15.浮気の言い訳
セルジュと教会に行った日の夜。彼に家まで送ってもらい自室でのんびりと剣を磨いてメンテナンスしていたら――。
廊下をばたばたと走る音が聞こえてきたかと思えば、ノックもなしに扉が開け放たれる。
「わっ……!」
驚いた拍子に剣が滑り落ち、がしゃんと床に転がる。入室した侍女に危ないでしょうと咎めようとするが、その隙も与えてくれずに彼女は口を開けた。
「大変です、お嬢様……! イルゲーゼ侯爵令息が……!」
「デリウス様がどうかしたの?」
先日のデートで怒った彼が殴り込みにでも来たのだろうか。しかし、比類ないほど動揺した様子の侍女を見て、もっと他に異常事態が起きているかもしれないと予想する。
切羽詰まった彼女が、途切れ途切れに事情を話してくれる。
「公女様に怪我を負わせた……!?」
「はっはい。公爵邸に勤める知り合いから、噂程度に聞いたのですが、公爵夫妻はかなりご立腹の様子だったのに、なんのお咎めもなしだそうで……」
「逆に怪しいわね。公爵夫妻はルチミナ様を溺愛しておられるから、易々とお許しにはならないはず。裏で何か取引があったとか……」
というか、デートをしたのはつい数日前のことなのに、結局ルチミナの元に性懲りもなく通っていたのか。マノンに気があるなどと言っていたのに、彼の本当の心がどこにあるのかもはや分からない。彼はとことん移り気で浮ついた人なのだろう。
それにしても、心配なのはルチミナだ。怪我が大したものではなければいいのだけれど。今ごろ焦っているデリウスの顔が目に浮かぶ。
するとそのとき。
――バシンッ。
またしてもノックなしに扉が開け放たれる。伯爵家の使用人たちはどこまで教育がなっていないのかと眉間を指で押さえるマノン。しかしそこに立っていたのは、デリウスだった。
いくら婚約者であっても、女性の部屋に許可なく入るなんて礼儀がない。
「……聞いたか?」
息を切らし、焦った様子の彼。
「公女様に怪我を追わせたという話ならすでに」
「ああ……」
デリウスはかなり落胆したように額を押さえる。
「違うんだ、マノン。決してこれは浮気じゃない。誤解で……!」
「――誰? 私の許可なくこの人を部屋に通したのは」
デリウスを無視して、侍女たちをぎろりと睨みつけると、彼女たちは萎縮した。侍女のひとりが言う。
「お、お止めしたのですが、イルゲーゼ侯爵令息が聞く耳を持たず……」
マノンは今、薄いナイトドレス一枚。ブランケットを被って露出した肌を隠す。
デリウスは自分より家格が上の子息だ。それに、名目上は婚約者。だから、彼を常に立てて多少の無礼には目を瞑るしかない。
マノンはすっと立ち上がり、しおらしげに目を伏せた。
「公女様の元にお通いになったこと、責めるつもりはございません。私にはデリウス様の行動を制限できるような権利はないようですから」
今までだって、彼に言われるがままで反論すれば咎められた。デリウスが浮気していようとしていなかろうと、彼への失望は最初から変わらない。
「違う。ルチミナ様には別れを言いに行っただけで……」
マノンは鋭い眼差しを彼に向けた。
「――甘い香水の匂いがします。デリウス様は香水は苦手のはず。今日もお会いしに行ったのでしょう? 怪我を負わせたのによく公爵夫妻は面会を許可してくださいましたね」
「それは……っ違う。こっちにも話せないが事情があって……」
デリウスはぎゅっと拳を握り、下唇を噛んだ。何度も何かを言いかけるが、言葉に詰まってしまう。
彼がこんなに動揺している姿を見るのは初めてかもしれない。
(そんな傷ついた顔、しないでよ……)
まるでこちらが悪いことをしたような気分にさせられる。本当に何か事情があるのかもしれないが、言い訳を聞く気にもならない。勝手に夜に押しかけてきて、自分の都合を押しかけてくるような人の言い訳なんて。
(デリウス様の気持ちなんて知りたくない……。もう彼に心を掻き乱されるのは嫌)
マノンが沈黙していると、彼の方が沈黙を破る。
「ならひとつだけ、頼みを聞いてくれないか?」
「頼み……?」
「ああ。今回の件で両親に厳しく叱られて決闘の日まで自宅謹慎になった。罰を減らしてもらえるようになんとかお前から言ってくれないか?」
きっと彼の両親は、デリウスがマノンを差し置いて別の令嬢をひいきしていたことを知らなかったのだろう。
「ルチミナ様の精神状態が良くなくてな。……俺はこれから彼女の世話をしなければならない。謹慎になるとそれができなくなる」
甲斐甲斐しいことこの上ないと内心で思う。マノンに浮気ではないのだと言ってきたり、ルチミナに肩入れしていたり、彼は何を考えているのか分からない。なぜ他の令嬢の世話をさせるために力を貸さなければならないのかとはなはだ疑問に思う。
「事情をお前に話すことはできないが、俺はこれからもルチミナ様と親しくしなければならない。――だが、信じてくれ。彼女への下心はない」
精神的に参っているのは、ルチミナだけではなくデリウスも同じようだった。目の下にくっきりとくまができていて、明らかに疲弊している。でもマノンにはどうしてやることもできないし、彼を信じることもできない。
けれどマノンは、彼への不満を胸の奥にぐっと押し込んで、口先だけの返事を述べた。
「……公女様のお怪我が完治することを願っています。デリウス様もしっかりお休みになってください。ひどくお疲れの様子です」
「マノン……っ」
泣きそうな顔でマノンを抱き寄せたデリウス。ブランケットが床にはらりと落ち、柔肌に直接触れられる。
嫌悪感に鳥肌が立つ。
ああやっぱり、自分はこの人のことが苦手だ。マノンは改めて実感した。
そっと押し剥がそうとするが、彼は拒むようにマノンのことをきつく抱き締めた。
「俺にはマノンだけだ。これからは信用してもらえるように頑張るから……っ」
「…………」
弱っているからこそ、聞こえの良い言葉を並べてマノンに縋ってくるのだ。
(今のデリウス様は、本来の彼じゃない。余裕がないだけ。……心を揺らされちゃだめ)
マノンは彼を押し離し、愛想笑いを浮かべた。そのあと、侍女たちの方を振り返る。
「デリウス様がお帰りだそう。玄関までお送りして」
「か、かしこまりました。お嬢様」
侍女たちに命令して、半ば強引にデリウスを出て行かせる。
「マノン。土産をそこに置いておくから。お前が好きなものを買ってきた」
デリウスはテーブルに紙袋を置いた。後ろ髪を引かれるようにちらちらとこちらを振り返るデリウスにいたたまれなさを感じつつも、扉が閉められるのを見届ける。
ふと、テーブルに置いてある紙袋が目に留まる。その中には、マノンが好きなクグロフが入っていて。――今更遅い。もう二人の関係は修復できる段階にはない。それでもお人好しなマノンは、傷心しきった彼に同情してしまった。
(だめね。私……)
マノンは床に落ちたブランケットを拾い上げて肩に羽織り、ぎゅっと生地を握り締めた。
しばらくの逡巡の末、デリウスの両親に対してデリウスへの罰を減らすように頼む手紙をしたためるのだった。