月読一族・鬼灯輝夜
鬼灯堂奇譚 あべせつ
原稿用紙 六十三枚換算
第一夜 呪月の巻
《十五夜 亥の刻・ガード下》
初夏の夜気には、媚薬が含まれているのだろうか。連休前夜の繁華街には、何がおかしいのか、時折タガが外れたように嬌声をあげる若い女や、ぎらついた眼で獲物を物色する男たちの群れで、あふれかえっていた。
「今宵は満月、こら、みんな、月光狂いやな」
加代は、そうつぶやきながら、雑踏の中から抜け出すと、メインストリートから少し外れた、ガード下の暗がりへと向かっていった。季節に合わぬ黒装束が、そのぽっかり空いた薄闇に溶け込んでいく。
「よっこらしょっと」
加代は、トンネルを入ってすぐの、照明と照明の間の、薄暗い壁際に荷物を下ろした。あまり奥では人目につかないが、商売柄、明るすぎては具合が悪い。ちょうどいい場所に、折り畳み式の脚長の小机を広げると、黒い天鵞絨の布をかけ、占いの道具一式を並べた。自分と客用の小さな椅子を、向かい合わせに据えれば準備は万端、あとは黒いベールを頭にかぶれば、青井加代から《占い師・青炎》への変身完了だ。
「あっ、あんなところに占いがある。優子、和也さんとのこと、見てもらえば?」
ほろ酔い加減の、舌足らずな女の声が、トンネル内に響き渡った。
(早速、一番客のお出ましやわ)
青炎は、あわてて腰掛けると、姿勢を正して、静かに待った。
二人の娘の内、優子と呼ばれたほうが、椅子に腰掛け、もう一人はその背後に立った。
「あの、恋占いを、お願いしたいんですけど」
青炎は厳かにうなずくと、クリスタル製の水差しに入った清水を、水盤になみなみと注いだ。そこに数滴のラム酒と香油をたらし、ろうそくを取り出すと、火を点けた。
(さてと、ここからが見せ場やで)
青炎は、オレンジ色に燃え上がる炎の形を、しばらくじっと見ていたかと思うと、おもむろにろうそくを傾け、水盤の清水の中に、溶けたろうを落とし込んだ。ろうは、みるみるうちに固まり、ご神託を告げる形へと変貌していく。娘たちは、ろうそく占いが珍しいらしく、興味津々に、水盤を覗き込んでいる。
「ふむ、炎の色、ろうの形、すべてにおいて、相思相愛の卦がでておる。今のその恋、必ずや成就致すであろう」
「わあ、いいなあ、優子。相思相愛だってさあ」
「あの、結婚は、いつごろになりますか?」
「半年後に御婚約、一年後には、めでたくご成婚やね。はい、鑑定料三千円。ここから先の占いは、別料金になるけど、しはる?」
「いえ、もうこれだけで」
「そう。で、お友達のほうは?」
「わたしは、今のところ、好きな人がいないから、また今度」
キャラキャラとさざめきながら立ち去る、若い後ろ姿が見えなくなると、ガード下は再び、深い静寂に包まれた。
続けて、客を二人ほど見た後は、パタリと客足が途絶えてしまった。
「ああ、もう、十一時やんか。そろそろ店じまいしようかな。今日は九千円。まずまずやね」
青炎が、そう、独りごちた時、一人の女が、ガード下に入ってくるのが見えた。女は一直線に青炎の元に駆け寄ると、机の前に立ちはだかった。何も言わず、能面のような顔をして、ろうそくの炎を凝視している。なにか只事ではない雰囲気に、青炎の背筋に緊張が走った。
(気持ちわるっ。なんや、この女)
外見から見れば、、普通の主婦のようであり、買い物袋を手に下げている。年の頃は、ざっと三十半ばだろうか。
(恋占いに必死、という年齢でもなさそうやのになあ……? )
不信に思って、声をかけようとしたとき、女が声を出した。
「あの、……は、可能でしょうか?」
「えっ、何?」
低くくぐもるようなその声音に、青炎は、聞き違えたかと問い返した。女はしばらくためらっていたが、意を決したかのように、青炎に詰め寄った。
「占いで、人を呪い殺すことは、できるでしょうか?」
〈十五夜 子の刻・鬼灯堂〉
まるで、人目を避けるかのように、ひっそりとその店はあった。空き地ばかりの廃墟のような裏路地は、暗く静まりかえり、突き当りのその店の灯りだけが、道に漏れている。古びた店の、軒先の大きな看板には、《和蝋燭 鬼灯堂》の金文字が、月明かりに鈍く光っていた。
「こんな時間に、まだ、営業されているのでしょうか?」
「ほら、これ、見てみ」
不安げに問う女に、青炎は、入口の立て看板を指さした。そこには《営業時間 逢魔が時より丑三つ時まで》と、墨痕鮮やかにしたためられていた。
「輝さん、いてはる?」
青炎が、その店の格子戸をガラリと開けると、ジーンズ地の作務衣を着た輝夜は、入ってすぐの作業場で胡坐をかいて、ろうそくの絵付けをしているところだった。
「あ、いてはるわ。さあ、入って」
青炎は、女を店の中に招き入れた。
