未来フォルダ~オムライスから始まる大女優への道~
「あれ?なにこれ?」
休憩室、という名の実質ロッカールーム兼事務所で、私はパイプ椅子に腰かけながらスマホの画面に向かって話しかけた。
前もって「ヘイ」とか「オッケー」とか言ってなかったし、まわりに聞いてくれる人もいなかったが、私は思ったことを口に出すタイプなのだ。
友人からはよく「なんかお母さんみたい」と言われる。言っとくけどウチのお母さんはこんなもんじゃないよ。
バイトの休憩時間。
ひとりきりで話す相手もいなかったので、私は暇つぶしに写真の整理でもしようかとスマホをいじっていた。
最近までは撮るだけ撮ってほったらかしだったのだが、私のことをお母さん呼ばわりした友人にスマホの赤くなった容量表示を見せると、まるでお母さんに教えるみたいにやさしく写真整理の仕方を教えてくれた。
それからは要らない写真を削除しながら「たべもの」とか「ともだち」とか、分かりやすい名前を付けたフォルダに分けるようになった。パズルみたいで意外に楽しい。
それで今も、パズルゲームのBGMを鼻でふんふんと奏でながら写真をフォルダに移していたのだが、そんな中に、見慣れない名前のフォルダを見つけたのだ。
アルファベットで「mi」とだけ書かれている。
なんだろう?間違って作っちゃったのかなぁと思いながら中身を確認してみると、結構な量の写真が入っていた。
ところどころピントが合っていないというかボカシが入っているというか、とにかくハッキリしないものが多かったが、比較的ハッキリしているオムライスの写真はウチのお母さんが作る固焼きタイプのオムライスで間違いない。
何か変だなと思いながらも、うーんもうちょっとふんわりに出来ないものだろうかと、そんな事を考えながらシゲシゲと写真を眺めていたら「おつかれーっす」と後輩のサイトー君があがって来た。
時計を見たら私の休憩時間はすでに終わっていた。
わぁごめんごめんと言いながらエプロンをひっつかんだ私は、あわてて仕事に戻って、それっきりそのフォルダのことは忘れてしまった。
*
それを思い出したのは、その夜のごはんがオムライスだったからだ。
思わず、いろいろすっ飛ばして「なんで?」とお母さんに聞いてしまった。
「今日はお父さん、外で食べてくるって言うからー」
キッチンのお母さんはそう言って「途萌香ちゃん、お父さんのせいでお母さんのオムライス食べられない!って言ってたじゃない?」と付け加えた。
オムライスだとごはん食べ過ぎちゃうから。とかいう理由で、お母さんはお父さんにオムライスを出さないようにしていた。
でもお父さんなかなか痩せないのよねえ。痩せたらカッコいいのに。背はちょっと低いけど。彫も深いし。でも最近髪が――
さらに続くお母さんによるお父さんにまつわる独り言を聞き流しながら、私は慌ててスマホを取り出すと、例のフォルダを開いて写真を確かめた。
多少ピンボケてはいたけれど、確かに写真のオムライスと目の前のオムライスは同じものだ。
「は?」
思わず声が出た。
それが聞こえたのか、お母さんは「だってフワフワにするの難しいんだよ」とかなんとか言っていたがそれどころじゃない。
なんで晩ごはんの写真が、もうスマホのなかにあったの?
