10.好きなものを分かち合えること
セルジュが決闘裁判の話をし始めて、内心でひやひやするマノン。彼は紅茶をひと口優雅に飲んだあとに続ける。
「祖父も身体が丈夫じゃなかった。怪我でもしたらどうしようかと思いながら裁判の様子を見ていたら、仮面を着けた小柄な代理人が闘技場に現れて。あっという間に祖父の剣を場外に弾き飛ばして圧勝した」
彼の祖父に圧勝したのは、マノンである。
「その話と私に……なんの関係が?」
セルジュが何を言うつもりだろうと緊張していると、彼はそれを見て困ったように眉尻を下げた。
「すまない。盗み見るつもりはなかったんだけど……君が仮面を外して汗を拭っているところを……見てしまったんだ。君の正体は『無敵のレディー』と呼ばれる――最強の決闘代理人だ」
「…………っ」
他人に素顔を見られないように徹底していたつもりだったけれど、まさか彼に見られていたとは。スフォリア大公家の人たちが虚弱体質で短命の傾向があるというなら、セルジュが強い身体を持つマノンを望むのも理解できる。
「初めて見た日から、俺はマノンのことが好きになった。小さな身体で、他人の正義と名誉のために命を賭す君が。俺は身体が弱いから、心身ともに強い君に惹かれた」
決闘代理人は、本来奴隷と並ぶ差別階級だ。重罪人から選ばれる場合が多く、死と隣り合わせで、報酬の金額も割には合わない。自分から望んで代理人になる人はほとんどいない。
(そんな言い方、ずるい)
マノンは無意識に、手首に輝く母の形見のバングルを撫でた。母は決闘裁判の代理人をしてなんの罪もないのに死んだ。『リージェ神は正しき者を救う』。その教えを信じてはいるが、この決闘に限っては神の意思は関係なく――実力勝負の世界だと理解している。
「……はい。私が決闘代理人、ノアです」
「ごめん。決して口外はしないと誓う」
マノンは困ったような顔を浮かべた。
「ひと目惚れしたからって、決闘するのは馬鹿げてます」
「はは、そうかもね。でも俺も、君と同じ世界を体験してみたかったんだ」
「そんな理由で!?」
「昔から好奇心が旺盛でね」
ますますおかしな人だ。でも、体が弱いのに決闘を挑んで平気なのだろうか。
それにデリウスは怖気付いてノアに代理を依頼している。
「勝てる見込みはあるんですか? 決闘に負ければ、大きく名誉に傷が付きます。それにとても危険です」
「まぁ、やるだけのことはやるさ。少なくとも勝つつもりではいるよ」
彼はいつもおっとりしている。危機感を全く感じなくて、逆に余裕があるように見えてくる。マノンがどんなに脅かしたところで、彼はマイペースなのだろう。マノンは呆れたように息を吐いた。
「君のことを色々と調べさせてもらったよ。家の借金のことも、婚約者との関係のことも……。借金は代わりに全額返済するし、俺なら君に悲しい思いはさせない。誰よりも君を優先するし、大切にする」
大公家の経済力なら、マノンの家の借金を返済するのは容易いことだろう。
デリウスは友人のルチミナをひいきし、婚約者のマノンをないがしろにし続けた。マノンのやることなすこと全てにぐちぐち嫌味を言うし、すぐに機嫌を損ねて怒鳴る。セルジュならば、もっと違う関係が築けるだろうか。
「割と悪くない条件だと思うけど、どうかな? 君が嫌と言うなら引く」
決定権はマノンの意思に委ねてくれているセルジュ。更に彼は、こちらを見つめて優美に微笑んだ。
「それに俺は結構いい男だと思うんだけど。好みじゃない?」
「そういうのは自分で言うものではないかと」
「あはは、これは減点だったな」
彼が屈託なく笑う姿を見て、心臓がどきんと跳ねる。マノンは他人の容姿の美醜に頓着しない方だけれど、そんなマノンでさえもセルジュはいい男だと思う。
伸るか反るか。しばらくの逡巡のあとで言う。