「なあ、輝さん、この人の話、ちょっと聞いたってくれへんやろか」
輝夜は青炎の言葉を聞くと、手にした筆を置いて立ち上がり、奥座敷へと二人を手招いた。ふすまを開けると、中央に黒い座卓だけが置いてある、八畳ほどの和室が、廊下からの明かりで、薄ぼんやりと見えた。三方は壁で窓がない。自然光の入らぬその部屋には、現代的な照明器具の類いは一つもなく、ただ四隅に、時代劇で見るような古風な燭台が立てられている。
輝夜は頭をぶつけぬよう、腰をかがめて鴨居をくぐると、その燭台に蝋燭を立て、火を灯した。四方で炎がゆらめくと、光と影が絡み合い、たちまちのうちに外界とは切り離された、特異な空間がそこに現れた。青炎は、その雰囲気に臆することなく、真っ先に部屋の中へ入っていった。
「大丈夫やから、はよ、入り」
座卓についた青炎が手招きをすると、女はおずおずと、そのとなりに座った。座卓を挟んで二人に向かい合う席に、輝夜が正座し、青炎が話し始めた。
「こちらは鬼灯輝夜さん。このろうそく屋さんのご主人ね。色々と、悩み相談にのってくれはるんよ。輝さん、こちらは、わたしのお客さんで、ええっと」
「白河洋子と申します」
「そうそう、洋子さんやったね。でね、輝さん、洋子さんはね、ある人を呪い殺したい、と言うてはるんよ」
「せ、青炎さん、そんないきなり」
「大丈夫よ、輝さんは、そんな相談には慣れてはるから」
輝夜は、顔色一つ変えることなく、まっすぐに洋子を見つめている。
「あなたは、だれを、どうしたいのですか?」
今宵、初めて発された輝夜の声は、低くおだやかで、聞く人を安心させる温かさに満ちていた。
「……夫の心を」
ろうそくの炎が、じじじっと音を立て、大きく揺らいだかと思うと、一筋の煙が立ち上がり、甘い香りを放った。
「義母を殺して、夫の心を取り戻したいのです」
〈十五夜 夜半・月夜道 洋子の回想〉
帰る道すがら、洋子は、先ほどのことを思い出していた。
(わたしったら、あんな話を、初対面の人にして)
鬼灯堂の薄暗い奥座敷の中、温かいオレンジ色の、ろうそくの揺らぎを見つめていると、不思議なことに、固く凍りついていた自分の心が解け始め、それが濁流となってあふれ出てくるのを感じた。
「殺したいやなんて、また物騒なことを言いはるわ。そやけど、旦那さんの気持ちを取り戻すのに、なんでお姑さんを殺さなあかんの?」
青炎が、ずばり核心をついて問うてきた。輝夜は、ただ、じっと聞き入っている。
「武史さん、あ、いえ、夫は気の優しい人で、とても母親思いの人なんです。でも、お義母さんが一年前、寝たきりになられてからは、人が変わったようになってしまって。近頃では、外に女の人を作って。家には帰って来なくなってしまいました」
「そんなん、全然優しい人なんかや、あらへんわ。自分の母親の面倒を、洋子さん一人に押し付けて、逃げてるだけの卑怯者ですやん」
青炎は、親身になって聞いてくれていた。
「ええ、でも、夫の気持ちもわかるんです。お義母さんは、若い頃から、とても厳しく毅然とした方でした。武史さんは、母親に甘えられない寂しさもある反面、憧れも抱いていたようなんです。ところが」
「ところが、そのプライド高いお母さんが、寝たきりになった、ということやね」
「はい。お義母さんがお元気な時には、わたしたちは勘当されていましたので、別々に暮らしていました。でも、寝たきりになってしまって、そんなことを言っている場合ではなくなったのでしょう。一人息子の武史さんが、呼び戻されたのですが、わたしは連れて来るなと。でも、武史さんが、わたしも一緒でないと帰らないと条件を出されたので、お義母さんも、しぶしぶ同居をお許しになったのです」
「勘当って、また、なんで?」
「わたしは再婚で、武史さんは初婚なんです。歳も、武史さんより五つも上で。家柄も資産も学歴も、何にもありません。前の主人と死別してからは、身寄りもありません。武史さんと出逢ったのが、スナックでアルバイトしていたときで、武史さんはお客さんだったんです。それを、わたしが正直に話したことが、お義母さんの逆鱗に触れまして。『そんな人は、うちの大事な跡取り息子の嫁にふさわしくない。結婚は、絶対に許さない』と大反対なさいました。それを武史さんが強引に押し切ったので、世間体を気にするお義母さんから、勘当されてしまったんです」
「それはなんか、お姑さんの都合のいい話やんね。気に入らないから勘当。寝たきりになったから、戻ってこいなんてさあ。そんなん、ほっといたらええのに」
青炎は、口は悪いが気のいい関西女らしく、本気で憤慨しているらしい。