*
私はモヤモヤを抱えたまま、でもオムライスはしっかり食べ終えてから、急いで自分の部屋に戻ってベッドに寝転がった。
改めて例のフォルダの写真を、時間をかけて見てみる。
やっぱりボンヤリして何だか分からないものも多かったが、私と思しき人物が写っているものは結構あった。
舞台やカメラの前で何かを演じている姿や、顔はぼやけて良く分からないけれど、背の高い男性と手を繋いでいる写真もある。
しかしこれまで私は、ちいさな頃のお遊戯的なものを除けば、舞台に立った経験がない。
男性とお付き合いしたことが無いとは言わないが、その彼らと写真の彼とでは何と言うか、イケメンオーラの格が違う。ような気がする。なんかいろいろ申し訳ないが。
写真の彼、そしてその仲間と思しき人たちの顔はハッキリしなかったが、どうやら劇団のメンバーのようだ。写り込んでいるポスターから、その劇団の名前はハッキリと読み取れた。
同年代の女子たちと同じ程度にはタレントやアイドルにあこがれを持っている私だが、芸能界にはそれほど詳しいわけではない。
しかしそれでも知っている、ドラマや映画に出演しているような有名な俳優をたくさん輩出してきた有名な劇団だ。
え?どうしよう。
私の自律神経は何かの可能性を感じ取ったのか、心臓を激しく収縮させた。体中を血液が駆け巡る音がする。
いやいや間違ってフォルダを作っちゃって、たまたまそこにオムライスの写真が紛れ込んだだけだよね?
でもウチのオムライスの写真なんて撮るかな私。インスタにアップできない写真撮らないよね私。バイトとは言えオシャレカフェ店員だし私。あんな映えないオムライスいや待ってお母さんのオムライスうまいよ!美味しいんだよ大好きだよ私。だが見た目が。そうあれだマヨネーズだ。あいつを混ぜれば固まらないってこないだ店長言ってた、今度お母さんにいやそれはいい、だめだ私の頭の回転が速すぎて私がついていけない。宝の持ち腐れ、豚に真珠。いや豚はひどいな猫のほうにしよう猫に念仏――
私は血流ブーストでゾーンに入ってしまった私の論理的思考能力と少し距離を置く事にした。
あそっか。
この劇団の入団オーディション受けてみればいいじゃん。
おかげで一瞬で結論にたどりついた。
演技経験の無いシロウトの私がそうそう受かるもんでもなかろう。
べつに失うモノも無いしさ。
早速私は劇団のホームページでそこに入る方法を調べてみた。
ふむふむ。
入団と言うか、まずは試験に合格して、付属の研修所に入る必要があるみたいだ。
18歳以上なら演技経験不問で受験できるらしい。募集人数は年に30人ぐらい。いい具合に狭き門だな。よく知らないけど。受験料も1万円ちょっとで私のバイト代から出せない額じゃない。
私は「資料請求はこちらから」をタップした。
*
数か月後。私はむちゃくちゃ腹筋をしていた。
入所試験には予想していたよりもたくさんの人たちが集まっていて、予想どおり受験者は演技経験のある人がほとんどだった。
私は劇団の偉い人達の前で「スマホに覚えのない写真があって、その中で私はこの劇団でお芝居をしていたので応募しました」と真顔で言って、演技とは口が裂けても言えないような、ソウダさんのモノマネみたいなものを披露して見せた。
ソウダさんはカフェの常連さんで毎朝決まってエスプレッソのドッピオをオーダーしてくれるヒゲが渋いおじさんだ。「いつものドッピオでよろしいですか?」と言ってあげるとニッコリ笑ってとっても嬉しそうにする。いつも「そうだね」と言ってくれるのでソウダさんと呼ばれていて、バイトの間でマスコット的な人気がある。いや何の話だったか。
ともかくだから合格通知をもらった時は正直喜びよりも「どうなってんだあの劇団は」と思った。
しかし、という事はやはりこれはそういう事なのだろうと、私は改めてスマホを眺めた。
この突然現れた「miフォルダ」は、本当に「未来フォルダ」なのかもしれない。
だとしたら私は将来女優になるのだろうか。舞台やドラマ、映画やCMで大活躍してしまうのだろうか。そしてイケメンと恋に落ちるのだろうか!
