湖畔の少女
目の前には、慎太郎が釣り上げたニジマスに似た魚の豪快な活け造り。
淡く桜色がかった白身が美しく並べられ、まるで今か今かと皆の口に入るのを待っているかの様だ。
その傍らには、たった一月口に出来なかっただけで、もう何年も会っていなかったかに思える、日本人の心の友、醤油。
鮮やかな緑色のワサビと並ぶだけで、一枚の絵画の様な芸術性さえ感じる。
そして…
「あぁ…白いごはん…」
遥は両手で茶碗を目の高さまで掲げ、うっとりしている。
長粒種の米を普通に炊くと、日本人には馴染みの無い嫌な匂いがしたりするが、美空が何か細工をしたようで、それはほぼ無い。日本米程では無いが粘りもある。
「遥、一番槍行ってくれ。」
慎太郎は遥に一番手を譲った。
「え、いいの?これ釣ったの慎太郎じゃん。」
「いいんだよ。自分で言ったろ?お前が主を釣り上げた祝勝会だ!」
その言葉に和人と美空が拍手をする。
遥は少し照れながら、
「みんなありがとう…そんじゃ遠慮無く、いただきます!」
遥は一切れの刺身に軽くワサビを乗せ、包む様に持ち上げると醤油に浸す。それをごはんでお迎えして…
―トン トン―
皆が唾を飲む音が聞こえる。
余分な醤油を落とした刺身を、遥は一口に頬張った。
ぷりぷり、さくさく、釣りたてゆえの歯応え。
口の中に広がる懐かしい醤油の風味と塩気、更に咀嚼を続けるとそれらはとろりとした脂の旨味に変わり、ワサビの辛味が爽やかにまとめる。
そのタイミングで遥は、先程余分な醤油をバトンタッチされたごはんを頬張る。
醤油を纏った事でより際立つごはんの甘味、長粒種ゆえの噛み応え、先んじて口の中を支配していた魚の旨味が渾然一体となる。
― 至福 ―
マンガとかだとこんな時、目を閉じて涙したりするが、何故か女子は、美味しい物を食べるとじたばたする人が多い。
遥はじたばたしながら無言で右手を振り『みんなも食べて!』の指示を出した。
「「「いただきます!」」」
皆が一斉に箸を伸ばし、刺身を食べようとした時、
「「え?」」
遥と慎太郎が声を上げた。
美空が一つしかない醤油皿にワサビを溶かしたからだ。
「「え?」」
和人と美空も声を上げた。
流派の違いである。古来からある、下らない戦争が起こる案件の一つだ。
「まあ、お祝いですし、下らない戦争はしない方がいいです。」
美空が醤油皿を追加し、使いづらいので和人と慎太郎が場所を入れ替える。
いつも嬉しそうに食べる美空が、いつもよりも嬉しそうだ。
「さすがに私も、皆に隠れてお醤油使おうとは思いませんでしたからね。」
そして皆、久しぶりの日本食を心行くまで味わった。
食休みも終わり、美空も参加して釣りを再開する。
釣りスキルが付いた遥がかなりの勢いで良型を釣り上げてゆく。
それに負けじと慎太郎も釣り上げてゆく。
和人はそんなに二人を横目にのんびりと釣りを楽しんでいる。
美空は五匹程釣った辺りから、魚を締めて血抜きする作業に専念していた。
遥と慎太郎の戦いが白熱し、和人が飽きて美空の手伝いを始めた頃だった。
「あの、すみません。」
鈴の鳴るような美しい声。
皆が振り返り、息を飲んで固まった。
「申し訳ないのですが、よろしければそのお魚、少し売って頂けませんか?」
息をするのも忘れる程に、とてつもなく美しい少女が立っていた。
濃いミルク色の、真っ白く存在感のある肌色、やや垂れ目勝ちで優しげな黒真珠の様な瞳、形の良い眉の上できっちりと切り揃えられた、絹の様なしなやかで真っ直ぐな黒髪、薄桃色で清楚さを感じる厚みの弱い唇、一言で言えば大和撫子然とした姫君の様な美しさだ。
服装は普通の町娘と変わらないが、何処と無く気品があり、日除けの為か、薄緑色の頭巾を被っている。
「あの…駄目でしょうか?」
少女は、言葉を忘れている一同に、再度声をかけた。
その言葉で、やっと慎太郎が思考を取り戻した。
「あ、いや。全然駄目じゃ無いよ?俺達は半分遊びで釣ってるんだし、お金もいらないさ。好きなの選ぶといいよ。」
「でも、初めて会った方々に、不躾なお願いをしているのは私です。やはりお金は払わせて下さい。」
そう言って少女は慎太郎に詰め寄る。
「いいいや!?いいんだって。遊びで釣った魚で喜んでくれるなら、俺達だって嬉しいから!なあ、みんな?」
慎太郎はいささかどもりながら答えると、耳を真っ赤にしながら三人に同意を求めた。
当然皆、笑顔で頷く。
少女は少し困った様な笑顔を浮かべ、
「ありがとうございます。そのご厚意に甘えさせて頂きますね。でも、それだと私の気持ちが収まりません。お時間があるのでしたら、お茶と軽食くらいご馳走したいので、私の家へいらして貰えませんか?すぐ近くですので。」
