02.政略結婚の理由
自分の部屋に戻り、カーテンの隙間から外を覗き見る。デリウスが屋敷を出ていくのを確認して、カーテンをさっと締め直した。
(やっと帰ってくれた……。私のことが嫌いなはずなのに、どうして毎週会いに来るのかしら)
ようやく帰ってくれたとほっと安堵する。マノンとデリウスの仲は全然うまくいっていないのに、なぜか彼は毎週欠かさずポリエラ伯爵家に訪れる。マノンの顔を見たって面白くもないだろうに。
チェストの上に置かれたベルを鳴らし、侍女を呼び出す。
「お呼びでしょうか。お嬢様」
「動きやすい服を用意してちょうだい。お父様は出張からもうお帰りになってる?」
「かしこまりました。はい、旦那様ならつい先程お帰りになりましたよ」
「そう。なら稽古に付き合ってほしいと伝えてきて」
「承知いたしました」
恭しくお辞儀をして部屋を出て行く侍女。
マノンは用意してもらった軽装に着替えて、修練場に向かった。
◇◇◇
「お父様。私、デリウス様と別れたいです」
修練場。広い木造の建物の中で、マノンは父と模擬剣を交えていた。ギチ……ギチ、と金属が擦れ合う音が響く。剣身が重なり拮抗する状態で、マノンは父を見上げて懇願を口にする。
「それは無理なお願いだ。それとも借金に溺れて飢え死にしたいか?」
ばっさり斬り捨てられてしまった。
「む……分かってます。言ってみただけです」
むっと頬を膨らませる。腕に力を込めて、父の剣を薙ぎ払う。
マノンの生家、ポリエラ伯爵家は深刻な財政難に陥っている。数年前、天候の問題で領地の不作が続き、大きな飢饉が起きた。ただでさえ狭い領地の税収は大幅に減少。また、各地で農民たちの暴動が起きたために支出が増え、いつの間にかポリエラ伯爵家は借金まみれになっていた。
そこで、デリウスの実家イルゲーゼ侯爵家との結婚が重要なのだ。マノンが侯爵家に嫁ぐ代わりに、ポリエラ伯爵家に経済的な支援をしてもらうことになっているから。
家族を助けるためには、嫌でもデリウスと結婚しなければならない。
(野垂れ死にかデリウス様と夫婦になるか……。究極の二択ね)
ギン……ッ。マノンが振り上げた剣が父の剣を弾き、一際大きな音がした。父の腕が外に弾かれ一瞬の隙ができたのを見逃さず、上段にひと突き。彼の眉間に剣先を差し向ける。
「――お見事。降参だ」
父は両手を掲げ、「参った参った」とへらへら笑っている。父はいつも楽観的で呑気だ。多額の借金を抱えているのに、危機感はなくそのうちどうにかなるだろうと甘い考えでいる。借金が増えていくのは、お気楽でポンコツな父の財政が下手なせいでもある。しかし、頭は弱いものの剣の腕はピカイチだ。
「最近また強くなったんじゃないか?」
「そうでしょうか」
「数多の死闘を経験してきたように、剣筋が洗練されているな?」
「ご冗談を。私のは遊びみたいなものです」
剣を収めるマノンを見ながら、彼は心底残念そうに言った。
「……お前が男だったら良かったんだがなぁ」
ぽろっと零れた言葉に、顔をしかめるマノン。
父は王国の騎士団幹部を務めるほど優秀な剣士だ。――だが、マノンは彼を遥かに上回る天才だった。ポリエラ伯爵家の跡取りである兄も、マノンに対しては全く歯が立たない。なぜならポリエラ伯爵家は、女傑の家系だから。
ポリエラ伯爵家ははるか昔、ルジェス国の創始のときにリージェ神に仕える優秀な巫女を輩出していた。その名残でリージェ神の加護を受けた、知勇と身体能力が優れる女傑が生まれ、彼女たちは家を裏から支えてきた。
この国では、女性は爵位を継いだり、騎士や官僚になることはできない。しかし、ポリエラ伯爵家に女傑が生まれることを知った貴族たちが、優秀な子を産んでもらうためにポリエラ伯爵家の娘を嫁に欲するのだ。
女性が体を鍛えたり、剣を学ぶことは世間的に恥とされる。女性は淑やかさが大事で、家庭を守るものだという価値観が一般的だから。
だから、マノンがこうして剣を振るうことはデリウスには隠している。『やめろ』とひと言言われるオチが見えているから。
マノンはタオルで顔の汗を拭いながら言った。
「それは私が一番よく思ってますよ」
もし自分が女性ではなかったら、婚約者の顔色を窺ってご機嫌取りをしなくても済んだのに。
マノンは誰かに依存して生きる人生に懲り懲りしていた。
◇◇◇
剣の稽古を終えて部屋に戻り、入浴を済ませる。ナイトドレスに着替えたあとで、侍女に指示する。
「今日は疲れたからもう寝るわ。あなたももう休みなさい」
「分かりました。おやすみなさい、お嬢様」
「――おやすみ」
侍女をさりげなく部屋から追い出して、内鍵をかける。ベッドの上掛けの中にクッションを入れて膨らみを作り、あたかもマノンが眠っているかのようにカモフラージュした。
「よし。こんなもんか」
ワイシャツにズボン。外着に着替えて鏡台の前に座る。鏡には、母譲りの長いサーモンピンクの髪が伸びた顔が映っている。
髪を頭の後ろの高いところで束ね、皮の武具を身体に身につける。
それから、ブラウスの内側に隠した鍵を吊るした革紐を取り出して、引き出しをそっと引いた。引き出しの中には、仮面が収まっている。マノンは仮面で顔を隠した。両目がくり抜かれ口元が見えるようになっている。白が基調で、金色の模様が施されている。
(仕事に意識を切り替えなくちゃ。気を抜いたら――負けちゃうかもしれないもの)
マノンは椅子から立ち上がり、鏡台の横に立てかけておいた剣を手に取り、今朝方届いた――依頼の手紙を懐にしまう。
マノンはみんなに秘密である仕事をしている。それは――決闘代理人。
ルジェス王国では、『リージェ神は正しき者を救う』という信仰のもと、しばしば決闘が行われる。――己の名誉と正義を賭けて。しかし、危険が伴うために代理人を立てることが認められている。マノンは『ノア』という偽名を使ってそれを請け負う仕事を数年前から続けている。
もっとも、報酬は全て父に内緒で家の借金返済に当てている。父は経理を部下に押し付けているので、借金の残額に差が生じても気づかない。
ノアは百戦錬磨。一度も負けたことがない。だから世の中の人は、正体不明の彼女を『無敵のレディー』と呼んだ。
「――行ってきます。お母様」
マノンは、出窓に置いてある亡くなった母の形見のバングルを手首に通した。マノンはこのバングルを、いつも肌身離さず着けている。
そして窓を開けて、家の者に気づかれないように二階の窓から木へ飛び移る。応接間の窓の奥をちらりと見ると、父が部下と何やら楽しそうに会話していた。
(大丈夫。気づかれてない)
マノンは裏門を出て、屋敷を出発した。