そんなわけで私は迷うことなく劇団の研修生となった。
授業料のことまでは考えていなかったが、お父さんに相談すると「やりたい事があるなら途萌香を応援するよ」と言って足りない分を出してくれた。
ありがとうお父さん。将来ギャラで何倍にもして返すからね。内緒でカップラーメン食べてたことも黙っててあげる。
劇団の研修生は講師から指導を受けながら鍛錬を積み、何度かのオーディションを経て、劇団への所属を目指すことになるらしい。
30人ほどの研修生のうち最終的に正所属が叶うのは例年2、3人ほどなんだそうだ。
実際にレッスンを受け始めると思った通り、私と周りとの差は歴然としていた。
が、それは想定内だったので焦りは無かった。想定外だったのは、想定以上に演劇には体力が必要だったことだ。
講師たちは基礎的な筋トレや柔軟の方法、自然な姿勢や発声などを指導してくれたが、毎日手取り足取りしごいてくれる訳ではなかった。それを日々実践するのは研修生自身だ。
私は周りに付いていくので精一杯だったが、なにせ私の未来は女優で確定しているのだ。
常識的な回数を超えるむちゃくちゃな腹筋運動におなかをピクピクと痙攣させながら、しかしこの苦しみは将来確実に役立つのだと思えば、薄れゆく意識の中でも自主トレーニングに力が入る。
おかげで半年も経つと、私はなんとか周囲との差を埋めることが出来たようだった。もちろん演技力の面ではなく、あくまでスタミナの面でだが。
そんな、腹筋も割れて、主に肉体的に充実していた日々の中で出会ったのが彼だ。
ひとめ見た瞬間にピンと来た。あの写真の彼だ。
彼はひとつ上の先輩で、色白ですらりと背が高く、日本人離れした彫の深いそのマスクもあいまって、研修生のなかでもひときわ目立つ存在だった。
というか完全に私好みの顔だった。
念のためと、改めて未来フォルダの写真をじっくり見返してみる。
私とほほ笑み合う男性の顔は、以前よりもクッキリしているようで、確かにこれは彼だと確信できるものになっていた。
こりゃあイケる!
以前なら遠くから眺めてきゃあきゃあイケメンと喚いているだけだったであろう私は、迷うことなく堂々と前フリ無しで真正面から彼に告った。
彼とそういう関係になるのは確定しているのだからひとつも心配することは無いのだよ君ぃと思いつつ、でもやっぱり結構ドキドキして、私のまぶたはピクピクと痙攣した。
こうして私の未来フォルダへの信頼度は、またひとつ上がった。
まぶたピクピク痙攣女は無事、ギリシャ彫刻型イケメンの彼女に納まる事に成功したのだ。
彼と付き合い始めて、私の世界は広がった。
誰から見ても何処から見てもイケメンと言える彼の隣に立つと、なんだか誇らしくて以前にも増して自信が湧いてくる。「最近きれいになったね」なんて言って、男たちもたくさん寄って来るようになった。
私は大気圏を突破して赤道上空3万6000キロの衛星軌道上まで浮かれあがった。
それはそうだろう。素敵な彼。確定している女優としての未来。これで浮かれるなという方が無理だ。
「女優になるならもっと色々な経験を積まなくちゃだめだよ」
そんな言葉を囁ながら近づいてくる、いわゆる業界人たちとも付き合うようになった。彼らは私の知らない大人の世界をたくさん見せてくれた。
彼は心配そうにしていたけれど私は将来大女優になるんだから、若いうちにたくさんいろいろなものを見て、そして経験しておかなければならない。
そう、たくさんだ。
私はたくさんの経験を積んで、精神的にも、そして肉体的にも充実した毎日を送るようになった。
赤道上空をたくさんの静止衛星たちと一緒にフワフワと舞いながら、私はより魅力的な女になっていったのだ。
それなのに。
突然彼に呼び出されて、別れを告げられてしまった。
「ごめん、僕はもう君のこと、尊敬できなくなってしまったみたいだ」
そう言い残して去っていった彼を、私は、引き止めはしなかった。
だって私は女優だから。
彼との別れも芝居の糧にして、明るい未来に向けて羽ばたくんだ。
そう言い聞かせて、私は大切な人から否定されてしまった私という存在を肯定した。
数週間後に行われた、研修生の発表公演オーディションの結果、私は実質的に裏方に回された。
身に覚えはあった。確かにこのところ稽古に身が入らないことが多かったし、自主トレーニングも疎かになっていた。
でも私の未来は確定しているはずだ。こんなところでつまずくはずがない。
稽古場でオーディションの結果を知らされた直後、私は慌ててスマホを取り出すと、久しぶりに未来フォルダを開いて、そして大きく目を見開いた。
「はぁ?なんで……」
彼と一緒に写っていた写真は、大きくぼやけて、ほとんど誰だかわからなくなっていた。
悲しかったがそれは仕方がない。彼とは終わったのだ。
私が愕然としたのはその先だ。舞台の中心で輝いていた自分の姿までもが、消えかかっていた。
心臓が激しく収縮と拡張を繰り返す。
待って待ってこれ何?どういう事?私の未来は確定してたんだよね?
