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19.マノンを突き動かす自責の念

 

 マノンの嫁ぎ先が決まったその夜。マノンは居間のバルコニーでぼんやりと窓の外を眺めていた。

 子どものころからデリウスと結婚することが決まっていたので、別の相手の元に嫁ぐことに実感が湧かない。まして彼の家は絶大な勢力を誇るスフォリア大公家。こんなことになるなんて、何か不思議な夢を見ているようだ。


 まさか、自分が負けるとは思わなかった。口付けされたくらいで動揺し、隙を与えてしまうなんて。――いや違う。口付けされる隙を与えたのは、セルジュに対して攻撃を一瞬怯んだから。

 おもむろに自分の唇を撫でる。今も尚、セルジュの唇の温かさと感触が鮮明に残っていて……。


「わ、わああ、わあああ〜〜!」


 かっと熱くなる顔を覆い、手すりに突っ伏すマノン。


(やっぱりあれって……ファーストキスに入る……?)


 今更そんなどうでもいいことが頭に浮かび、悩んでしまう。マノンの初めてのキスは、ロマンもへったくれもない剣を交える闘技場だった。女心としては、もっと夢のあるシチュエーションがよかったのに……なんて思ったり。

 セルジュに強引にされたキスを思い出してはじたばたと悶えていると、後ろから声をかけられた。


「――マノン」


 振り返ると、そこに父の姿が。いつもは温厚でへらへらしている父が、いつになく怒った顔をしている。父の怒りの訳は自分でもよく分かっている。


「お父さ、」

「馬鹿者!」


 ――バシンッ。マノンが頬を叩かれた乾いた音が、居間に響き渡る。その様子を後ろから見ていた使用人たちが萎縮し、肩を竦めている。父に手を上げられたのは……これが初めてだ。こんな風に怒鳴られたのも。

 父は娘を叩いてしまった手を震わせながら、マノンの肩に手を置いた。


「どうして黙って決闘代理人なんてやっていたんだ……! あんな、あんな危険な仕事……っら、お前の母親、リーファの命を奪った仕事なんだぞ!?」


 父は鬼のような剣幕だったが、マノンを案じているからこそだと理解している。父は母が死んだあとげっそりと痩せ細り、急激に白髪が増えた。トラウマでしばらく剣を握れられなくほどに病んでしまった。


「答えてくれ。なぜあんな野蛮な仕事をしているんだ……!」

「それは、家の借金を返すために……」

「違う。お前の本心を聞かせてくれ」

「えっと、だから……それは……」


 父に迫られるが、口ごもってしまう。仮面を付けて正体を隠していたのは、何よりも父に知られて心配をかけたくなかったから。母が死に、唯一の肉親となった彼だけには。


 ふいに、頭の中に母を失った日の光景が思い浮かぶ。闘技場の柵の外で、何もできずに母を見殺しにしてしまった無念も。

 斬撃を受けて倒れ込み、赤い血を流す母を今でも夢に見る。


 何もできなかった。

 見殺しにした。

 自分がもっと強ければ、代わりに戦って守れたかもしれないのに。


 ……もっと、もっと強くならなくては。誰にも負けないくらいに強くなって、母を死なせた罪を償わなくては。


 マノンが犯罪者が請け負う差別階級の決闘代理人をしている本当の理由。――それは、母を目の前で死なせてしまった自責の念と罪悪感だった。マノンが母を助けられなかったのは、裁判という状況ゆえ仕方がなかった。けれど、幼い日のマノンは、『母が死んだのは自分のせい』だと自分を追い詰めた。


 心を病んで痩せてしまった父に対して、マノンは強さを追求して武芸に没頭してきた。


(本当は……分かってる。こんなことをしたってお母様が浮かばれる訳じゃないことくらい)


 母を目の前で惨殺されるというショックな経験をしたマノンは、傷ついた気持ちや怒りの行き場を探した。

 マノンは母に似た境遇の人たちを代理人として助けることで、無意識に自分の罪を償おうとしていた。


 ぎゅっと拳を握り、父の問いに答える。


「お母様があのような残酷な死に方をしたのを見て……同じような人を出さないように助けたいと、思ったから」

「殊勝な自己犠牲の精神のつもりか?」

「そういう訳じゃ……」

「お前自身はどうなるんだ? 誰かのために自分が傷つくのは構わないのか? お前が傷つくと悲しむ人間がいるのに」


 父はマノンの袖を捲り上げる。数年戦いの場に出ていたおかげで生傷が絶えなかったため、傷跡だらけになっている。普段は長袖で隠している醜い肌が露になる。そこに、父の目から零れた涙が落ちる。