「ええ、でも、やはり武史さんにとっては、実のお母様ですし、わたしとのことがなければ勘当になんか、ならなかっただろうし。わたしのせいで武史さんまで、天涯孤独にしてはいけないと思っていたところでしたから、今回の同居はむしろチャンスだ。少しでもお互いの溝が埋められたら、と思ったんです。でも、結局、それは甘かったんです」
「ははあん、それはもしかして、嫁いびりが始まったんと違うの」
「ええ、まあ。でも、嫌味を言われることぐらいは、覚悟の上でした。問題は、あれほど活動的で毅然としていらしたお母様が、自室に引きこもられたままで、一歩も外には出ないのです。部屋の窓もカーテンも閉め切られたきりで、空気も入れ替えさせてくれません。 それに何日もお風呂に入らず、着替えもせず、ただただベッドで、一日ぼうっと過ごしておられるだけなんです。動かないせいか、食事も少ししか召し上がりませんし、何よりお休みになれないようで、昼夜の区別なく。何度も何度もつまらぬことで、わたしたちを呼ぶのです。わたしも武史さんも、いつ呼ばれるかと思うと気が張って、一日中神経が休まらなくて。そのせいで、わたしたちまで不眠症になってしまいました」
「介護疲れというやつやね。それは、大変やんか」
「武史さんも初めのころは、『病気のせいだから、回復すれば元の母親に戻るだろう』と、お義母さんを元気づけるために、考えられる限りのことをしてあげていたのですが、顔を見れば『もう死にたい』とか『殺してくれ』とかばかりおっしゃって。武史さんも、そんなお義母さんに、ほとほと疲れられたようで。だんだん家に帰らなくなってしまったのです」
「もう、どれぐらいの間、帰ってきてはらへんの?」
「三か月近くになりますかしら。わたしが電話しても、出てくれなくて。たぶん、そばに女の人がいるからなんでしょうけど。そうなりますと、お義母さんの矛先がわたしだけに向くようになりました。『あなたに嫌気がさしたから、武史は帰って来ないのよ』とか、『さっさと別れてくれたら、もっといい嫁をもらえるのに』とか、もっとひどいことも言われます。そのくせ最近では、わたしが外出にするのも嫌がられて、まるで軟禁状態なんです。今夜は、たまたまミルクを切らしたので、買ってくるようにと言われて。ああ、だから、またすぐに戻らなきゃ」
思い出して焦り始める洋子を、青炎は制した。
「まあまあ、洋子さん、まだ本題に入ってないから、落ち着いて。それで、お姑さん、そんな資産家でお金があるんだったら、ヘルパーさんとかお手伝いの人を雇えば、洋子さんは解放されるんじゃないの?」
「お義母さんがカーテンを開けないのは、今の自分を他人に見られたくないから、だそうです。だからヘルパーさんなんて、とても」
「なにそれ、洋子さんを、単なるお手伝いさんとしか、思ってないんとちゃうん?。
そんなん、なにも我慢することないやん。その鬼婆の言うとおりに離婚してやって、慰謝料がっぽりもらって、家をでてやればいいのよ」
「それが、そうもできない理由があるんです。実は、わたしがスナックでバイトしていましたのは、亡くなりました前の主人の借金があったからなんです。昼間はパートで働いていたんですけど、それだけでは足りなくて。でも、そのスナックで武史さんと出逢って……。求婚して下さったとき、わたし、本当にうれしかった。でも、バツイチだし、借金はあるしで、初めはお断りしていたんです。そしたら、武史さんは心配いらないからと、全額返済をしてくださって。わたし、武史さんには、恩義があるんです。何もかも放り出して、逃げるようなことできません」
「でも、それじゃあ、恩人の母親を殺すなんて、矛盾してるんやないの?」
「お義母さんがいる限り、武史さんは戻らない。でも、そうこうしている間に、むこうの女に子供ができたら」
そう言ったとたん、洋子は自分の中の迷いが消え、代わりに鬼が現れたのを感じた。
「お義母さんが、そう言ったんです。『どんな女か知らないけれど、子供ができたのなら、その女を嫁に迎える。そうなったら、あなたはお役御免だから、出ていけ』って。わたしたちには子供がいません。その女の人に子供が出来たら、武史さんの心は向こうに完全に移ってしまう。わたしはもう、武史さんを取り返せなくなってしまうんです。早くしなきゃ、早くお義母さんを何とかしなきゃ。そればっかり考えて、苦しいんです。だから」
嗚咽し始めた洋子の背中を、青炎が優しく撫でさすった。すると、ここまで静かに聞いていた輝夜が、ふいに座敷を出て行き、細長い紙包みを手に戻ってきた。
「このろうそくを、お姑さんの寝室で、次の満月の夜まで、毎晩かかさず灯しなさい」
「ろうそく……をですか?」
洋子は、少し拍子抜けをしながら、紙包みを受け取った。
「まあまあ、洋子さん、大丈夫やから。騙されたと思って、輝さんの言うとおりにやってみて。絶対、ご利益があるさかいに」
