04.謎の紳士
連れて来られたのは、屋敷の裏庭だった。大きな池が佇んでいて緑が豊か。人の気配もなく心が鎮まる。
落葉樹の根元の芝生に腰を下ろす前に、彼はマノンのドレスが汚れないようにとハンカチを敷いてくれた。紳士な人だ。
「こんなところ……部外者が勝手に入っていいんでしょうか。不法侵入なんじゃ……」
「気にしなくていいよ。許可は取ってあるから」
「そ、それなら……」
……いいのだろうか。この人は、大公家と何か関係がある人なのだろうか。ドレスが汚れないようにとハンカチを敷いてくれたが、むしろ彼がきている服の方がマノンのものより遥かに高値に見える。貧乏伯爵令嬢のマノンのドレスは、母のおさがりを繕ったなんとも安上がりなドレスだから。
「えっと……あなたは?」
「俺は……」
彼はうーんと悩んでから、にこりと微笑んだ。
「セルジュ。ただのセルジュだよ。ちょっとした商家を営んでる」
その名前は、新大公の名前だ。ありふれている名前なので偶然の一致だろうが、びっくりしてしまった。
でもまさか、新大公が襲名披露の日にこんなところで泣いている女の子に構ったりしないだろう。
「ここは屋敷の者もあまり立ち入らないから、気を楽にして。俺もあんまり好きではないんだ。ああいう人が大勢いるところ」
「……そうなんですね」
広場にいたのは一瞬だったが、その一瞬で彼は女性たちの注目を集めていた。彼ほどの美丈夫だと、普通よりずっと気疲れしてしまうかもしれない。
「……私はただ、皆さんが羨ましかったんです」
「羨ましかった?」
「はい。仲が良さそうな恋人とか、ご夫婦を見るのが……ちょっと辛くて」
マノンの両親は仲が良く、夫婦は一緒に過ごすうちに自然に絆を深めていくものだろうと思っていたが、全くの見当違いだった。
辛い気持ちが込み上げて来て、収まりかけていた涙がぶわっと溢れる。
「うう……。ごめんなさ、私……」
「いいよ。思う存分泣いても。ここには誰も来ない。俺もあっち向いてよっか」
彼は反対方向を指差して言った。別に彼ひとりに見られるくらいは構わないと、首を横に振る。
「本当……最悪。なんでいつも他の令嬢ばっかり……っ。私、婚約者なのに……ひっく」
ぐすぐすと泣くマノン。今まで、ずっと抱えてきた辛さが溢れてきて、抑えられない。肩を震わせながら、ぽろぽろ涙を零した。セルジュが貸してくれたハンカチで、豪快に鼻をかむ。
「ひどいと思いませんか? 新大公閣下とご挨拶するような大事な園遊会をほったらかして、自分は女の子と遊んでいるんですよ……! こんなの、次期侯爵としてあまりに無責任じゃないですか」
「うん。そうだね、ひどい人だ」
「いつも私のやることなすこと全部否定して、気に食わないことがあるとすぐに暴言を吐くんです。ああもう……思い出したら泣けてきました……」
「……婚約を解消することはできないの?」
セルジュはうんうんと頷きながら、マノンの話を聞いてくれた。
「……別れられないんです。家に借金があるから。家督の存続のためには私が嫁ぐしかありません」
「…………」
ひとしきり泣いたあと、事情をなんとなく理解した彼が言う。
「君は羨ましいっていうけどさ。傍から見たら幸せそうに見えても、実際は案外色々問題があるものだよ。俺の祖父母なんて、世間ではおしどり夫婦って言われてたけど、痴情のもつれから決闘裁判に発展したくらいで」
「決闘裁判……」
決闘裁判とは、裁判において証拠が不十分なときに、当人同士が自分の潔白を賭けて決闘を行うというもの。これも代理人を立てることが認められていて、マノンは何度も請け負ったことがある。
「それで……お祖父様とお祖母様、どっちが勝ったんですか?」
恐る恐る尋ねる。年老いた夫婦が剣を交えるなんてかなり危ない。ひどい怪我をしていないかと心配する。
「祖母が勝ったよ。代理を立てたから、彼女は戦ってない」
「なら……良かったです」
「まあ、不倫してたのは祖母なんだけどね。しかも八人と」
「はち!?」
八人と不倫するなんて、相当アグレッシブな方なのだろうと目を見開く。
(不倫していた方を勝たせるなんて、その代理人も浮かばれないわね)
マノンは基本、依頼を引き受ける前にその依頼者が信用できる相手なのか見極めている。
「その代理人、名前はなんというんです?」
「ノア。『無敵のレディー』なんて異名がある代理人さ」
「!?!?」
(まさかの私でした〜〜〜〜!?)
