普段本ばかり読んで家業を大事にせず、それに失望した妻は離婚を求め去ってしまった。
だが彼女もそんなことを忘れた頃、呂尚は文王の目に留まり太公望として斉の国に封ぜられることとなっていた。そうして呂尚は大出世を果たした訳だが、この話を聞いて馬が駆けつけて言った。
「ねえ尚さん、あの時はごめん。あなたが本ばかり読んでたからって、勝手に理由つけて別れたりなんかして。でも、お願い。またあなたのお嫁さんになって、もう一度だけやり直したいの──」
それを聞いた呂尚──いや、太公は静かに振り返り、馬の目をじっと見つめる。すると彼はどこからか水の入った一つの盆を取り、それを目の前で地に傾かせてみせた。そして太公は言い放つ。
「なら、まずはこの水を盆に収めてみろ」
馬は必死で湿った土を掻き集める。だが惟だその泥のみしか得られず、彼女はうつむいた。やがて馬のしゃくり上げる声が聞こえる。その身は震えながら徐ろに地へと伏せ、こぼれた細い髪が土を這った。
馬はついに手を止める。その様の一部始終を見ていた太公は、見下ろしながら言葉を発しようとしていた。だが次の瞬間、大きな地響が轟然と辺りを取り囲む。
「アアアアア……はあ──ッ!!」
須臾にして地に亀裂が入り、水分を含んだ巨大な土の塊が空中に浮かんだ。すると塊はボロボロと崩れ始め、遂には透明な水のみが残る。水は飛び込むようにして太公の手の盆に入り、以ってようやく地響は収まった。そして、馬はひたむきな眼差しでつぶやく。
「……これが、愛の力です」
その後、太公は普通に彼女を説得して実家に帰した。
【参考文献】
拾遺記
史記・斉太公世家