青炎がニッと笑ってウインクをした。輝夜は、もう話は済んだとばかりに、作業場に戻ると、再び胡坐を組んで、蝋燭に絵付けをし始めた。先程とは打って変わった、輝夜の人を寄せ付けない雰囲気に気圧され、それ以上尋ねることもできぬまま、洋子は青炎に見送られ、店を出たのだった。
〈十五夜 夜半過ぎ 洋子宅〉
自宅に着くと、洋子は、既に姑が寝入っていることを祈りながら、そっと玄関のドアを開けた。
「洋子さん、洋子さんなの?」
姑の幸代のいらだつ声に、洋子の身がすくみあがった。
「は、はい、お義母さん、ただ今」
中庭に面した奥の間へ急ぐと、姑の幸代はベッドの上に起き上がって、こちらを険しい顔でにらんでいる。
「洋子さん、遅いじゃないの。私が、待っていること、わかってるんでしょ」
「はい、お義母さん、これでも、ずいぶん急いで」
「嘘をおっしゃい。たかだか、駅前のコンビニに行くぐらいで、こんなに遅くなるはずないじゃないの。ここぞとばかり、羽目を外してきたんでしょ」
「いいえ、お義母さん、そんなことは」
「だいたい、私がミルクを飲まないと眠れないことは、あなたも知ってるでしょ。どうして、それを切らすのよ。私のことを思いやってくれていたら、買い忘れるなんてことないはずだわ」
「でも、お義母さん、今日はお義母さんが家にいなさいとおっしゃったので、買い物には行けなくて」
「まあ、私のせいだと言うの。今日は私も具合が悪かったから、家にいてくれと頼んだんじゃないの。常日頃から余分に買い置きをしていれば済む話でしょ。そんなふうに気がきかないから、武史だって」
「お義母さん」
「まあ、いいわ。眠れないのよ。そのミルクを温めてちょうだい。買ってきたばかりの冷たいままじゃいやよ。それから、少し蜂蜜もいれてちょうだい」
「はい、お義母さん」
洋子は小走りで台所へ急ぐと、ミルクを買い物袋から取り出した。そのとき、ふと先ほど渡された紙包みが目に入った。開けてみると、美しい銀華の模様が描かれている錨型の白い蝋燭が出てきた。
「まあ、なんて、綺麗なろうそく」
かすかに甘いハーブのような香りがしている。これが毒なのだろうか。それとも何かの呪術なのか。あの輝夜という男は何も教えてはくれなかったが、適当なごまかしを言っているようには思えなかった。これを次の満月の夜まで灯し続ければ、お義母さんはきっと……。
洋子は、引出しをかき回してライターと燭台を探すと、温めたミルクのコップとともに銀盆に乗せて、幸代の元に戻った。
「お義母さん、はい、ミルクです」
幸代は無言で受け取ると、口をつけ、ギャッとうめいた。
「まあ、洋子さん、熱いじゃないの。沸かし過ぎなのよ。あなたはミルク一つまともに温めることも出来ないのね。いったいご両親は、どんな躾をなされたのかしら」
「す、すみません」
洋子は、ベッドのサイドテーブルの上に燭台を置き、ろうそくに火を点けた。
「あら、何をしているの?」
「お義母さんが眠れないとおっしゃるので、これを買ってきました。よく眠れる薬効入りのアロマキャンドルなんですよ」
「枕もとで、そんなろうそくを立てるなんて危ないじゃないの。私が寝込んでいる間に火事にでもなったらどうするつもりなの。それとも、それがお望みなのかしらね」
「まあ、お義母さん」
洋子は、銀盆を胸に固く抱きしめると、幸代と目を合わさぬように顔を伏せ、もじもじと立ち尽くした。
(どうしよう、このままじゃ……)
その時、ろうそくが大きく揺らぎ、一筋の煙とともに、心地よい香りをあたりに放った。
すると、不思議なことに、幸代の表情がにわかに和らいでいった。
「ふうん、アロマキャンドルね。たしかに良い香りだわ。洋子さん、点けてもいいけど、私が眠ったら必ず消してちょうだいよ」
「は、はい、必ず。ちゃんと、見に来ますので」
洋子は、幸代の部屋から出ると、体の力がいっぺんに抜けたようになり、廊下にへたり込んだ。
《十五夜 同刻・鬼灯堂》
「洋子さん、だいぶ、混乱してはるわ。言うてはることが、支離滅裂やんか。そうとう頭にきてはるんやね。でもさあ、輝さん、ひどい話やと思わへん?」
洋子を見送ると、憤慨した青炎こと青井加代が、作業場の前で仁王立ちになりながら、輝夜にまくし立てはじめた。
「あのお姑さん、嫁を奴隷か何かだと思ってるんやろか。自分が寝たきりになったからって、洋子さんまで家にしばり付けるのっておかしくない? 買い物以外の外出はダメで、あとは一日中、お姑さんの世話をしていろだなんて、そりゃ酷な話やわ」
輝夜は黙って、絵付けをしながら加代の話に耳を傾けている。
