14.ゆったりと馬車に揺られながら
セルジュの馬車に乗せてもらう。柔らかな座席に腰を下ろし、仮面を外した。瞳からぽろぽろと絶え間なく零れ続ける涙を、がしがしと袖で拭う。
「これを使ってくれ」
「……どうも」
貸してくれたハンカチで涙を拭く。思えば、彼にハンカチを貸してもらうのは二度目だ。セルジュはマノンが泣いているときにタイミングよく現れる。
セルジュはマノンの膝の上に置かれた仮面と、マノンの格好を見て言った。
「……仕事終わり?」
こくんと頷くと、彼は続けた。
「どこか行きたい場所は?」
「……人があんまりいない場所に」
「分かった」
セルジュが御者に指示を出すと、馬車が動き始めた。大公家の馬車は造りがいいらしくあまり揺れない。ふかふかのクッションが緩衝材になってくれるおかげで、馬車のわずかな揺れも不快ではない。
彼はマノンが泣いている理由を詮索しようとはせず、窓の外の景色を眺めていた。そっとしておこうという配慮だろう。だから、マノンの方から打ち明ける。
「私……今日の決闘裁判で、無実の人を有罪にしてしまったかもしれません。かも……というよりたぶん、そう」
「どうしてそう思う?」
「依頼人の態度が豹変しました」
被告ジルバーが懲役になったとき、親族や友人たちは嘆き悲しんでいた。彼は愛される人柄だったのだろう。
原告ランドルには付き添い人はおらず、裁判の結果に舞い上がり、あたかも自分が真の犯人かのようにほのめかしてきた。今でも思い出すだけで背筋が凍りそうになる。今回の案件の仔細を話すと、彼は真摯に聞いてくれた。
「なるほどね。それでマノンは泣いていたのか」
「……はい」
「真実は誰にも分からないよ。俺たちは神ではないんだから。マノンはなぜ、決闘裁判が行われるか知っているか?」
「それは……証拠が不十分な裁判を、リージェ神の判断で解決してもらうためです」
「ああ、そうだ。でも少し惜しい。今の回答では80点だ」
あと20点は何が足りないのだろうと、小首を傾げる。
「どちらが正しいかは重要じゃない。実際は、はっきりしない事件に決着をつけるをつけるために神という存在を利用しているだけだ。決闘裁判なんて、神の意志は関係ない。実力勝負の世界だ」
「……!」
リージェ神への絶対的な信頼が当たり前のこの国で、神を疑うような発言をするのはタブーだ。ここで彼は、神の御心に委ねる決闘をはっきり否定した。でもマノンも、『リージェ神は正しき者を救う』という教えに対しては懐疑的だ。
「だからマノンが勝たせた依頼者が、有罪無罪、どっちの場合だってあるのは当然だ。どっちが正しいかはマノンが図れるものではないし、分かった気でいる方が傲慢だと思う。君は自分の仕事を全うした。ただそれだけだよ」
厳しい言葉を言われて、しゅんと肩を落とす。
どちらが正しいか分からないなら、無実の人を救いたいという思いの行き場がなくなってしまう。決闘代理人でい続ける意義はどこにあるのだろう。
「マノンはどうして、決闘代理人に? 割り切れずにそうやって辛くなるなら、適性があるとは思えない。それに危険が伴う仕事だ。辞めた方が君のため――」
「この仕事を辞めるつもりはありません……! 代理人を務めることは、私の使命で、生きる意味なんです」
マノンは母の形見のバングルを上からぎゅっと握り締め、震える声で言った。
「私の母は――決闘裁判で死んだんです」
「…………!」
父は入婿だったので、マノンの母はリージェ神の加護を受けたポリエラ伯爵家の能力を引き継いでいた。マノンは身体能力に全振りしているが、彼女は、知勇に優れ身体能力にも優れていた。
マノンが生まれて数年後、母の親友が夫から暴力を受け、告訴した。そこから決闘裁判に発展し、母は父の反対を押し切って代理を務めたのだ。母も子どものころ父親から暴力を受けており、親友がされたことが許せなかったらしい。
しかし、母は男には太刀打ちできず。刺された場所が悪く、その場で出血多量で死んだ。結果、暴力を奮った夫は無実となり、母の親友は虚偽を訴えたとして故郷を追放された。
母が死ぬ瞬間を目の当たりにしたマノンは、全身の血が沸騰するように、強い念が膨れ上がった。母のような死人が出てしまわないように、自分は『人を殺さない』決闘代理人になると。
それから腕を磨き続け、決闘中にできるだけ相手を傷つけずに昏睡させられるほどの実力に到達したのだった。
「母はとても気の毒な人です。母が死んでいくとき、私は何もできなかった。それが今でも――悔しいから。私は戦い続けなくちゃいけないんです」
セルジュは黙って話しを聞いていた。マノンは両頬をぱしんと叩いて気合いを入れた。
「へこたれるのはもうおしまい!」
「マノン……」
すると、彼がこちらをそっと覗き込んで言った。
「なら、俺にも力にならせてくれないかな?」
「え?」
「依頼を受ける相手を俺が見極めるよ。それならマノンの精神的な負担も減るでしょ?」
「――つまり、マネジメント的な?」
「そうそう、そんな感じ」
