16.別れてくれと迫られましても
「何度言えば分かりますの? デリウス様と別れてくださいまし」
ある日。マノンは街のカフェでルチミナと会っていた。
庶民的なカフェには不釣り合いな上等なドレスに宝飾品の数々を身につけた彼女は、周りから浮いている。
実は、ルチミナが倒れたと聞いてからの一週間。ルチミナ本人からひっきりなしに手紙が届いた。
『マノンさんにお会いしたい』
――という旨の。一度だけなら断れたかもしれないが、そう何度もしつこく送られては、相手が相手であるがために断れなかった。
「……私の一存ではなんとも」
「そこをなんとかしていただけないかしら。……このままでは馬鹿げた決闘でデリウス様が傷つくかもしれませんもの」
マノンが訴えたところでどうにもならない。そう伝えているのにルチミナは引き下がろうとしない。
彼女は額に布を巻いて保護しており、恐らくデリウスのせいで負った怪我はそれなのだと推測した。
(というか、かなり元気そう……?)
ルチミナはデリウスとひと悶着あって精神的に参ってしまい、伏せっていると聞いた。しかし目の前にいる彼女はぴんぴんしているように見える。彼女が病弱なのは有名な話だが、顔色もよく健康的に見える。
「あの……体調はよろしいのですか?」
「どうしてそのようなことを気になさるの?」
「公女様はお身体が弱いとお聞きしていたので。無理をなさっていないか心配で……」
「ああ、そんなの、演技に決まっているではありませんか」
「ええっ!?」
ぴしゃっと固まるマノン。社交界で病弱だと有名な彼女が演技だったと知り、衝撃が走る。ルチミナは儚げな表情で、ふふと微笑んだ。
「だって、か弱くて病弱な女の子の方が、魅力的だと思いませんこと?」
「え……」
「物語のお姫様を想像してみてくださいませ。彼女たちの多くは幸が薄そうで、守ってあげたくなる女の子ばかりでしょう? ……そしてその傍らには素敵な王子様が。わたくしはそうなりたいの」
彼女は頬に手を添え、おっとりとした様子でそう言ってのけた。実際にルチミナの世間的なイメージは彼女の狙い通りになっているからすごい。
「デリウス様はわたくしにとって理想的なお方です。利発で紳士的で、包容力があって、お顔立ちも素敵で……。でも時々、掴みどころがないミステリアスなところも」
「…………」
デリウスはマノンに対しては横柄で尊大な態度を取るが、外面はいい。長いものには巻かれるタイプなので、目上の相手には尚更。世渡り上手なのだ。だから女性たちにもよく好かれる。でも実際は内弁慶でモラハラ気質。マノンはよく知っている。
(デリウス様の表面的な姿しか見ていないからそう言えるんだわ)
しかしマノンは何も言わない。
「でも……デリウス様は婚約者の気を引くためにわたくしを利用していた」
「…………」
「こんな屈辱は初めてですわ。だからもう、決してわたくしから逃げられないようにしてあげるのです」
彼女は恍惚とした表情で、額の傷を撫でた。
「その額の傷も……わざとですか?」
「ふふ。ご明察。貴族令嬢の目に見える場所の傷は醜聞に繋がりますわ。両親がとても怒っていますの。……愛娘を傷物にした男には責任を取らせる――と。これでお分かりいただけたかしら。わたくしを本気にさせるとどうなるのか……」
意地悪に微笑む彼女を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(この人……怖い)
マノンはいくつもの修羅場をくぐってきているが、彼女は歴戦の勇士よりも恐ろしく見えた。掴みどころがなく、何を考えているのか分からない。デリウスが今後もルチミナと親しくしなければならない事情は、ルチミナの巧妙な演技に騙された両親や周囲の人たちによるものなのだろう。
ルチミナはマノンのことを品定めするように上から下までじっと観察してきた。
「デリウス様はこんな子のどこがいいのでしょうか。あちこちに擦り傷を作って薄汚れた服に乱れた髪のまま平気で外出できるような田舎芋娘の。空き地で追いかけっこでもしていらしたの?」
棘のある言葉が、ぐさぐさと突き刺さる。顔に傷ができているのも、服が汚れているのも髪が乱れているのも全て、ついさっきまで決闘代理をしていたせいだ。マノンはたらりと頬に汗を伝わせ苦笑いを浮かべつつ、咳払いした。
「と、とにかく。ここでデリウス様との婚約解消を決めることはできかねます。でもいずれ、私たちの婚約は白紙になりますから。そのあとは公女様とデリウス様次第かと」
「嘘ですわ」
テーブルの上に置かれたルチミナの拳が小刻みに震える。彼女はきつく目尻を釣り上げた。
「わたくしが調べさせたところ、デリウス様は大公との戦いで最強の代理人ノアを雇っているそうですわ。大公が敵う訳がありません」
「…………」
代理人を立てるかどうかは、当日まで秘密になっている。彼女の情報網は侮れないと思った。
ちなみにその代理人ノアとは、マノンのことだ。リージェ神の名にかけて、マノンは神聖な決闘で手を抜き、わざと負けるなんて真似はできない。
(それでも……セルジュ様は勝つとおっしゃった)
マノンは首を横に振った。
「――勝負の行方は誰にも分かりません」
「はっ、世迷言を」
決闘代理人として経歴を積み、その実戦経験の多さから実力差があるのは分かっている。それでもマノンは、セルジュが勝つことを信じている。
「やはりあなた、デリウス様を手放したくないのですわね。あのお方を愛しているから」
どうして、デリウスのことを愛せるだろうか。ルチミナのことを優先し続け、マノンにはひどい仕打ちばかりしてきた彼のことを。
「そんなに自信がないですか」
「え……?」
「デリウス様に愛される自信が。本当は気づいていたんでしょう? デリウス様に利用されていることに。病弱のフリをしても唯一手に入らなかったからあなたはやけになったのでは?」
「――っ!」
デリウスはマノンの気を引くためにルチミナを利用していた。騙されているのだとしたらルチミナが気の毒だと思っていたが、彼女はそもそもデリウスに婚約者がいるのを分かっていながら関係を受け入れたのだ。
そして、病弱のふりをして周りを翻弄してきた。デリウスもルチミナも、やっていることは変わらない。
「本当の自分を隠し、嘘をついて同情で心を繋ぎ止めてもいつか綻びが生まれます。このようなやり方をしている限り、あなたが誰かに愛されることはありません」
マノンが澄んだ瞳できっぱりと告げると、ルチミナは顔を赤くして歯ぎしりした。そして、コップの水をマノンにぶっかけた。
「生意気な……っ!」
ぽたぽたと水が髪から滴る。マノンは袖で雑に顔を拭い、涼やかに微笑んだ。
「汗をかいていたので、おかげですっきりしました。ありがとうございます」