「それに、旦那も旦那だよね。洋子さんに厄介ごとを全部押しつけといて、自分は他に女つくって、家には帰れへんなんて有りえへんわ。でもさあ、洋子さんは、ご亭主のことが本当に好きなんだね。お義母さんさえいなくなればって言う気持ち、なんかわかるような気がするわ。そやけど、輝さん、あのろうそくで、ほんまにお姑さんはコロッと?」
なかなかおしゃべりの止まない加代を、ちらりと輝夜は見上げた。
「加代さん、もうとっくに零時も過ぎた。祐太が、目を覚ましたら寂しがるぞ。早く帰ってあげなさい」
「いやあ、ほんまや。はよ、帰らな。明日も、祐太のお弁当作ったらなあかんねん。ほんなら、輝さん。今日はありがとう。またねえ」
加代はそそくさと、自宅へ急いだ。
《十六夜 朝・辰の刻 洋子宅》
「洋子さん、ちょっと」
朝食の盆を持って部屋に入ると、待っていたかのように、幸代が話しかけてきた。珍しく顔に剣がなく柔和とまではいかないが、少なくともいつものような渋面ではない。相変わらず、窓もカーテンも閉め切ったままで、部屋は薄暗かったが、ただそこに昨夜のろうそくの香りが居残り、据えた空気をすがすがしく変えていた。
「お義母さん、おはようございます。昨夜は、よくお休みになれましたか?」
「それなのよ。やっぱり火が気になって、なかなか寝付けなかったわ」
洋子は、ろうそくを下げろと言われるのではないかと、ひやりとした。
「お義母さん、アロマの効き目はなかったですか? ぐっすり眠っておられましたが」
「まあ、そう、言われればねえ」
そのとき、幸代の枕元の電話が鳴った。幸代専用の固定電話で、洋子が出ることは禁じられていた。
「母さん、会社には電話してくるなと、言っただろう」
受話器から、怒鳴りつけるような武史の声が漏れて聞こえた。洋子は、そのあたりを片付けるふりをしながら、耳をそばだてた。
「だって、あなた、携帯にかけたって、ちっとも出ないじゃないの」
叱られたせいか、陰気な声で、幸代が答えている。
「武史、今度はいつ、帰ってきてくれるの?」
「仕事が忙しいんだよ。わかってるだろう? 当分は帰れないよ」
忙しい、忙しい。いつも同じ言い訳だ。馬鹿の一つ覚えみたいに。
「急用じゃないんなら、もう、会社にかけてくるなよ」
一方的に切られて、不機嫌になった幸代は、洋子がいたことに気づくと、いつもの鬼面に戻ってにらみつけてきた。
「洋子さん、武史、まだ、帰らないんだそうよ。あなたがいる限り、帰って来ないつもりなんじゃないの。前は優しいいい子だったのに、この頃は親不孝になって顔も見せやしない。武史がこうなったのは、あなたのせいよ。あなたが、図々しくこの家に居座るから、武史は帰って来られないのよ」
自分の言葉に激高したのか、幸代はいきなり枕もとの銀の燭台をつかむと、ドアに向かって叩きつけた。カーンと音がして、ろうそくは真っ二つに折れてはじけ飛び、燭台がごろごろと重い音を立てて床に転がった。
「あっ、お義母さん、なんてことを」
「こんな、ろうそくが何よ。こんなもんで、わたしの機嫌を取ろうと言うの? あなたが買ってきたものなんて、見たくもないわ。もう出て行って。早く、出て行ってちょうだい」
そうヒステリックに叫んだかと思うと、幸代は頭まで布団をかぶり、背を向けて引きこもってしまった。姑のあまりの剣幕に、洋子はどうしていいかわからず、無意識の内にろうそくを拾い上げると、そのまま家を飛び出した。
《十六夜・朝 巳の刻 鬼灯堂》
《営業時間 逢魔が時より丑三つ時まで》と書かれた立て看板の前で、洋子は途方に暮れていた。
「逢魔が時って、何時からなのよ」
ここに来る前、昨夜、青炎と出逢ったガード下にも寄ってきたが、そこにまだ占い師の姿はなかった。しかたなく、うろ覚えの道順をたどり、ようやくここまで来たものの、店の格子戸は固く閉ざされている。家には居たたまれず、折れたろうそくだけを手に、飛び出して来てしまった。まだ、しばらくは帰りたくないし、かといって財布もない。行き場に困り、どうしたものかと思いながら、そっと格子戸をたたいてみた。
「ごめんください」
中で人の動く気配がして、格子戸が開いた。昨夜と同じ、紺色の作務衣を来た輝夜が姿を現した。
「開店前ですのに、すみません。あの、これ」
洋子は、折れたろうそくを輝夜の前に差し出した。
「ああ、なるほど。少しお待ちください」
輝夜は、洋子を入口に立たせたまま、奥へと引っ込んだ。開け放たれた格子戸から見える店内は、朝の光に満ちて、昨夜の幻想的な雰囲気はなく、どこにでもあるような工房の様を呈していた。ほどなく輝夜は、新しいろうそくを手に戻ってきた。
「あの、申し訳ないのですが、今、持ち合わせがなくて。昨夜のも、まだお支払してないんですけど」
「それは、また、いつでも」
「あ、ありがとうございます。それで、あの今朝・・・・・・」
