36 舞い降りた戦女神
「風邪引いたかな……」
「お前、風邪引いてない日のほうが珍しいだろ?」
「厳しいね、ソード」
「阿呆。ドン引きするほど捻くれ者のお前にここまで優しいのは俺くらいだ。もっと感謝しろ。ほれ、腕下がってんぞ」
「おっ、鬼ぃ……!!」
庭を見下ろす硝子窓がカタカタと鳴る。
外の風が冷たすぎるかな、と察した鬼教官によって、ふたりは早々に屋内へと移動していた。
* * *
あと五日で年が明ける。
なんとはなしに館じゅうが気ぜわしく、朝からバタついている。
ユーハルトの幼馴染にして冬期休暇を先取りしたソードは、今朝もひょっこりコナー邸を訪れていた。基本的に筋力と体力不足のユーハルトを地道に鍛え上げるためだ。
――素人なんだから、素振りしろ、素振り。
その指導はシンプル極まりなく、体幹を整えて体を柔らかくするためのストレッチを数メニュー。さらに、寝ててもこなせるという浅い走り込み。(※そんなことはない、と、毎回心で叫んでいる)
そうして、稽古用に刃を潰した剣を振るう。
めちゃくちゃ強引ではあったが、木剣を使わせてくれたイゾルデはもっと優しかった……と、口走りそうになり、慌てて口をつぐむ。言われたとおりに最初の型を意識する。
えんえん、正眼上段の構えで丁寧に剣を振り上げて下ろす。姿勢と足運びにも注意する。記憶に残る、彼女の剣筋を思い出して辿る。
まるで、償いみたいに。
――――――――
やがて窓の外が賑やかになり、馬車の音や出迎える家人の声がうっすらと届いた。客人らしい。
さらに十数分後。今度はユーハルトの部屋のドアがノックされた。
「ユーハルト様、ソード様、申し訳ありません。ちょっとよろしいでしょうか」
「はぁ、はぁ……何?」
「じつは」
息を切らせて顔を赤くするユーハルトに負けず劣らず興奮した様子のメイドが語るには。
「え、僕も? どうして」
「旦那様からの、たっての要望でございます。ささ、ソード様も」
「なんで俺も」
「奥様が、そろそろお茶にしましょうと」
「うっ……わかった」
――なんでも何もない。伯爵家当主の父に仕事を手伝ってほしいと言われれば従うより他なく、訪問先の夫人から茶会に招かれれば応えるのが礼節というもの。
ソードは付け焼き刃の教え子兼幼馴染にタオルを放って寄越し、従者顔負けの面倒見の良さでチェストから着替えを取り出した。
「汗、ちゃんと拭いとけよ。そのままだと本当に風邪ひいちまう」
「そうだね、僕にしては珍しく『動ける』冬みたいだ」
「感謝しろ」
「…………うん」
若いメイドはとっくに退室している。
ぱりっとアイロンをかけたシャツに袖を通し、思い出すのはやっぱりイゾルデの顔ばかり。
――気持ちを自覚する前も。自覚したあとも。
ソードは本当に優しい。
砦演習から帰って尋問を受けてからというもの、一度も「イゾルデ」と口にしない。
さっきの「感謝」だってそう。晩秋からこっち、時間を見繕ってはコナー家に通い詰め、負担にならない程度に体を動かす機会を作ってくれた彼女のおかげなのに。
――……感謝に贖罪。しないわけがない。
欺瞞を盾に、自分から切り捨ててしまった。気持ちも未来も、何もかも。
「できたか。応接室だよな? 行くか」
「うん」
ひょっとしたら、父の仕事に関する客人と相席も考えられる。
人見知りとまではいかずとも、もともと無理の利く体ではないため、いままで伯爵家の仕事を割り振られることはなかった。
それがなぜ……?
(領地経営と北都府儀典官。跡継ぎ云々ってわけじゃなく、純粋に人手が足りないのかも)
部屋に備えてあった水差しからコップに半分だけ注ぎ、噎せないように喉に流し込む。椅子に掛けておいた上着を着ながら、扉口で待つソードに駆け寄った。
ソードはげんなりと言い放つ。
「やべ。俺、めちゃくちゃ普段着だわ。いいよなぁユーハルトは。ちょっと着込めばやんごとない貴公子なんだから」
「……ふはっ!? やめてよ、おんなじ家格でしょう。ソード・ランドール伯爵子息殿」
小突き合い、笑いながら階段を降りた。
(? おっと)
一階に着いたとたんにぴりぴりと肌を刺す感覚。緊張感に無駄口をやめた。
おそらく、配置された使用人たちが醸すものだ。父の仕事相手は気難しい性質なのか。
が、内側に棲む“妖精”たちはにわかにキラキラと煌めきだした。
かれらは森羅万象における氷の眷族。
凛として張りつめたもの、そのものが大好物で慕わしい。また、それがうつくしいものであれば尚さら。
(まさか……?)
上がる心拍と下がる血の気に、我ながらどんな顔をしていたかわからない。けれど、ここまで来ては引くに引けず。
応接室前に控えていた執事によって恭しく通された。
室内には、予想に違わない相手がいた。
苦しくて苦しくて、何度都合の良い夢を見たかわからない少女だ。唯ひとりの……――
固まるユーハルトとソードに、官吏らしき男性を伴って訪れたイゾルデは、にこり、と笑った。
「ごきげんよう、ソード殿。お邪魔して申し訳ありませんわ。取り急ぎ、コナー卿とご子息殿に助けていただきたいことがあったのです」