今まで、自分の本当の正体を隠したまま代理人の仕事をしてきたから、誰かに相談したり協力してもらうことができなかった。仕事の管理は自分ひとりでこなしてきた。それを彼が手伝ってくれるというなら、彼の言う通りマノンの負担はぐっと減る。
「いいんですか? 大変なんじゃ……」
「そんなこと気にしなくていい。君の役に立てるのが嬉しいんだから」
「セルジュ様は……おかしな人です」
ほっと安心したのも束の間。彼がばっさりと告げる。
「でもマノンはやっぱり、この仕事には向いていないと思うよ。決闘代理人でいる限り、今回のように悪人を助けることもある。君は優しい人だから、その度に苦しむことになるんだよ」
マノンは、決闘代理人ノアは。百戦錬磨の『無敵のレディー』だ。けれど心が弱くて、何度も悩んだりする。
「それでも……私は……」
その後の言葉が見つからずに濁す。『辞めるつもりはない』という意志をはっきりと告げることはできなくて。
彼は困ったように眉尻を下げた。
◇◇◇
馬車に揺られること一時間。辿り着いたのは、都市の中心にある教会だった。そこの司教と面識があるらしく、セルジュが頼んで人払いをしてくれたおかげで礼拝堂は二人きり。
リージェ神の石像の前に座り、マノンは手を組んで祈りを捧げた。
(ジルバーさんとご家族に幸運が訪れますように)
祈りを終えて瞼を持ち上げる。そっと隣を振り向けば、セルジュがマノンよりも長いこと目を閉じて祈りを捧げていて。
(何を……お祈りしていらっしゃるのかしら)
長いまつ毛が陰を落とす怜悧な横顔をまじまじと観察していたら、まもなく彼が目を開けた。
「そんなに見られていたら、顔に穴が空いてしまうな」
くすりと笑う彼を見てなぜか胸の辺りがきゅっとなる。咄嗟に胸を押えるマノン。
「ご、ごめんなさい。失礼なことをしました」
「謝らなくていいよ。俺はずっとマノンのことを見ていたいって思うし」
「か、からかわないで」
「からかってなんてない。思ったことを口にしただけだ。マノンは可愛いよ」
彼はすぐに調子のいいことを言う。けれど本人には自覚がないらしい。完全に無自覚人たらしだ。マノンもそんな彼に徐々に絆されているから悔しい。
「ああそうだ。ひとつ実験をしてみない?」
「実験?」
「そう。心理学で、『人は7秒間見つめ合うと恋に落ちる』法則があるんだって」
そう言って顔を寄せてくる彼。美しいエメラルドの瞳が間近にあって、鼓動が激しく加速する。恥ずかしくなって目を逸らす。
「――目を逸らさないで。こっちを見て、マノン」
彼の言葉を拒むことができず、言われるがままに逸らした目を戻す。エメラルドの瞳が、さっきより熱を帯びている気がして、胸が苦しくなる。心臓が爆発しそうなほどどきどきしてしまい、今が何秒なのかも分からない。
(早く、7秒経って……っ)
顔を真っ赤にして、潤んだ瞳でセルジュを見つめる。すると彼が、7秒経過したタイミングで、ふっと色っぽく目を細め、意地悪に笑った。
「どう? 俺のこと、好きになった?」
「〜〜〜〜!?」
マノンは後ろに下がり、声にならない声を上げた。彼を見つめたときの胸のときめきが、脳の錯覚などではなく、恋心であることはいくら鈍いマノンでも自覚している。
「私には……婚約者がいます。他の男性を恋愛対象で見ることは……ありません」
「あははっ、そうきたか。うまく逃げたな?」
セルジュは楽しそうに笑った。彼はずいとこちらに寄り、マノンとリージェ神の姿を見比べた。
「マノンは綺麗な髪をしているね。あのリージェ神の石像みたいだ。さらさらしていて指通りが良さそう」
まっすぐ伸びた癖ひとつない神は、母譲りだ。園遊会で会ったときも、髪のことを褒めてくれたのを思い出す。マノンは小さな声でそっと言った。
「触って……みますか?」
マノンの予想外の提案に、セルジュはびっくりしたように目を見開いた。そしてすぐに首を横に振った。
「いいや。君に触れるのは、決闘で勝って君を手に入れたそのときにしよう」
セルジュは誠実な人だった。でも、彼に撫でられることを期待していたマノンはちょっとだけ落胆する。
セルジュといると安心するが、妙にこそばゆくて、ふわふわした心地になる。でもそれが嫌じゃない。
マノンはセルジュの袖をちょこんと摘んで、声を絞り出した。
「セルジュ様。……決闘に勝って、私のことをきっと手に入れてください」
決闘で代理人を立てることは、当日明かされるのがルールになっている。舞台に立ちセルジュと戦うのは、デリウスではなく最強の代理人――ノアだ。マノンはどんな戦いも手を抜いたりしない。それでも、セルジュが自分を負かしてくれることを願った。
◇◇◇
後日、マノンは持っている宝石や値打ちのあるものを質屋で売り払った。決闘代理人としての報酬と財産の多くを、ジルバーの家族の元に匿名で送った。こんなことで許されるとは思っていないけれど、こんなことしかマノンにはできなかった。
そして、マノンの心にはセルジュに言われた『向いていない』の言葉がずっと引っかかっていた。