その言葉に、慎太郎の表情から、解りやすい程の喜びが溢れる。
「ありがとう、俺達もお言葉に甘えさせて貰うよ。」
少女はふんわりとした笑顔を浮かべた。
「はい!では私に付いて来て下さいね。」
歩き出した少女の背中を見た後、慎太郎が振り返ると、既に片付けを終えた三人が、猫の様な表情で薄ら笑いを浮かべていた。
「咲いちゃいました?一目会って咲いちゃいました?」
「あーゆー古風な感じが好みだったんだねぇ?そりゃあ今時女子では落ちないわ~。」
「難攻不落の幾島城、遂に陥落だね。何人の女子が泣くかなぁ~?」
三人が次々に茶化す。
「ああ、そうだよ。悪いか?」
開き直る慎太郎。バスケ部期待の星、誰にでも優しく明るい爽やかイケメンは当然モテる。
しかし、バスケに専念したいと、慎太郎は多くの女子の告白を断ってきたのだ。
付いたあだ名が【難攻不落の幾島城】。
その頑なな姿勢は、一部の腐り気味な女子にも人気があった。
入学式の日に、黙っていれば飾り気の無い美少女である遥に声をかけて以来、ストイックを貫いて来た慎太郎は、異世界で理想そのものの女性に出会い、遂に落城した。
「どうかなさいましたか?」
内輪でごちゃごちゃやっていた四人に、少女は振り返り声をかける。ただそれだけの事がとても絵になってしまう。
「いや、何でもないよ。俺は幾島慎太郎、慎太郎が名前ね。」
「僕は駿河和人」
「山崎遥だよ、よろしく。」
「渡辺美空です。」
「私はロレインです。こちらこそよろしくお願いしますね。」
五人は歩きながら自己紹介をする。
「皆さん変わった名前なんですね。」
「ああ、俺達は色々あって違う世界から来たんだ。」
その言葉に、ロレインは少し動揺する素振りを見せた。
「もしかして、召喚勇者の方々ですか?」
その表情には、先程まで無かった怯えの様な物が現れていた。
「まあ一応ね、俺が勇者って事になってる。」
普段は勘のいい慎太郎だが、理想の女性を前にして緊張している為か、ロレインの表情の細かい変化に気が付かない様だ。
美空がただ一人、ロレインを訝しげに見ている。
「すぐ近くって言ってたけど、ロレインさんは町には住んでないの?」
和人の質問にロレインは苦笑いを浮かべる。
「少し事情がありまして、それに喧騒も苦手ですし、この辺りには強力な魔物も出ないんですよ。あ、あそこです。」
指差した方向には、四方を1.2m程の高さの木塀に囲まれた小さな家があった。
「どうぞ入って下さい。」
『お邪魔します。』
簡素な室内だった。
やや小さめのテーブルに椅子が二脚、竈も兼ねているらしい暖炉、数冊の本と食器類の入った棚、水瓶と調理台を兼ねた食料棚、それだけだった。
造りから見て、隣部屋が寝室だと思えるが、そちらもベッドだけだろう。
「今お客様用の椅子を出しますね。」
「あ、俺手伝うよ。」
物置部屋らしき所からロレインと慎太郎が椅子を三脚出して並べると、ロレインは暖炉に薪をくべ、火魔法で火をつけた。
「一人で住んでるの?」
キョロキョロしていた遥が尋ねる。
「ええ、母は私を産んだ時に亡くなったそうです。父は遠くで暮らしています。」
「あ、ごめんなさい…」
「気にしないで下さい、この生活も割と楽しいですから。」
ロレインは暖炉の上にヤカンをのせ、パンを切り始めた。
慎太郎はその後ろ姿をうっとりと眺めている。
そこでずっと訝しげな表情をしていた美空が口を開いた。
「ロレインさん、私達はあなたとお友達になりたいのです。そこの慎太郎君は、特に強くそう思っています。」
「なッ!?美空お前!!」
顔を赤くして慌てる慎太郎を手で制し、美空は言葉を続ける。稀に見る真剣な顔だ。
「私達の事はだいたい話しました。たとえあなたの素性がどんな物でも、私達は忌避したりしません。隠し事は無しにしませんか?その頭巾、取って下さい。」
確かにロレインは部屋に入ってからも、不自然に頭巾を被ったままだった。
ロレインは困った笑顔を浮かべた。
「もしかしてあなたは鑑定が使えるのですか?」
「はい、失礼だとは思いましたが、身の安全には代えられないので。」
真っ直ぐ見詰めてくる美空に、ロレインは観念した表情で頭巾を下ろした。
その下から出てきたのは、少し長く先の尖った耳。
「もしかして、ハーフエルフ?」
和人はエルフは金髪のイメージがあったのでそう言った。
しかし、悲しげな表情を浮かべ、ロレインはそれを訂正した。
「半分正解です…確かに私の母はエルフでしたが、父は魔族です…」