洋子は、ろうそくが折れたいきさつを話し始めた。
「お義母さんが、わたしの買ったろうそくなんか見たくもないと。それに火が怖くて寝付けないと言われて。でも、わたしが火を消しに行ったときは、ぐっすり眠っていたんですけど。私、もう、どうしていいか、わからなくて」
「ご心配なく。お義母さんは、今夜もろうそくを灯すようにおっしゃいますよ。あのろうそくには、そうした常習性があるのです。そのかわり、即効性はありません。仕込んである薬は、毎日少しずつ灯すことで効き目を表します。一時に大量に灯せばいいというものではないのです。だから次の満月までと申し上げました。お義母さんの心配を取り除くためには、寝付くまで、あなたもそばにいればいい。不自然にならぬよう話をするとか、マッサージをするとか、そばにいる用事を作ればいい。そうすればお義母さんも、安心してろうそくを灯すようにおっしゃるはずです」
「ええっ、でも、そんなことをしたら、わたしまで毒を吸い込むことになるのではないのですか?」
「人一人を殺めようというのです。あなたも、それなりの犠牲をはらわなければなりません。自らの命をかける覚悟がないのなら、もう、ここでお止めなさい」
輝夜は、声をひそめてそういうと、格子戸をぴしゃりと閉めてしまった。
店を出てから、当て所なくさ迷ううちに、小さな公園へとたどり着いた。既に学校や幼稚園の始まっている時間帯のためか、人っ子一人いない。洋子は木陰のベンチに腰をかけた。今となっては、手にしたろうそくが恐ろしい。素手で触ってしまったが大丈夫なのだろうか。
「でも、即効性はないと言っていたわ。そういえば、ドラマか何かで、そうした毒があるというのを聞いたことがあるわ。毎日、少量ずつ摂らせることで、解剖しても死因がわからなくて、病死扱いになるっていう毒薬。これがそれなんじゃないのかしら」
とはいえ、姑だけにこれを使うのは、もはや難しい状況になってしまった。
「どうしよう。寝付くまで一緒になんて。わたしまで死んでしまったら、元も子もないのに」
(離婚して、家を出ればいいじゃない。そうすれば、もうこんな思いしなくていいのよ)
もう一人の洋子が、耳元でささやいた。
(今まで、こんなに頑張ったんだもん。借金の分だって、もう帳消しのはずよ)
(あと、何年がんばればいいと思う? あの調子じゃ、一年や二年じゃ済まないわよ)
「じゃあ、離婚したとして、どこに行けばいいの? 頼れる身内も、お金もないのよ」
(どこでもいいなら、住み込みで何か仕事があるはずよ。まだ三十五歳。女盛りを、あんなお婆さんの世話で終わらせていいの?)
「そう……よね」
もう捨ててしまおうかと、手にしたろうそくを見たとき、結婚指輪が目に入った。武史が選んでくれた、プラチナの指輪だった。
「楽しかったなあ、あの四年間は」
二人だけの、絵に描いたような幸せな暮らし。幼い頃から厳しくしつけられ、緊張を強いられて生きてきた武史は、洋子だけが気を許せる唯一無二の人だと言って、心から大切に思い、愛してくれた。
五年前、洋子がアルバイトをしていたスナックに、白河武史が上司のお供でやってきたのが、最初の出会いだった。その頃、武史はまだ二十五歳。なぜか、洋子に一目惚れしたらしく、すぐに一人で足繁く通ってくるようになった。最初はからかわれているのかと不安だった洋子も、知らず知らずのうちに、武史からの連絡を心待ちにしている自分に気がついた。武史から正式にプロポーズをされたとき、洋子は飛び上がるほど嬉しかったが、五歳も年上で、しかもバツイチである自分が、初婚で一流企業に勤める武史の妻になるなど、申し訳ないという思いもあった。それに何より亡夫の残した多額の借金があった。武史に迷惑をかけるわけにはいかない。洋子は、自分の気持ちを正直に話した上で、プロポーズを断った。すると、武史は何も心配いらないからと言うと、借金を肩代わりして、洋子に店を止めさせたのだった。
母親に会ってほしいと言われ、大安吉日を選んで訪れた武史の実家は、大きな庭のある大邸宅だった。洋子はその日まで知らなかったのであるが、白河家は格式高い旧家であったのだ。
現れた母の幸代は、洋子が挨拶する暇も与えず、頭ごなしに反対をし始めた。
「武史、あなた気でもちがったの。こんな水商売の女なんかに騙されて。もっと当家の嫁にふさわしい人を選びなさいな。まわりには、もっと若くて良家のお嬢さんがいくらでもいるでしょう。こんな嫁、親戚に恥ずかしくて、紹介なんかできやしないわ」
その言葉に、今まで母親の言いなりだった武史が珍しく逆らった。
「お母さん。そんな洋子の経歴なんかより、人柄を見て欲しいんだよ。どんなに優しくて情の深い人か。僕は、こんな思いやりのある人に出会ったのは、初めてなんだよ」