「すまなかった。お前は強いから、母を亡くしても乗り越えられるのだとばかり……。お前が追い詰められていたことに何ひとつ気づいてやれなかった。お前に全部背負わせてしまって、後悔している……っ」


 ――全部背負わせた、とは家督の存続のためにイルゲーゼ侯爵家にマノンの気持ちを無視して嫁がせようとしたことも含んでいるのだろう。それだって、父が謝ることではないのに。政略結婚で娘が家のために結婚するのは、ごくありふれたことだから。


(お父様が泣くの……随分久しぶりに見た気がする)


 父は母が死んだころ、しょっちゅう涙を流していた。だからマノンは、父を悲しませないように父の前では絶対に泣かないようにしていた。

 父はマノンの腕をそっと撫でながら、「痛かったよなぁ」と悲しそうに呟いた。


「マノン。お前は自覚がないのかもしれないが……お前は母を失ったショックから行き場のない気持ちを処理するために、痛みに置き換えていたんじゃないか?」


 その言葉が胸の奥にぐっさり刺さり、マノンの瞳からぽろっと涙が落ちる。


「だって……私が……お母様を死なせた。私がもっと強ければ、死ななかったかもしれないのに……! 今の実力があればお母様は……」

「違うよ。それはマノンの思い込みだ。おまえは悪くないし誰も責めてない。リーファも。だからもう、自分の身を危険に晒そうとするのはよせ」

「…………っ」


 マノンはその場に崩れ落ちて、わっと泣いた。父が背中を優しく摩ってくれる。

 いつ死んでもいいと思っていた。怪我をすることも死ぬことも怖くない。時々母を失った決闘がフラッシュバックして、心が壊れそうになる。

 そんなときに、自分が決闘に出ることで少しだけ心が慰められるような気がしたのだ。そんなことをしたって、救われないことは分かりきっているのに。


「今でも思うよ。リーファのあのときの選択は間違っていたとね。こんなに可愛い娘がいるのに、友人の名誉のために命を無駄にしてしまうのは愚かだった」


 その友人も友人だった。幼い子どもがいる人に、命懸けの決闘の代理を引き受けさせるなんて。それでも父は、正義感が強くて優しい母だったからこそ、好きになったのだろう。


「決闘裁判なんて、馬鹿げている。――野蛮で、残酷で、非道。あれは善悪を決めるための制度ではない。マノンには、リーファのようになってほしくない。自分をもっと大事にしてくれ」

「お父、様……」


 父の愛情が伝わり、熱いものに変わっていく。ひとりで抱えてきた不安や痛みが、すっと癒えていく感じがした。

 マノンは立ち上がり、少し待ってくださいと言い残して一旦部屋に戻った。


 部屋の内鍵を閉めて、扉に背を預ける。マノンは両手で顔を覆い、肩を震わせながら泣いた。


(セルジュ様の言う通りだ。私……もうこの仕事、やりたくない。向いてないもの)


 どんなに強くたって、適性がなければ続けることはできない。マノンは合わない仕事を続けたせいで、心も身体もすり減らしていた。セルジュは全部分かった上で、マノンが自覚するようにしたのだった。ふぅと息を吐いて袖で乱雑に涙を拭う。

 ……ノアの仮面は今、セルジュが預かっている。だから、ノアの証である愛用の剣を手に居間に戻った。


 マノンはそれを父に差し出した。手が小刻みに震える。けれど強い覚悟を持って伝えた。


「――やめます。決闘代理人」

「え……」

「だってもう……お父様の泣き顔は見飽きてるから」


 泣いて赤く腫れた目を細め、微笑みかける。彼は微かに瞠目してからふっと笑い、「そうか」と剣を受け取った。


 ――こうして、マノンは最強の決闘代理人の役を降りたのだった。

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