ホントに待って。なんでよ?彼と別れたから?そうなの?
そうか。
彼と別れたから、写真から彼が消えて、この未来フォルダは、実現しなかった未来を含んだ、不完全なものに、なって、しまったんだ。
この未来フォルダの未来は、確定したものじゃなかったんだ。
きっと示された未来。それに沿っていかなければ、そのさらに先の未来は不確実になってしまうものだったんだ。
どうしよう。
私は頭を抱えてその場にうずくまった。
もうだめだ。私は女優になんかなれない。また何者でもないフリーターに戻るしかないんだ。
自業自得。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
そうだよね、彼の事も芝居のこともほったらかして女優気取り。そんな女、彼にも未来にも愛想をつかされて当然だ。
涙も出なかった。
稽古に励む同期たちを横目にふらふらと遊び歩いていた自分を思い返すと、そんな自分を憐れむ気も起きなかった。
でも…… と思った。
彼が好きだと言ってくれた、あの必死に頑張っていた私は?
私の意識は、唐突に私から突き離された。
さっきまで私がいたはずの場所に、もう一人の私が現われた。あの頃の私だ。彼女はむちゃくちゃ腹筋をしている。ただただ一心に、むちゃくちゃに腹筋をしている。
あぁダメだ。私は思った。こんなにむちゃくちゃに腹筋ばっかりしてる女、彼女は、彼女は、救われなきゃならない。
涙が流れた。
私は、彼女に為に、彼女の夢を叶えなきゃ。
私はその場にしゃがみこむと、彼女がしていたように、むちゃくちゃに腹筋を始めた。たるんだお腹はすぐに悲鳴を上げた。
自分勝手なのはわかってる、今さらなんだと思うだろう。でも私じゃない、私は彼女のことを裏切れない。
*
それからの私は、裏方として黙々と体を動かしながら、同期たちの芝居を見つめ、そしてただ日々の稽古に没頭した。
稽古中に、心が動くとはこういう事かと、自身の中心が打ち震えるような経験をする。
少しずつ、何か手がかりのようなものが掴めてきたような気がした。
数か月後の研修生公演オーディションでは役を貰うことが出来た。
*
「途萌香さん」
数日後、稽古場でふんふんと腹筋をしていると声をかけられた。彼だった。
「僕は君のこと、見誤っていたのかもしれない。なんて言ったら良いか分からないけど…… その、応援してるから」
それだけ言うと、彼は踵を返して足早に稽古場を出て行った。
今ならわかる。
なぜ彼があの時、私の告白を受け入れてくれたのか。
あんなに恵まれた姿かたちの彼だって、不安だったんだ。
だからあの頃の、何も疑わず、迷う事も無く、まっすぐ前だけを見ていた私に魅かれたんだ。
少し前に、彼が彼の同期の子と付き合い始めたという噂を耳にしていた。
彼にお似合いのスラリとしたきれいな女の子だ。卒業公演では主役を演じるという彼女の芝居は私も大好き。
彼は彼で重要な役を任されたと言うから、稽古に熱が入る頃だろう。
「さて」
あれから未来フォルダの彼の顔は完全に消えて、その男性は誰だか分からなくなってしまった。でもたぶん、彼ほどのイケメンではない。
ほんのりと「逃がした魚は大きい」ということわざがよぎったが、慌てて頭をぶんぶんと左右に振って物理的に振り払った。
私はなんだか必要以上に割れてゴツくなり、主に精神面を支えてくれるようになった腹にふんっと力を入れ直すと、腹筋運動を再開する。
「もうっ、オーラがっ、ねっ、オーラがちがうのよおっ」
思ったことが口から出てしまう癖は抜けない。遺伝だからな。ぐいぐいとおなかに負荷をかけ続ける。
そう、私は私で頑張らなきゃならない。
未来フォルダのなかの彼は消えてしまったが、一緒に消えてしまうと思われた私の姿は舞台上から消える事は無かった。
