1 将軍の姫と騎士ソード
世に大陸一と謳われる魔法大国ゼローナ。その北方、広大な領地を治める公爵家がある。名をジェイド家。イゾルデ・ジェイドは、そのれっきとした一人娘だ。
ただし両親はもういない。九年前、公爵家の馬車が事故に巻き込まれた。夫妻は愛娘を城に残したままの視察旅行の帰路で、長雨のあとだった。さらに悪いことに、そこは地崩れの危険ありと報告を受けた所轄領主が、調査に動く前の谷間の道だった。
――ないことではない。
そのため、爵位は暫定的に彼女の大叔父、ハワードが有している。
ハワードは総白髪の偉丈夫で、根っからの軍人だった。代々将軍位を兼ねるジェイド公爵家において婚姻をせず、武道を極め、やがて実力で騎士団長に就任。兄夫婦と甥夫婦を長らく助けてきた。貴族領民を問わず、北部全体で慕われる人格者と名高い。
* * *
「その、ハワード閣下をねぇ」
「何が言いたいの? ソード」
「いや別に」
くくっ、と頬を緩める騎士仲間の青年をひと睨みする。
イゾルデは癖で髪を後ろに払おうとして、清々しいほどの手応えのなさに(そう言えば切ったのだった)と、思い当たった。決まり悪げに右手を戻し、じっと手のひらを見る。
宴の翌日。
日課としてジェイド公爵領――北公領騎士団詰め所に来ている。
北公領法規で定められた貴族子息の見習い期間は三年間。本来なら、昨夜のデビュタントを契機にイゾルデも騎士になれるはずだった。
が、自分から「淑女として未熟である」と宣言した手前、慣例どおりの騎士叙任が許されるはずもない。今朝方すっかり髪を整えたイゾルデに、ハワードが下したのは一年間の見習い期間延長だった。
不承不承、他の幼い見習い少年たちに混ざって武具の手入れをする男装令嬢に、ソードはほんのりと苦笑いを向けた。
ソード自身も昨夜は現場に居合わせた。ランドール伯の次男として、すなわち彼女の見合い相手のひとりとして。
――と、同時に。
「閣下もなぁ……昔気質な方であらせられる。可愛い姪っ子には無条件で強い男を婿にとらせたいんだろ。ユーハルトは、その点で候補から弾かれたってわけだ」
「ふざけた話ね」
ふう、とため息をつくと、ぴかぴかに磨き上げたソードの胸当てが曇り、それも一瞬で消える。秋空も高く晴れ晴れと青いのに、その表情は冴えなかった。
「どうしたら、大叔父様は認めてくださるかしら」
「あいつとの結婚を?」
「そうよ」
「それは…………難しいだろうな。あいつは元々丈夫じゃないし、荒事も向かない。魔法は凄ぇけど」
「でしょう?」
ぱっ、と嬉しそうに顔を上げたイゾルデに、ソードは何とも言えない顔になる。
「あのさ、俺、いちおう姫の婿候補に指名されたんだけど」
「えぇっ! そうなの? いつから!?」
「今朝、閣下直筆で書状が届いたよ。親は小躍りしてた」
「……速い……速すぎるわ。しかもランドール伯ったら、ずいぶんと乗り気なのね? 相手はこんな跳ねっ返りなのに」
「うちだって貴族の端くれだし。候補者になれたってだけで、今後のジェイド公爵家との繋がりが期待できる。本命だろうとなかろうと、姫の見てくれが男だろうと、たいした問題じゃないんだろ」
「歯に衣着せぬ物言いね」
「どうも?」
「褒めてない。はい、どうぞ騎士どの」
「おっ、ありがと。綺麗になったなー」
「務めですから」
イゾルデは、つん、と視線を逸らし、汚れた研磨布を畳み始めた。そろそろ見習いとして次の活動に移る頃合いだ。たしか座学……。
すると、思い出したようにソードが魔法士団舎の方向を指差した。
「次、魔法学だろ。オーウェン先生が講義の準備してた。あと、さっき入口でコナー伯爵家の従僕見かけたぞ。急げば――」
「!!! 恩に着る!」
イゾルデは、今度こそ満面の笑みで立ち上がり、手早く道具を片付けた。同僚の見習いたちに声をかけ、ついでにソードの肩に手を置き、にっこりと労う。
身分からして、蝶よ花よと深窓に育ってもおかしくはなかった姫君は、ときどき、接する者すべてに理不尽な光輝を投げつける。
つまり鮮やかすぎる印象を残し、誰かれ構わず魅了するのが常だった。その少女が風のように、軽やかに魔法士団舎へと駆けて行く。
「っはー……。こういうときに速ぇのって、血筋かね。閣下をとやかく言えないだろ」
ぼやきを伴う苦笑の温度はあたたかい。
――……髪を切ろうと、共通の幼なじみにずっと惚れていようと。
ソード・ランドールにとってイゾルデが敬愛すべき未来の主であることは、昔も今も一生涯変わらない。
「がんばれよ」と、聞こえないだろう背中に向けて、心の底からのエールを送った。