33 フィナーレへの序曲
ミズホが予約していた二階席に向かおうとしたところ、ロビーでのごたごたを聞きつけた支配人により、急遽最上級のボックス席へと案内された。
ほぼ三階半の高さに設置されたそれは、舞台の正面に位置しながら他の貴族席を左右に見下ろせる、いわばロイヤルボックスだ。退出したロドウェルの指示だったのかもしれない。
恐縮ですわ、と頬を紅潮させるミズホは年齢よりも少女っぽく、表面はどうあれ、それなりに緊張していたイゾルデの心をこっそりとほぐす。ふたり、他愛のない会話をするうちに幕が上がり、明るく照らされた舞台のセットが露わとなった。
背景画から察するに、どこぞのきらびやかな城のホールだろう。たちまち流れる弦楽の調べに、会場内の人びとは、ぴたりとお喋りをやめる。
舞台上で繰り広げられる華やかなパーティーや王子役による突然の婚約破棄宣言。
それらに強烈な既視感――仕方がない、先ほども目にしてしまった――を覚えつつ、曲のあいまに、ぽそりぽそりとミズホが身の上話をこぼす。
――――他のボックス席とは距離が離れている。その安心感や、イゾルデが思わず「婚約とは、難しいものなのですね」と漏らしたせいもあった。
ミズホの声はやさしく、柔らかくぎりぎりの声量で届く。
イゾルデはそれに耳を澄ませた。
「マルティン様はまだ十二歳。父のお眼鏡にかなったとはいえ、わたくしはもうすぐ二十歳。お嫌になるのも無理はありません」
少年の繊細な機微に気づけず、日々の厳しい鍛錬の気分転換になればと、深い考えもなく観劇に誘ってしまったことなど。
ほろ苦く微笑む乙女は、ロドウェルから聞いた「王城づとめの才媛」とは著しく乖離していた。
恋――なのかはわからないが、定められた婚約者を慮り、一途に悩む女性に見える。
座る姿も姿勢良く、おっとりと気品にあふれ、どことなくチャーミング。
客観的に「無理」な要素などどこにもない。むしろマルティンは、エヴァンス伯爵家の婿養子の座を狙うその他大勢から邪魔者扱いされていてもおかしくなかった。
なるほど、とイゾルデが頷く。
「失礼ですが、おふたりは婚約前からの知り合いで?」
「ええ。アルセー男爵は父の部下で、家族ぐるみの付き合いでした。わたくし、彼が生まれたときから知っていますのよ。昔はよく懐いてくれたのですけど」
「ああ……それは」
天を仰いだイゾルデは嘆息した。奇しくも舞台ではヒロインによる悲しみのアリアが流れている。
「マルティン殿は、貴女を嫌っていません」
「そうでしょうか」
「一目瞭然かと」
「では、なぜ婚約を解消したいなどと」
「それは」
わずかに眉を寄せるミズホに、イゾルデはどう語るべきかと口をひらき――――はっ、と目をみひらいた。
「? イゾルデ様?」
「あ、申し訳ありません。じつは、わたくしも最近……その……幼いときから気心の知れた相手から。いえ、親しいと勝手に勘違いしていただけかもしれませんが」
「まぁ。詳しくお話になって? 大丈夫。我が先祖がジェイド家より賜った家名にかけて他言はいたしません」
「ミズホ様……」
きり、と表情を改め、手すりから身を乗り出して隣のイゾルデを見つめる。
ミズホの家――エヴァンス家は、古くジェイド家が大公として北方を治めたころからの忠臣に、功をねぎらって名と爵位を与えたのが始まりという。
以来、公国が南方のゼローナ王国に併合されてからも、王家というよりはジェイド公爵家に忠節を誓ってくれている。
じっさい、エヴァンス伯といえばゼローナ中央と北部を繋ぐ唯一の峠を所領とする。人と物の流れからいち早く多様な情報を掴み、北公領に良かれと影日向に尽力する好人物……と、ハワードから聞いたことがある。
打ち明けるか、打ち明けまいか。
逡巡は一瞬だけ。
イゾルデは、ユーハルトの名や具体的な家名は出さず、ほかは洗いざらい告げてしまった。
おそらく、エヴァンス家の末裔である彼女にはすべて筒抜けだろうが。
* * *
「まぁぁ…………!!」
話し終えてしばらく。
ミズホは沈黙で長い間を溜め、わなわなと肩を震わせた。静かに怒っているのか、あるいは感極まっているのか判別しづらい状況だ。
「ええと、ミズホ様?」
「なんてこと。イゾルデ様、わたくし、わかってしまいました。ユー……そのかた、嘘をついています」
「嘘?」
貴女、いま『ユーハルト』と言おうとしましたね? と思いつつイゾルデが問う。
ミズホは深呼吸してから「私見ではございますが」と、前置いた。
「お体が弱いこと。その一点で、そのかたは身を引くお覚悟なのです。貴女様にふさわしくないから」
「!? わたくしは気にしません…………と、失礼」
つい、声が大きくなってしまい、驚いて口を押さえる。
幸い歌曲は大きく奏でられており、目立ちはしなかった。
ミズホは微笑み、やんわりと首を横に振る。
「そう。わたくしも同じ。気にしませんでした」
「…………あっ」
かちり、と符号が合った。
先ほどロビーで繰り広げられた光景について。
――マルティン・アルセー少年は、家格も高く年長の婚約者ミズホ・エヴァンスに釣り合うべく努力している。
していたが、不安なのだ。
はたして、優秀で落ち着きある彼女の婚約者が半人前の自分で良いのだろうか、と。
でも、まさか?
「……」
「わたくし、勇気を出してみます。マルティン様にもっと寄り添えるよう、あらゆる手段を使ってみますわ。ちゃんと、未来の妻だと信じていただけるように」
「……ミズホ様」
「ですから、イゾルデ様ももう少しそのかたから『本当の言葉』を引き出してくださいませ。公爵閣下との約束の期限は来年のデビュタントなのでしょう?」
「え、ええ……そうです。そうでした」
イゾルデのなかで、諦めるしかないと切り捨て、凍らせた心が息を吹き返す。
目尻を拭いたイゾルデはミズホの手をとり、「ありがとう」と小さく伝えた。
ちょうど舞台はフィナーレへ。
シンバルが高らかに鳴り響き、歓喜を思わせる明るい曲調が奏でられ始める。
それは夢のようにうつくしいオペラの終幕を。ヒロインが勝ち取る、幸せの大団円を予感させた。




