2 魔法騎士オーウェンとユーハルト(前)
「思い切ったねえ」
開口一番に呟いたユーハルトに、「そうでしょう?」と肩をすくめ、軽く受け流したイゾルデは、我ながら為政者の才があると自賛した。
が、感情の剥離が成功したのは一瞬だけ。
階段を駆け上がった魔法士団舎二階の講義室で、気づけば手を差し出していた。
「?」
不思議そうに首を傾げたユーハルトも素直に応じる。
イゾルデは笑顔で彼の右手を握り――やや本気の握力で締め上げた。にっこにこだ。
「ぃぃ痛ぁ! イゾルデ、なんで!??」
「さあ……? 私にも、何が何やら」
やさしい微笑でパッと離すと、涙目の少年がこちらを睨む。
「暴力反対!」
「それは失礼。でもね貴方、昨日は――」
「そこまで。ふたりとも」
「! オーウェン先生」
イゾルデは肩を跳ねさせ、壇上を見上げた。
幼なじみの口論をさらりと封じたのは大人の魔法士だ。
特徴的な銀の一房が額の生え際から垂れる、焦げ茶の長い髪。細長いフレームの眼鏡の奥には理知的な灰色の瞳が輝いている。一見優男だが、動作には一切のむだがない。現役の先輩騎士でもある。
その卓越した魔法の腕で、実践魔法学の教鞭すら執る魔法騎士――マジェス・オーウェンは、困ったように目尻を下げていた。
(しまった! ユーハルトが早めに来たのは、オーウェン先生と話があったから……? いけない。やってしまった)
慌てて居住まいを正したイゾルデはオーウェンに向き直り、騎士の礼をとった。
「申し訳ありません。大変な非礼を」
「いえいえ、わたしは構いませんが。せっかくの秀才くんのお出ましです。喧嘩などしては勿体ないでしょう。積もる話もあるのでは? 昨夜の貴女のデビュタントがどうなったか、とかね」
ぱち、と、片目を瞑るあたり手慣れている。
「えっ。まさかそれ、デビュタントで??」
とたんに視線を泳がせるユーハルトに、イゾルデは深く納得した。――そう。彼に、好んで醜聞めいた話を聞かせる輩はいない。観念して隣の席に手をかける。
「ここ、いい?」
「もちろんどうぞ」
黒い瞳を瞬かせるユーハルトは、ジェイド公爵家の遠縁にあたるコナー伯爵家の嫡男だ。本来なら昨晩の舞踏会に招かれて然るべきだし、年の頃も釣り合う。婚約者として白羽の矢が立ってもおかしくない身の上だった。もっと早い段階で。
(せめて彼が、正規の魔法士見習いなら)
ユーハルトは体が弱い。陽の光の下では長時間の活動ができないため、肌も白い。おっとりとした動作は体に負担をかけないためだし、黒髪はつややかで、前髪を長めにした短い襟足の髪型でも美少女に見える。
そうした外見もまた、大叔父のお眼鏡に叶わなかった一因なのだろう。
けれど、イゾルデは、ユーハルトが備える“本当の強さ”を知っていた。
――――――――
あの日、両親が帰らぬひととなってしばらく。
泣くこともできずにいたイゾルデは、急遽コナー伯爵家に預けられた。夫妻は人柄も良く、幼いイゾルデを温かく迎えてくれた。六歳の春から七歳の秋までをコナー家で過ごした。
当時、ハワードは多忙を極めていた。
従来の実務に加え、葬儀後もひっきりなしに訪れる弔問客をさばいていたのだ。甥夫婦の遺児と向かい合う時間ははっきり言ってとれなかったのだろう。騎士団長職、公爵位、将軍位の兼任は並大抵のことではない。
今となっては、それは熟知している。
けれど。
あのとき、あの日々がなければ、イゾルデは悲しみを癒すことができなかった。将来を見越してみずから騎士を目指すこともなかったろう。
すべては、寄り添ってくれたユーハルトのおかげだった。
* * *
『だぁれ? あなた』
『ぼく? ぼくはユーハルト。こっちじゃ“妖精の子”って呼ばれてる。あんまり父様たちと似てないし、丈夫じゃないからね』
『…………そうなの?』
『そうなの』
伯爵邸に来て三日目。
夫人が整えてくれた可愛らしい部屋にもだんだんと飽きて、邸のなかを好きに出歩いていた矢先のことだった。
けほ、けほと咳き込む声が聞こえて、少しだけひらいた扉の隙間を覗き込むと、寝台の上に黒髪の男の子がいた。苦しそうだったので断りなく入り、とっさに背をさすった。
男の子の物言いはあっけらかんとしており、不遇ではあっても捻くれていない。そのころから透明感のある、水際だった美しさだった。
夫妻には息子がいると知っていた。
彼が「そう」だと、初めて認識した。
それから、たびたび会いに行った。
彼の側は安らいだ。
彼だけがイゾルデを腫れ物のように扱わない。大人たちのように『可哀想に』と、涙ぐむこともない。
臥せりがちな己を認め、できることを探し、丹念に取り組む子どもだった。
その特性を知ったのは、さらに五日後。
体調がいいからと散策に誘ってくれた彼は、春の庭先で凍える光のダイヤモンド・ダストを披露してくれた。
当時、すでに北公領騎士団の魔法のわざを見慣れていたイゾルデは、かなり興奮した。
夜空に光の華を咲かせる魔法は見たことがあったが、ユーハルトのそれは違う。異次元級の上位魔法と感じた。かつ、その儚い美麗さを絶賛した。
目をきらきらとさせて言葉を尽くすイゾルデに、ユーハルトははにかみ、そぅっと囁いた。
『ぼくは魔法が得意だから。ぼくにできることで、きみを驚かせたかったんだ』
イゾルデは、きょとん、と首を傾げた。
『驚かせる? どうして』
『だってきみ、一度も笑ってないでしょう? 使用人たちが言ってた。とっても悲しいことがあったからだって』
『……』
『ぼくもね、悲しいときってあるよ。でもね、そんなときは……――信じてくれる? 本物の妖精が来て、さっきみたいなイタズラを見せてくれるんだ。ぼく、初めて見たときはものすごくびっくりして、涙が勝手に止まっ……………………え!? イ、イゾルデ?? ごめんねびっくりさせすぎた!??』
『ふえ、う、うえええぇっ…………!』
止まるどころか。
堰を切ったように流れる涙はとどまることを知らず、泣き続ける自分を、ユーハルトはおろおろと抱きしめながら頭を撫でてくれた。
同い年と聞いていた少年は、瞬く間にイゾルデの心の防波堤を無効化した。