「私……普通の女の子より力が強くて、大食いで、可愛げもなくて、剣傷だらけの肌です。こんな花嫁でも……ほしいですか」
セルジュはくすと笑う。彼はその場にひざまずき、洗練された所作でこちらに手を差し伸べる。優しくて甘い眼差しに射抜かれ、きゅんと胸が高鳴る。
「どんなマノンでも愛すよ。だから俺の花嫁になってほしい。ああそれと――もし結婚してくれたら君のためにパティシエを雇い、三食に豪華なティータイム付きを保証しよう」
「――乗った!!!」
目配せし、マノンにとって最高の提案を持ちかけてくる彼。マノンは彼の手を勢いよく取った。結局マノンも、父と同じようにセルジュの思うように言いくるめられてしまった。
「と、とにかく……。怪我にはお気をつけてください。健闘を祈ります」
「それじゃあ、俺の元に嫁いで来ることに抵抗はないってことでいい? 大変なこともあるかも」
大公妃になるのは大出世だが、その分大変なことも多いだろう。しかし、普段から死線をくぐっているマノンは、腹が据わっている。
「むしろ望むところです」
どこに嫁いだところで、女は政治的道具であり、男の所有物という扱いをされることが大半だ。でも、セルジュは何か違う気がする。マノンと向き合ってくれる気がするのだ。はっきりとそう告げると、セルジュは安堵したように「そっか」と答えた。
するとまもなく、応接間に侍女がやって来た。ティーワゴンの上に、ホールのキャロットケーキとティーセットが。
「わ……美味しそう」
キャロットケーキと言えば、ティータイムの定番だ。セルジュが気を利かせて買ってくれたらしい。
「これ、チョコレートが入ってる……!」
フォークで切ってひと口食べたマノンは、あまりの美味しさに目を丸くする。普通のキャロットケーキはチョコレートは入っていないし、カカオは滅多に手に入らない高級品だ。濃厚なしっとりした生地に、キャロットと胡桃、レーズンが入っており、ジンジャーとシナモンの風味がよいスパイスになっている。上のクリームチーズもさっぱりしていて生地によく合う。
「美味しい〜〜っ!」
「ふふ、分かるよ。びっくりするよね」
「あっ」
心の中の感動がつい外に漏れていたことに気づき、はっとする。
「キャロットケーキ専門店で、あちこちから注文が絶えないんだとか。生地にチョコレートを練り込んだのは、大公妃のための特別レシピなんだよ」
「大公妃様のための特別レシピ……。では、店頭では購入できない貴重な一品ですね。セルジュ様は甘いものがお好きですか?」
「割と好きかな。女の子は特に甘いものが好きだと聞いて注文したんだけど、正解だったかな?」
「大正解!」
フォークを握った手でぐっと親指を立てる。キャロットケーキを切り、どんどん口に運ぶ。セルジュが好きなだけどうぞと言うので、あっという間にホールケーキがマノンの胃袋に収まってしまう。
マノンは活動量が多いので、食欲も旺盛だ。いつも男性の二人前くらい食べる。デリウスの前だと、品がないと言われるのでほとんどご飯を食べることができないが、セルジュはその姿を「いい食べっぷりだ」と喜んで見ていた。
ふと、セルジュと視線がかち合う。
「美味しいね」
「!」
同じようキャロットケーキを食べながら、嬉しそうにはにかむ彼。それを見て目頭が熱くなった。
「ま、マノン!? どうして急に泣いたりして、」
「…………っ」
ずっと、叶わない夢だと思っていた。いつか夫婦になる人と、美味しいものを食べて美味しいねと笑い合うささやかな瞬間が。
デリウスの婚約者でいる間、決して叶うことはないと諦めかけていた夢を、この人は叶えてくれるかもしれない。その嬉しさと、過去の辛かった思いが色々と込み上げて来て、涙が出てしまった。
手の甲で涙を雑に拭い、キャロットケーキをもうひと口。今日食べた中で、一番甘くて美味しく感じた。
「美味しいですね、すごく……」
マノンはすぅと目を細めてそう返した。