馳走犬
奈良時代の長屋王の邸宅で犬が飼われていたという事実からこの話を思いつきました。
古代の日本人は犬を食べていたそうです。
甑からは湯気と共にご飯の旨そうな匂いが立ち昇っていた。沢蟹の腹がぎゅっと鳴る。口からはよだれが垂れていた。
しかしこれは自分が食するものではない。どころか彼は白米など産まれてこの方口にしたことなど無かった。
奴である自分には一生そんな機会などないだろう。ならばなぜ炊いているのか。実はこれは邸で飼っている犬の餌なのである。と言っても愛玩用として犬を飼っているのではない。
これらの犬は食べられるために飼われているのだ。
この邸の主人に買われ、この仕事を命じられた。以来犬たちとともに味気ない暮らしを送ってきた。
その間何匹もの犬が屠られた。邸に貴人が訪れると馳走として犬の料理が出されるのだ。
朝料理人と共にに屈強な男たちが現われ、品定めをする。そして目星をつけると殺しにかかった。その際の一幕はちょっとした憐れみを誘うものだった。
捕らえられそうになった犬は運命を悟ったのか必死に吠え、抵抗する。近づく者には噛みつこうとする。
だが捕り手たちは慣れたもので、暴れる犬を縛り上げ、厨房へ運ぶ。犬は悲鳴のようなくぐもった声をあげ、処分されていった。
それを沢蟹は自分と同じだな、と思いながら無感動に見送った。今日も言われたことをやるだけだ。
そろそろ炊きあがったようだ。沢蟹は甑を抱えると器に飯を持った。すかさず犬たちが駆け寄ってくる。
自分に降りかかる運命も知らずにご飯をむさぼり食っている。と、沢蟹は甑に残った飯を取り出すと犬舎の隅の方へすたすたと歩いていった。
そこには一匹の子犬が「くうん」と哀れっぽい鳴き声をあげながらうずくまっていた。
「ちび、ほら」
沢蟹は掌を差し出しだた。そこには小石くらいの量のご飯が載せられていた。子犬は鼻を鳴らすとご飯にむしゃぶりついた。
瞬く間に食べ終わり、残った飯粒まで舐めとるとると子犬は小さく吠えた。
「よかったなちび」
沢蟹は子犬の頭を撫でた。自然と笑みがこぼれる。
この子犬は半端者だった。犬狩りの時、おまけでくっついてきたのだ。奴婢頭は病気持ちだからと捨て置いたのを沢蟹がひそかに匿っていたのだ。
この子犬を見ていると気持ちが和んでくる。不幸な身の上の沢蟹にとってこの子犬は唯一の心の拠り所だった。
そうこうするうち他の犬たちも食事を終えた。今日は来客の予定は無いので、犬を殺すこともない。
沢蟹は他の決められた仕事をこなしていった。
夜、疲れた体を横たえ、空きっ腹をこらえながら寝返りを打っていると、ふと人声が聞こえてきた。かなりの人数だ。その声は緊張感に満ち、ただならぬ気配が伝わってきた。
何事かと身を起こすと同時に奴婢小屋の戸が引きあけられた。
「起きろ!」
叩きつけるのような怒声。その威圧感に苦もなく従ってしまう。
「小屋を出ろ!」
命じられるまま外は思いの他明るかった。それはあちこちに灯る松明のせいだった。
掲げているのは武装した男たちだった。松明の光を冑が反射し、ちらちらときらめいている。
「お前ら奴婢だな」
言うなり声の主が近くにいた沢蟹の額を改める。そこには奴婢の印である焼き印が押されているのだ。
「よし」
声の主が叫ぶと沢蟹は手早く後ろ手に縛られた。それから他の奴婢たちも次々縛られていく。
そのとき、邸の母屋の方から悲鳴が聞こえてきた。男も女も入交じって幾人もである。
「歩け」
まわりを兵たちに囲まれ、沢蟹たちは邸の外に連れ出された。冷たい夜気が身にひしひしと迫ってくる。
状況が分からず不安げに視線をさ迷わせていると、不意に物の焦げる臭いがしてきた。
沢蟹は思わず振り向いた。すると赤い炎が夜空に登ろうとするかのように伸びあがった。あっと思う間も無く炎の舌は幾筋も上がり、邸の屋根は炎に包まれていった。
沢蟹はその様子を茫然と眺めていた。と不意に犬のことが思い出された。まだ犬は邸の中にいるはずだ。
そう思うと犬たちの悲鳴が聞こえてくるような気がした。もちろんその中にあのちびの姿もあった。
だが沢蟹にはどうすることも出来なかった。どうせ自分は奴なのだから。
翌朝、火は鎮火した。その頃になって色々な噂が沢蟹の身にも入ってきた。どうやら主人は何らかの政争に巻き込まれ、誅されたものらしい。
しかし彼には関係の無いことだ。またどこかに買われていくだけだ。ただ犬の世話だけは、もうしたくないと思った。