マノンはぶっと吹き出して、げほげほと咳き込んだ。『リージェ神は正しき者を救う』という教えを信じてはいるが、たまに本当かどうか疑ってしまう。がーん、と天を仰いでいると、セルジュが笑った。
「でも俺は感謝してるよ。彼女のおかげで怪我人が出ずに済んだんだ。祖父は身体が弱くて心配だったんだけど。……誰も傷つけずに戦うのは、余程実力がないとできないことだ」
「そう言っていただけると救われた気持ちになります」
「あはは、なんで君が?」
「あっいや、きっとノアさんも、救われた気持ちになる、と思います……!」
ついノアとして返事をしてしまい、咄嗟に誤魔化す。するとセルジュは、こちらをじっと見つめてきた。何か変なところでもあるのかと額に汗を滲ませていると、彼はふふと柔らかく笑った。
「そんなに警戒しないで。取って食ったりしないから。ただ……ノアは君によく似ていると思って」
「そ、そうですかね!?」
「うん。身長とか結構華奢なとことか。あとは……そのサーモンピンクの髪。珍しい色だよね。リージェ神と同じだ」
ポリエラ伯爵家に生まれる女性たちは、リージェ神の加護を受けて同じ髪色なのだ。でも、代理人として働くときはいつもフードを被って髪を隠しているのに、どうして知っているのだろうか。
風に揺られるマノンの髪を見て、セルジュは目を細めた。
「綺麗な髪だ。絹みたいに」
マノンの髪を見ながら色っぽく囁いた彼に、なぜか胸の奥がざわめく。気まずくなって目を逸らしていたら、彼がマノンの手首の傷に気づいた。
「君、怪我してる」
「ああ、ちょっとした切り傷です。放っておけばそのうち治りますよ」
「そういう訳にはいかない。ちょっとしたっていうけど、結構深いよ? 傷口はちゃんと保護した方がいいから」
彼は水汲み場まで歩いて行ってハンカチを濡らして戻って来た。傷口の周りの血や汚れを丁寧に拭き取り、清めてくれる。
「――痛っ」
「ごめん。滲みたね」
それからスカーフを外して、マノンの手首に巻いた。綺麗に手当てされた手首をかざしながら、「ありがとうございます」とお礼を伝えた。彼は世話好きな人みたいだ。
すると、視線の先。池の中央に佇む背の高い木の枝に、白い女性ものの帽子が引っかかっているのが目に留まった。
「あんなところに帽子が……」
「どこ?」
「そこの木の枝です。ほら」
マノンが指を差すと、セルジュが指先を目で追って「ああ、あれか」と呟く。
「あの帽子は、大公妃が大事になさっていたものだ。生前最後の大公との旅行で買ってもらったのだと」
彼は、散歩中に風に飛ばされたんだろうかと付け加えた。それにしても、どうして彼は大公妃が大事にしている帽子のことについて知っているのだろうか。
あのまま放っておいたら、日焼けして色落ちしてしまうし、池にぽちゃんと落ちたら型崩れしたり縮んだりしてしまう。
(どうにかして取れないかしら。――そうだ)
ある考えが頭を巡り、さっと立ち上がるマノン。
「どうかした?」
「セルジュ様。無礼を承知で申し上げます。その腰に提げた剣を貸してはいただけませんか?」
剣は剣士の命みたいなものだ。そう軽々しく貸し借りしていいものではない。けれど彼は、嫌な顔をせずに「構わないよ」と剣を差し出してくれた。
「何をするつもり?」
マノンは枝に引っかかった帽子を見据えながら答えた。
「あの帽子を取るんですよ」
そう伝えると、彼は驚いたように目を瞬かせた。