9 若夫人の豹変
ロドウェルがベロニカを受け止めると、魔法士たちは緊張の糸が切れたように床に座り込んだ。
「あの……?」
「すまないね。ええと」
「『キーエ』です。オーウェン様」
「――わかった。では、キーエ嬢。それにコナー君。きみたちには説明が必要そうだ。ロドウェル、ここは任せても?」
「ぐっ……努力する……」
「よし」
感情がごっそり抜け落ちた体の赤毛の騎士に、オーウェンは重々しく頷いた。それから疲労困憊の部下たちに目配せする。
「見張り二名を残して交代で休憩。私は隣にいる。異変があれば知らせよ」
「はっ」
若い魔法士たちは表情を改めて立ち上がった。
オーウェンは自身も疲労を逃がすように嘆息し、長い焦げ茶の髪をかきあげながら踵を返す。
すれ違いざま、指の隙間からさらりとこぼれる銀の一房が目を引いた。眼鏡の奥で、ちらりと灰色の視線を流される。
「ついて来てください。手短に済ませますね」
* * *
隣室は、ゲルン伯爵家の私的な談話室のようだった。
暖炉に火は入っておらず、窓辺には長椅子とスツール、細長いテーブル。手前には一人掛けのソファーがふたつ並んでいる。
オーウェンは長椅子に置かれた仮眠用らしき毛布をどかして、ふたりに着席を促した。
「どうぞ、キーエ嬢。……いえ、イゾルデ嬢?」
「はい」
イゾルデはしおらしく頷いた。
婚約者候補とされる男性たちからことごとく正体を看破されるのも複雑だが、そこは大叔父の人選が的確なのだと言い聞かせる。
皮肉にも変装によってごく普通の令嬢に見えるイゾルデに、オーウェンの頬は自然に緩んだ。
「正直、驚きましたが……コナー君を連れてきてもらえて助かりました。あまりの前例のなさに閣下も判断を下しかねて、我々も手をこまねいていたんです。ありがとうございます」
「そう言っていただけて良かった。非公式にユーハルトを連れ出した甲斐があります」
「……――かなり、有無を言わせずでしたけどね」
「おや」
オーウェンが興味深そうにユーハルトを眺めたところで、イゾルデは話題を進めることにした。
いかにもな非常事態である。へたに茶化されても敵わない。
「とっ、ところでオーウェン先生。あの女性、こちらに嫁がれたベロニカ様ですよね? 何があったんでしょう。慎ましやかなかたで、ご夫婦仲も良いと伺っていましたが」
「ひとが変わったように。そう見えますよね。やはり」
オーウェンは深々と吐息した。対面に腰掛けつつ、膝の上で両手を組む。
「……どこからお話したものか。当初、騎士団に届いたのは落雷の報せでした。雨も降っていないのに街中で稲妻が走り、庭を散策中だった夫人を直撃したというのです」
「えぇっ!? そんな!」
イゾルデも、ユーハルトも刮目した。オーウェンは淡々と事実を紡ぐ。
「そう。にわかには信じがたいですよね。ご覧のとおり外傷はありません。
――――が、騎士団への出動要請はそのあとでした。めざめた彼女の言動がおかしいと言うのです。夫であるオリバー殿を投げ飛ばしたと」
「は?」
「投げ飛ばしたと」
律儀に語尾を復唱し、オーウェンは頷いた。
オリバーはゲルン伯爵家の嫡男。
屈強とまではいかずとも、弟のロドウェルとよく似た面差しで性質は温厚篤実。近々、高齢に差しかかった伯爵から爵位を譲られる予定のはずだった。
ふと、イゾルデは質問した。「伯爵とオリバー様は?」
「おふたりとも神殿に運ばれました。夫人に投げられたとき、腰を痛めたそうで」
すると、ハッと目をみひらいたユーハルトが呟く。
「では、先生たちは、あの状態の夫人がうっかり街に降りたり、屋敷を破壊したりしないよう、厳重に防御魔法を展開しておられたのですね。まさか一晩中!?」
「流石コナー君。その通りです」
オーウェンは珍しくへらりと笑った。
――なるほど、いくら精鋭の魔法士隊といえど魔力は無尽蔵ではない。おまけに不寝の番となっては。
イゾルデは隣を窺う。
「ユーハルト、どう? 何かわかって?」
「うん、たぶん。確証はないけど」
「! 本当!?」
「うん。でも、本人に直接聞きたいことも……先生? 夫人と直接話してもいいでしょうか」
「む」
「お願いします。絶対、投げ飛ばされないようにしますから」
「う〜ん……わかった。くれぐれも頼むよ。打ちどころが悪いと命にかかわるからね」
「もちろんです」
「……」
ふたりのやり取りを前に、イゾルデは半眼となった。
察するに、北公領騎士団の騎士たちも何名か飛ばされたのだろう。これは、自分も注意せねばならない――
と、そのとき。
バタバタバタ……
慌ただしい足音が響き、突然扉がひらかれた。あからさまに顔色のおかしい、動転した若い魔法士だった。
「たっ……大変です! 副参謀が押されています!! 隊長、どうか今すぐお戻りを!!」