「それが、騙されてるっていうのよ。わずか半年やそこらで、何がわかるの。どうせ、うちの財産目当てなんでしょ。母一人子一人だから、くみし易しと思ったら大間違いですからね」
「洋子でないなら、僕は一生、誰とも結婚しない。この家も出るから」
「なんですって。本家の跡取りが、何を言うの。白河家を継ぐのは、あなたしかいないのよ。それに、武史、あなたは母親を捨てて、そんな女を選ぶって言うの。なんてことでしょう。私が、どれだけ苦労して、あなたを育ててきたか、わかってくれていると思っていたのに。親不孝者、それなら、さっさと出ていくがいいわ」
こうなってしまっては、もう破談になるにちがいない。そう思って洋子は覚悟をしていたが、武史は宣言通りに家を出て二人だけの結婚式をあげてくれた。そのとき武史が洋子にサプライズで用意してくれていたのが、このプラチナの結婚指輪だった。
その後の四年間は本当に幸せだった。亡夫には申し訳ないけれど、前の結婚は、天涯孤独な洋子が、生活のためにした結婚だった。夫は実直な人ではあったが、洋子が惚れていたかと言えば、そうではない。このまま自分は恋愛を経験することもなく、一生終わるのかと、つまらなく思うときもあったが、結婚とはこんなものなのだろうと諦め、砂をかむようにして暮らした十年だった。
しかし、武史と出逢って、人を好きになるとは、こういうことなのかと初めて知った。朝、目覚めて横に武史がいることが、こんなにもうれしい。一緒に食事をしたりテレビを見たり、何でもない日常のひとつひとつが、惚れた相手とならばこれほど輝くものなのだろうか。これまでの人生、つらいことばかりだったけれど、生きていてよかったと、心の底から思えた。あの時に戻りたい。また武史と二人、仲むつまじく暮らしたい。
でも、もう、それは叶わぬ夢なのかもしれない。武史はもう三か月もの間、わたしをほったらかしにしている。わたしを、少しでも心配してくれているなら、一度くらい連絡があってもいいはずなのに。もう、わたしへの気持ちはないのかもしれない。仮に気持ちはあってもお義母さんがあの調子なら、武史さんは戻って来ない。戻ってくるとしたら、お義母さんが死ぬか、治るかのどちらかのときだけ。お義母さん自身が死にたがっているんだもの、治るわけがないわよね。ならば、いっそ、わたしが……とも思ったけど、やっぱり、それは良くない。わたし、どうかしていたわ。人を殺そうなんて。とにかく、うちに帰ろう。出て行くにしても、このまま、手ぶらでは出られない。洋子は、そう決めると重い腰を上げた。
《十六夜 午の刻・洋子宅》
家に帰ると、幸代の部屋には行かず、直接二階の自室に上がった。すぐに出ていけるように、荷物をまとめるつもりだった。武史とは、一度話し合わねばならないとは思ったが、どのみち、今、電話をかけても出てはくれないだろう。その新しい女と再婚するつもりなら、離婚できなければ困るのは武史のほうだ。しばらくして居場所が落ち着いたら、また改めて連絡すればいい。とにかく、一刻も早く、この家から出たかった。お義母さんの世話は、ヘルパーさんか誰かに来てもらえればいい。お金はあるのだ。雇う気になれば、今日にでも来てくれるだろう。他人を入れるのが嫌ならば、その新しいお嫁さんがすればいいことだ。
荷造りをし終わると、トランクを玄関に置き、幸代に最後の別れを言いにいった。
「お義母さん、色々考えましたが、お義母さんのおっしゃる通り、わたしは、この家を出て行くことにしました。今までお世話になりまして、ありがとうございました」
背中を向けて寝ていた幸代が、その言葉に飛び起きて、こちらを向いた。より一層険しくなった顔が、みるみる怒りに赤く染まっていく。
「なんですって。このまま、わたしを一人にして、出て行くつもりなの? それは許さないわよ。恩知らずな。あなたの借金を返してあげたのは、誰だと思うの。武史が返したと思っているんでしょうけど、お金の出所は、わたしなのよ。武史にねだられるまま、何に使うかも聞かずに出した私が、愚かだったわ。 まさか、あなたの借金を返すためだったなんてね。後から聞いて、失敗したと思ったわよ。出て行くんなら、そのお金を返してからにしてちょうだい。払えないなら、せいぜい労働奉仕をすることね」
「でも、今朝は、お義母さんが出ていけとおっしゃられて」
「口答えは、よしてちょうだい。武史が新しい嫁を連れてきたら、出て行ってもいいわ。でも、まあ、どうせ、あなた行く所もないんでしょ。だったら、籍さえ抜けば使用人として居させてあげてもいいわよ」
毒のある言葉に、洋子の身体がわなわなと震えだした。
