20.なんでもお見通しの新しい婚約者
数日後、マノンはスフォリア大公家の屋敷を訪れていた。3ヶ月後に大公家に引っ越し、今からちょうど1年後に正式な婚姻となる。それまでは婚約期間が設けられている。
(相変わらず……大きな屋敷)
ついこの間、ひとりの招待客として園遊会に参加したときには、自分が大公妃になるなんて想像もしなかった。敷地に一歩足を踏み入れてから、マノンは荘厳さに圧倒されていた。
大勢の使用人に案内されて、応接間に向かう。その途中、広い回廊にフリージアが現れた。
「まぁまぁまぁ……! よく来てくださったわね……! マノンさん」
「フリージア様……!」
フリージアが直々に出迎えてくれるとは思っておらず、恐縮するマノン。スカートを摘んで片足を引き、最敬礼のカーテシーを見せる。彼女はふふと口元に手を添えて可憐に微笑む。
「ご無沙汰しております。マノン・ポリエラです。こうしてまたお会いできて光栄です」
「あらぁ。ご丁寧にどうも。でも堅苦しいのはなしにしましょう? これからは家族になるんですもの!」
「家族……」
「そうよ。こーんなに可愛らしい人がセルジュの奥さんになるなんて私、とても嬉しくて仕方がないの。ぜひお義母様と呼んでくれないかしら。昔から娘がほしくってねぇ」
子どものようにはしゃぐお茶目なフリージア。あまりの歓迎ぶりに困惑する。嫌がられるよりはずっと嬉しいけれど。
「これからよろしくお願いします。……お義母様」
「ええ、こちらこそ」
フリージアがきゃっきゃとはしゃいでいると、廊下の奥からセルジュがやって来た。
「母上。あまり彼女を困らせないでください」
セルジュに苦言を呈されたフリージアは、しゅんと肩を落として謝罪を口にした。
「ごめんなさいね。私、つい舞い上がってしまったの」
「……いえ、お気になさらず」
マノンの母は子どものころに他界してしまったので、また母と呼ぶ存在ができるのは変な感じだ。でも嬉しい。
それからマノンは、応接間で紅茶を飲みながら今後のことについて二人と話した。今は、大公家の女主人としての仕事はフリージアがこなしているが、ゆくゆくはマノンが引き継げるように勉強していかなければならない。フリージアが嫁いでくる前に学んでいたというマニュアルを渡されたが、あまりの多さに驚いた。
マノンは脳筋なので、女主人としての仕事をこなせるようになるか不安だったが、フリージアは「ゆっくりでいいのよ」とおっとりと笑った。マイペースなところはセルジュとよく似ている。
応接間での話し合い兼挨拶が終わったあと、セルジュに誘われて屋敷を案内してもらった。使用人たちの居住スペースを含めると部屋数はゆうに100を超える。
マノンはその中でも音楽室に惹かれた。セルジュとフリージアは音楽を嗜むようで、大きなグランドピアノが2台置いてあり、壁の棚にはぎっしりと楽譜が収まっている。ガラス張りになった天井から光が降り注いでいる。
「セルジュ様、何か弾いてみてください」
「いいよ。好きな曲はある?」
「うーん、リスルとかブレームスが好きです」
「ロマン派だね」
セルジュは背の高い棚の前まで歩き、指先で冊子をひとつ引き出して、譜面台にそっと置いた。
彼が「ここに座って」と椅子の半分を開けてくれたので、ちょこんと座った。彼のしなやかな指で奏でられる音色は、繊細で美しかった。ひとつひとつの粒がそろっていて、緩急がある。
(セルジュ様は器用なのね。……それにとても努力家)
あまり稽古ができていないと言いながら、優れた剣の技術を持っていた彼。元々のセンスと、並々ならない努力があるからだろう。そつのない優しい演奏を聴きながら感心した。
(綺麗な手……)
鍵盤を弾く手の動きを目で追う。マノンよりずっと大きくて、白くてすべらかで、少しだけ節のある男の人の手。演奏が終わったあと、マノンは拍手を送った。
「すごい……。プロの演奏みたいで感動しました」
「はは、ありがとう。君も弾く?」
「私は全然弾けないのでいいです。今度教えていただけますか?」
「もちろん」
「セルジュ様は手が大きいから、離れた鍵盤も抑えやすそうでいいですね。私は手が小さいから、ピアノには向いていないかも」
マノンは両手の手のひらをかざして小さく笑う。するとセルジュは、「小さい手も小回りが利いて複雑な動きに向いているんだよ」と励ましながら、マノンと同じように手を広げて見せた。
「指長い……」
「比べてみる?」
「あっは、はい」
その提案にちょっとだけ恥ずかしく思いながら、大きな手に自分の手のひらをぴたっと重ね合わせた。――温かくて、胸の奥がどきどきする。
重ねてみるとその違いは顕著で、マノンの手よりもひと回りもふた周りも大きい。
「やっぱり大きいですね――っひゃあっ!?」
急にセルジュがマノンの手を包み込むように握ってきたので、マノンはびっくりして変な声を出してしまった。
「な、何するんですか……っ」
「いや、小さくて可愛いなと思って。あと照れてる顔も」
「!」
(照れてるの、バレてるし……)
くすくすと笑うセルジュ。マノンは顔から湯気を出しながら俯いた。恥ずかしがりつつも、マノンは自分から手を解こうとはしなかった。彼と手を繋いだまま言う。
「――セルジュ様」
「何?」
「セルジュ様が預かっていらっしゃる仮面のことですが……」
「……うん。答えは出た?」
「はい。あの仮面は――処分してください。私には必要のないものなので」
「そっか。分かったよ」
もうマノンは、決闘代理人を辞めた。
悪も正義もマノンが決められることではないのに、どちらか片方の味方をして戦うことにずっと迷いがあった。
目の前で亡くした母への負い目。抑えきれない自責の念を処理するために躍起になり、自分が傷つくのをいとわなかった。でもそれは間違っていた。
心の底では代理人の仕事に納得できていなかったのに、ずっと見ないふりをしてきたのだ。
最初から全部――セルジュには見抜かれていた。
「どうして……私に迷いがあることに気づいたんですか?」
「……君が泣いてたから。祖父母の決闘で君を初めて見たとき、仮面を外した君はひどく辛そうにしていた。だからこの仕事が本当はやりたくないことなんじゃないかってそのときから思っていた」
「…………」
マノンは決闘のあと、自分がやっていることは果たして正しいことなのだろうかと不安になり、泣くことがあった。
恥ずかしいところを見せてしまったが、見られた相手がセルジュで良かった。
手首に輝く母のバングルに視線を落とす。
スカートを握り締めて、恐る恐る言った。
「もうすぐ母の命日なんです。けど私……母のお墓に行ったことがなくて」
「一度も?」
「はい。……なんだか恐くて。でもこれからはちゃんと行きたいんです。ご迷惑でなければ……一緒に行ってくれませんか?」
「もちろん」
彼のことだから断りはしないと思っていたが、頼むのは勇気がいった。承諾してもらえてほっと安堵する。
これまでマノンが抱える葛藤や悩みを、誰かに打ち明けるようなことはしてこなかった。でもセルジュは、他人の心の機微に聡くて優しい人だ。マノンに寄り添い良い方向に進んで行けるように背中を押してくれる。
この人に会えて良かった。マノンはそう思いながら、セルジュの肩にちょこんと頭を寄せた。