むしろ最近は以前よりも写真全体がクッキリしてきて、なんと言ったらいいか、ところどころ細かいところまでが鮮明になってきたような気がする。
理由はよく分からないけど。まぁそういう事なんだろう。
私は腹筋を終えると、今度は腹ばいになって、背筋のトレーニングに移った。
「わたしも浴びるぞ、スポットライトぉー!」
ぐいと、上半身を天に向けて反る。
その拍子に、稽古場の窓から射した陽のひかりが眼を眩ませて、私は思わず目を細めた。
****
「あなたのサポートをするように言われてきたんですが…」
声をかけられた神経質そうな女の顔は、僅かにそちらを向いたように見えた。
だがその視線はモニターに張り付けられたままで、両手の指はキーボードの上で激しく踊り続けている。
薄暗く広いオフィスに女以外の姿は見えない。
男が仕方なくその場に立ちすくんでいると、30秒ほどしてタイプ音が止んだ。女のメガネが若い男の姿を映す。
「ごめんなさい、ちょっと手が離せないタイミングだったから。よろしくね、事情は聞いてる?」
男は「収集したデータの解析だと伺ってます」とだけ答えると、緊張しているのか少しだけ視線を逸らした。
天井が高く開放感のあるオフィスは、照明が最低限に落とされていて、ちょっとしたバーのような雰囲気を醸している。
「そう。上から情報を共有して構わないと言われてるから、かいつまんで説明するね」
軽くキーボードを叩く。
呼び出した情報と男が首から下げたIDとを見比べながら、女は改めて男の顔に視線を戻して言った。
「うちのチームが開発中のアプリケーションがあるんだけど」
言いながら、隣のスペースから引き出した椅子を男の方へ押しやる。
男はその背もたれを両手で掴んで、しかし立ったまま先を促すように女を見た。女は話を続ける。
「レコメンド機能の進化版みたいなものをイメージしてもらえば分かりやすいかな」
レコメンド機能はウェブの閲覧や検索履歴などからユーザーの好みを割り出して商品などをオススメする機能だが、チームが開発していたのはより高度なものだった。
スマートフォンのカメラやマイクから常時情報を収集してAIに学習させ、より正確にユーザーの望んでいるものを導き出すと言う。
「そして言動を分析してAIが導き出すのは、ユーザー自身が認識している欲求に留まらない。いま開発してるのは、ユーザーが《《無意識下》》で望んでいるものまでも解析して、画像として生成する機能なの」
女の言葉に男は大きく目を見開き、その意味を理解してから小さくうなずいた。
本人が自覚していない欲求まで読み取るとは驚きだ。
そして確かに実用化の段階に入れば、それを画像として提示することが求められるだろう。
男に背もたれを掴まれたままの椅子がギッと音を立てた。
「なるほど興味深いですね。どんな欲求も画像として生成可能なんですか?」
「残念だけど、現状ではまだまだ不安定と言わざるを得ないわね。まずユーザーの無意識下の欲求……。きれいな言い方をすれば自分でも気づいていない夢かな。そこから得られる情報はどうしても細かな点がリアリティに欠けるものにならざるを得なかった。
ただAIはそれを許容する傾向にあったから、元となる欲求によっては子どもの描く絵みたいになってしまう事もあったけど、それを一般的な画像生成技術でフォローすれば、欲求の原型を破壊せずに、実用可能レベルの画像を得ることが出来た」
女は続ける。
「じゃあ《《有》》意識下の欲求はと言うと、そこから得られるデータは、無意識下で得られるものよりも基本的に詳細で質が高いものだった。
だったら当然、生成される画像もより自然な物になると、そう想定できるわよね?」
突然の問いかけに男は慌ててうなずいたが。女のそれは、その否定を予感させるものだ。
「実際、モノに対する欲求であれば、ほぼ問題なく自然な画像が生成可能だった。現実に存在するものならね」
