15 公爵令嬢として ―訪問(2)―
「ユー、ハル……」
呼ぼうとした。名前が途中で止まった。
窓辺で。そのひとは真っ白なシーツと毛布を掛けられ、いくつものクッションを背に当てて体を起こしていた。
「やあ、イゾルデ。お見舞いありがとう。先生がたも、ようこそおいでくださいました」
控えめな鳥の囀りが庭から届く。
柔らかな声が、静けさに染みいるように心地よく響く。
光を後頭部から右頬に受け、こちらに顔を向けて淡く微笑む幼なじみの気配は、息が詰まるほど澄み透っていた。
体格はちゃんと年頃の少年から青年への過渡期。大丈夫、影はある。質感だって。なのに、なぜこんなに危うい――?
イゾルデは、わけもなく早まる鼓動に扇を閉じて胸下まで下ろし、ぎゅっと握りしめた。
きらり。
(?)
ほんの僅かな一瞬、彼の右肩のあたりで何かが燦めいた気がした。
それはどこか、昔見せてもらったダイヤモンドダストの輝きを彷彿とさせた。
* * *
「まあったく、大丈夫なのか? お前、土壇場ですっげえ魔法連発したって聞いたけど」
「すごい……か、どうかはわからないけど。頑張ったかなぁ」
「頑張っていましたよ、コナー君は。本当にありがとう。それに、正規の魔法士就任もおめでとう。これで、晴れて同僚ですね」
「せ、先生。頭を上げて」
賑やかに幼なじみを気遣うソードを皮切りに、場は途端にほぐれた。ふだんは講師として仰ぐオーウェンから深々と礼をされ、ユーハルトは困り顔で狼狽える。
イゾルデは寝台の枕元の椅子に腰掛け、両手を膝の上に揃えておとなしくそれらを聞いた。案内を終えたカルラはすでに退室している。
すると、ロドウェルが持参した包みを「ほら、イゾルデ嬢」と渡してきた。
包みは神殿で巫女によって織られ、神官長が祈りを込めた儀礼用の白い布で巻かれている。イゾルデは立ち上がり、若干の緊張とともにそれをひらいた。さらりと衣擦れの音がする。
「――では。ゼローナ王国北公将軍ハワード・ジェイドが名代、イゾルデ・ジェイドより。ユーハルト・コナーどの。此度はよくぞ機転を利かせて働いてくれました。これからもその力と知恵をもって、北の大地の安寧につとめてくださいますように。貴殿を我が騎士団の特別魔法士に任ずる」
「謹んで……、お受けします」
ユーハルトが恭しく手を伸ばす。
それは、オーウェンと揃いの魔法士衣だった。銀糸で縁取られた濃紺に北公領騎士団の紋章である剣と花の意匠が縫いとられている。いわゆる長衣だ。
なお、騎士でもあるオーウェンはそれを肩から羽織り、マントのように留め具で固定している。ソードやロドウェルが濃紺の膝下丈チュニックに白いハーフマント姿なのとは、そこが違った。
こわごわと受け取ったユーハルトは、頬を紅潮させて呟く。
「できるでしょうか、僕に」
「やってもらわなくちゃ困るのよ」
「イゾルデ」
「……」
言うなり、イゾルデは口を噤んだ。
―――……察しろ、とまで言わないが。
どうして、とか。
(いっそ、尋ねてくれれば答えられるのに)
拗ねたように視線を流すイゾルデに、ユーハルトは眉を下げた。それから軽く咳き込む。
すわ、長居し過ぎたかと焦る一行を部屋の主は引き止めた。
「ごめん。違うんだ。その……これは、病ではなくて。僕を正規の魔法士としてくれるのなら、ちゃんと話したい。聞いて……いただけますか?」
「もちろんよ」
張り詰めたもの言いに深刻さを感じ取ったイゾルデと騎士たちは、めいめいで首肯した。
誰もが茶化さず、真摯に耳を傾けている。
ユーハルトは、ふう、と息を吐いて背中をクッションに預けた。
「イゾルデには話したよね。僕は、物心ついたときから妖精と声を交わせる。見えたり見えなかったりだけど、かれらは、僕のそんなところが気に入ったらしい。ある日、特別な祝福をくれたんだ」
その頃。
階下では当主のマーフィと夫人のカルラが一枚の封書を間に挟んで思い悩んでいた。
卓上の紙には北公ハワードの印が捺されている。ましてや、これを持ってきたのはジェイド家唯一の直系の少女。偽物であるはずがない。
「どうしましょう。光栄なことですけど」
「そうなんだよ、カルラ」
「イゾルデ様の、将来の伴侶候補……! つまり、今日の随伴のかたたちと正式に肩を並べるだなんて。ユーハルトが!? あぁ、本来なら震え上がるほど名誉ですのに」
「しっ、カルラ。声を抑えて」
「ごめんなさい」
しゅん、と肩を落とす妻にマーフィもいっそう声を落とす。
「是も非もないが……確かにうちは、家格も親族としての近さも手頃だ。年頃も釣り合いが取れる。何より、イゾルデ様を昔お預かりした縁もある。ふたりの仲もいい」
「ですわよね」
問題は、と、声にするのを、コナー伯爵夫妻は揃って憚った。
――――――――
ユーハルトは語っていた。
妖精たちの属性は氷。タイフィーニアがオーカに現れたとき、なかなか力を発動できなかったのは、南の熱風を司る彼女の存在が障害になっていたからだと。
「でも。あなた、あのときは魔法を使っていたわ」
「そうだ。うちの騎士団でもあそこまで滑らかに氷魔法を扱えるものはいない。見事なものだった」
『虚弱な』と、面と向かって揶揄していたはずのロドウェルまでが加担する。
ユーハルトは瞳を伏せ、唇を噛んだ。
「あれは……すみません。正確には僕の魔法ではありません。妖精たちを無理に喚び出しました。その反動が、これで」
「待て、コナー君。では、やはり」
「ええ。オーウェン先生」
気色ばんだオーウェンに、ゆるりとユーハルトが面を上げた。
「神が与え給うた“力”とは違う。妖精たちは、空中のどこかに漂っているわけではありません。内側に棲んでいるんです。僕の命と魔力を糧に。“祝福”は、僕が生きている限り、かれらの力を好きに使っていいというものでした」