32 婚約破棄? ―伯爵令嬢ミズホ・エヴァンスの場合―
すみません、劇中劇のようなものです(震え)
広いお心で居合わせた人たちの「は?」に同調していただければ……
「ミズホ・エヴァンス! きみとの婚約は解消だ! もう、これ以上耐えられない……!!」
ざわり。
由緒正しいスノウ座のロビーに突拍子もない叫び声が響き渡った。高級感あふれる燭台や花を飾った談話用のテーブル。赤絨毯が敷かれた落ち着いた空間に一種異様な沈黙が降りる。
(…………は??)
イゾルデも固まった。
もの慣れたロドウェルのエスコートで入口の階段を昇った。開演三十分前だった。
一階部分の一般席は平民。二階以上のボックス席が貴族という暗黙のルールのもと、軽い飲食や会話を嗜むことができる二階ロビーへと案内された。その瞬間の出来事だった。
それまで、やれ挨拶だの社交だのをせざるを得ないか――と、ある程度腹を括っていたイゾルデだが、おかげで誰もこちらを見ていない。奥まった位置で対峙する若い男女に釘付けになっている。
男女――片方はまだ少年と言っていい。十を少し過ぎたくらい。かたやフルネームで呼ばれてしまった女性は。
「……あちらの、栗色の髪の女性がエヴァンス卿のご息女ですね。貴女より三つ歳上の」
「ありがとうグランツ卿。思い出しました。では、あの少年は?」
身をかがめて耳打ちするロドウェルに、手にした扇を広げて若干の壁を作る。
馬車のなかとは打って変わって相変わらずの防御力を発揮するイゾルデに、ロドウェルはほろりと笑んだ。
「ええ。今年、かの伯爵家に婿入りが決まった男爵家のご子息です。名はマルティン・アルセー」
「なるほど」
頷き、しばらく様子見の構えをとる。というか、いろいろ付いていけない。
いっぽう、男女の修羅場や痴話喧嘩には耐性があるのか、ロドウェルはどこか楽しそうにふたりを憐れんでいる。
「いやあ他人事とはいえ気の毒ですね。こんな場で。そもそもミズホ殿といえば才媛で有名なかた。五年前のデビュタントの折は王城からお声がかかり、秘書官として出仕なされたと聞きます。
マルティン殿はまだ若いので人柄については知りませんでしたが…………おや、あんなに顔を赤くして。これはいけない、その辺の少年愛好家がもじもじしてしまう」
「卿、ちょっと黙ってくださる?」
「はい」
「結構」
くい、と、閉じた扇でロドウェルの顎を押しやり、イゾルデは再び向こうを注視した。
――――なんとなく、助けが必要であれば仲裁に入るか、ロドウェルを遣ろうと思っていた。
* * *
栗色の真っ直ぐな髪をハーフアップにして、瞳と同じ菫色のドレスを着ている。ミズホ・エヴァンスは「まあ」と呟き、困ったように片頬に手を当てた。
「マルティン様。聞き捨てなりませんわ。いかな貴方といえど、こんなところで。今日の演目、気に入りませんでした?」
「気に入る入らない以前の問題だろ! 僕には、もうきみがわからない!」
ざわざわと周囲がさざめく。
マルティン少年は、きっ、と眦を強めた。
「僕は来年から騎士見習いになる。きみの父上が出した条件だったし、僕の父も了承した。僕も吝かではなかった」
「マルティン様は幼い頃からハワード閣下に憧れていらっしゃいますものね」
「いっ、言うなよそういうこと! そういうところが……っ! それに何だよ! 当てつけか? 演目の『婚約破棄は私から』って。どうせ、オペラなんかちっともわからない子どもだよ! ミズホは嫌なんだろう!? こんなガキが相手じゃ!!」
「まあぁ……そんなつもりでお誘いしたわけではありませんわ。たまたまです。王都の流行りで」
「煩い、うるさーーい!!!」
「――失礼。煩いのはどちらかしら」
「なっ……!?!!?」
「! 貴女は」
ふたりは同時に声がした方に顔を向けた。
人垣がするすると割れる。最初に認められたのは、周囲の紳士がたより頭一つ抜きん出たオレンジ色の髪。
が、彼はあくまで付き添いで、その斜め前を歩く少女が声の主と知れた。
少女を見て、マルティンとミズホはそれぞれ最大限まで目をみひらいた。反応がより大きかったのは前者だった。すかさず片膝をつき、大声で挨拶を述べる。
「たっ!! 大変失礼いたしました!! まさか、このような場所に貴女が」
「居てはいけない?」
「いっ、いいえ!!」
口ごもる少年の後ろで栗色の髪の乙女が礼をとる。洗練されてとてもうつくしい所作だった。
イゾルデは、ふう、とため息をつく。ひらいた扇を口元に当て、ちらりと傍らのロドウェルを流し見た。
「ロドウェル殿」
「! は」
それまで余裕一色だった大人の表情が、驚きで素の顔になる。らしくなく、ぽかんと口を開けた副参謀殿に、イゾルデはにこりと微笑んだ。
「送ってくださってありがとう。このあとはミズホ嬢とご一緒するわ。どうも、マルティン殿は具合が優れぬご様子……お邸まで送って差し上げて欲しいのですが」
「は……」
とっさに返せず、ロドウェルが目を瞬く。
すると、自然と観客と化した周囲からのヒソヒソ声が聞こえた。
――――おい、あの令嬢もしや。
――――お付きのかた、グランツ子爵ではありませんこと?
――――仲がよろしいのね、ご婚約間近なのかしら!
――――え? お相手候補はまだ数名いらっしゃるだろ。
(……)
むう、と黙り込んだロドウェルだったが、イゾルデの真意は理解できた。
ようは、助け舟なのだ。たまたま行き合った彼らへの。
やられたな、とは正直な所感。「まさかこんな場面で名前呼びをなさるとは」と、こっそり憎まれ口を叩く。
イゾルデは、いかにも存ぜぬと淑やかに小首を傾げた。
「何のことでしょう」
「いえ……まあ、いいでしょう。さあどうぞ、マルティン殿。エヴァンス伯爵の北都邸でよろしいか?」
「は、はい」
マルティン少年は慌てて立ち上がり、複雑そうな顔で婚約者の女性を眺めたあと、律義にイゾルデに頭を下げた。
「……お騒がせして申し訳ありません」
「お大事にね」
「はい」
根は素直なのだろう。意外にきちんとしているな……と、評価を改めて取り残された女性に向き直る。
そこで開場のベルが鳴った。
夢から醒めたように、わらわらと人が動く。その波に抗い、悠然とオレンジ髪の青年は少年を連れて行った。
イゾルデは、扇をパチリと畳んでミズホに笑いかけた。
「ごめんなさい。余計なことをしたかしら」
「いいえ、そんな! 何とお礼を言っていいか」
では、と、ひらいた大扉とミズホを交互に見る。
「せっかくなので、本当にご一緒していただける? わたくし、観劇は初めてなの」
「まああ……、喜んで!」
初対面の伯爵令嬢と公爵令嬢は互いに吹き出してくすくすと笑い、ボックス席へと向かった。