そこで女は一度言葉を区切った。左右の眉を僅かに寄せる。
「問題は、コトに対する欲求。例えばヨーロッパ旅行に行きたい、大金持ちになりたいといった欲求の場合ね。
こちらは何故か、自然な画像が生成される場合と、その反対に無意識下よりもかえって不完全な画像が生成される場合に分かれてしまったの。」
女は小さくため息をつく。
「チーム内で行われたテストでは、どうしてもその原因を突き止める事が出来なかった。それで私たちは対象を一般に拡大して、大規模なクローズドテストを実施したの。全世界で100台。無作為に選んだスマートフォンにこのアプリケーションを仕込んだ。プライバシー面の問題をクリアできなかったから、ユーザーからの許可を得ないままね」
男は口をひらいたが、女が遮るように「もちろん違法」と言うとそれを飲み込んで黙った。
「でもおかげでよりナチュラルなデータが得られたと思う。ただ最近、ちょっとした問題が見つかってね」
女は鼻をつまむようにしてメガネの下から指を差し入れると、目頭を揉みながら言う。あまり寝ていないのだろう。
「生成画像が格納されたmindフォルダのマスクが外れてしまう可能性が確認されたの。要はフォルダがユーザー側から視認できる状態になってしまうってことね。もっともかなり特殊な条件を満たさないと発現しない現象だから、その確率は無視できる程度のものだったけど。
でも念のため、先日のOSアップデートのタイミングでアプリはいったん削除した。今はもう100台のスマートフォンにその痕跡は一切残っていない。もちろん生成された画像も含めてね」
男は女の話を黙って聴いていたが、説明が一段落したことを確認して口を開いた。
「つまりそのテストで得たデータから、生成画像の質を安定させる方法を探ると、そういう事ですか」
女はうなづく。
「そ、有意識下で生成され、かつ安定を保ったままの画像を抜き出して、その生成過程から条件を定義できれば、それで上が欲しがってるモノは実現可能だと思う」
男は理解し、反射的に頭の中で作業手順を組み始めた。
しかし説明を終えたはずの女は、男から視線を外しモニターに目をやると、データファイルのアイコンをマウスポインタでくるくると撫でながら、つけ加えるように言った。
「ただ個人的にもう少し、このデータを深堀りしてみたいと思ってる。
有意識下に移行した欲求から画像がうまく生成できなくなる理由には、その欲求に対するユーザーの意識が関わってるんじゃないかって気がするの」
マウスを操る手を止めて、女は高い天井を見上げる。
「そこにはつまり、人が夢を現実と捉えてなお、希望を持ち続けるためのヒントみたいなものが、あるんじゃないかって思うわけ」
男は聞いて、口を《《ぽかん》》と開いた。
が、ややあってふっと息を吐くと、その表情を柔らかくする。
「なんです?
深層学習の権威らしからぬお言葉に聞こえましたが」
女は一瞬だけ視線を流し、しかしすぐに薄暗い天井に戻して言った。
「だからこそよ。私はヒトをより深く理解したいの。それに個人的な欲求を満たせないなら、こんなリスクの高い仕事、とっくに降りてる」
そう言い放って女は、そこで初めて表情らしきものを作って男に向きなおった。
「ま、そんなわけで解析よろしくね。
OSのアップデートに紛れて回収した未解析データ、たっぷり14か月分はあるから」
男はちいさく「聞いてないよ」とつぶやいたようだったが、それでも楽しそうに宝探しに取り掛かかった。
女は軽く伸びをすると、眼鏡を外してデスクの上に置き、立ち上がって窓に近づいた。
背後から聞こえてくるリズミカルなキータッチの音を聞きながら、女は遠くの空を見つめ、無意識に夜明けの萌芽を探す。
そしてどこか救いを求めるような声音で、ぽつりとつぶやいた。
「そんなユーザーがいたら、良いんだけどな」