「さあ、わかったら、お茶を入れてきてちょうだい。のどが渇いたわ」
(わたしを一生、奴隷にするつもりなんだ)
洋子は覚悟を決めた。
(もう、やるしかない)
《十六夜 宵の口 ・洋子宅》
「お義母さん、今夜もろうそくを灯しましょうか。夕べは、よくお休みになれたのでしょう?」
洋子は、さも改心したかのように、優しく声をかけた。外面如菩薩内面如夜叉とは、このことかと、自分で思った。
「そうねえ。でも」
洋子は、みなまで言わさず、ろうそくに火を付けた。
「お義母さんが、寝付かれるまで、おそばにいますから、安心してください。あ、そうだ、よく眠れるように、マッサージでもして差し上げましょうか」
そう言うなり、有無を言わさず、洋子は布団の中に手を入れ、幸代の全身をマッサージし始めた 。何日も、風呂に入らない幸代の身体からは、異臭が放たれ、ぬるりと粘つく肌の感触に、思わず洋子の全身が総毛立ち、手を引っ込めたくなった。
しかし、ここは我慢のしどころと、何とか自分を励まし、マッサージを続けた。最初は触られることに、少し抵抗を示していた幸代だったが、やはり気持ちがよいのだろう。十分もすると、ろうそくの効果もあってか、軽いいびきを立て始めた。洋子はろうそくの火を消し、起こさないように静かに部屋を出ると、着ていたものを全部洗濯機に放り込み、風呂場に駆け込んだ。熱いシャワーを頭からざあざあとかけ、うがいを何度もし、全身をゴシゴシ洗った。いつまでも、体にまとわりつくようなろうそくの毒と、幸代の異臭をこそげ落としたかった。
(これを、毎日やるんだわ)
洋子ののどに、何か苦いものがこみあげてきた。
《みそかの月 戌の刻・洋子宅》
「お義母さん、入ります。そろそろ、お休みの準備をしますね」
あれから二週間、洋子は、毎夜、幸代の部屋を訪れては、ろうそくを灯し、マッサージを続けていた。
「洋子さん、今日は、パジャマを着替えたいわ。身体も拭いてちょうだい」
「えっ、お義母さん? は、はい、わかりました。すぐに用意をしますね」
何度勧めても、なかなか風呂に入らず、パジャマを着替えなかった幸代の方から、珍しく着替えたいという言葉がでて、洋子は驚いた。
しかし、そうしてくれれば、このきつい異臭に悩まされることもなくなる。洋子は幸代の気が変わらぬ内にと、急いで支度をして、部屋に戻った。垢付いて黄ばんだパジャマを脱がし、熱目の湯を浸したタオルで、痩せた身体を拭いていくと、幸代は気持ちよさそうに目を閉じた。
「お義母さん、お風邪を召さないように、新しいパジャマをどうぞ」
そうして着替えさせたあと、今まで着ていた、よれよれのパジャマをゴミ袋に詰め込んだ。
「洋子さん、そのパジャマ、捨てないでね」
「え? でもお義母さん、これはもう」
「それは、武史が買ってくれたパジャマなのよ。わたしが入院したときに、あの子が、着心地がいいからって」
これを洗うのかと、内心うんざりしたが、今、機嫌を損ねるわけにもいかない。
「お義母さん、わかりました。これは、明日洗濯しておきますね」
そう言いながら、マッサージを始めると、幸代は、いともたやすく眠りについたようであった。洋子はそれを見届けると、部屋を片付け、そっと屋敷を抜け出した。
《みそかの月 戌の刻 その後・ 鬼灯堂》
「こんばんは」
「あら、洋子さん」
鬼灯堂の格子戸を開けると、作業場の入口の縁に腰掛けて、作業中の輝夜に話しかけていたらしい青炎こと加代が、驚いて立ち上がった。
「心配してたんやで。 その後、どうなったんかなと思うて」
「ええ、それが、あの」
輝夜は、黙々と作業を続けたままで、こちらを見る様子がない。前回会ったときの輝夜の冷たい態度を思い出し、ひるんだが、青炎の親身な言葉に勇気づけられ、やはり相談をすることにした。
「お姑さんは、どないなん? 何か変わったことはあったん?」
「それが、よくわからなくて。あれから二週間、毎晩、灯しているんですけど、なんだか、変なんです。最近よく寝るようになって、食欲も少し出てきたようで。今日なんかは、パジャマまで着替えると言い出して」
「それって、元気になってきてはるんやないの」
「ええ、でも、小言や愚痴が減って、妙におとなしいんです。以前は、何か少し気に入らない事があれば、ここぞとばかり文句を言って、突っかかってきていたんですが、このところは、一日中、気が抜けたみたいに、ぼんやりしているんです」
「わかった。それって、いよいよ毒が効いてきたせいやないの。ほら、神経毒ってあるやん。満腹中枢とか、なんかそんな神経系が麻痺してきて、食欲が狂いだしたんとちがうんかな。よく寝るようになったり、口数が少なくなってきたんも、弱ってきたからやと思うわ。そうなん違うの? 輝さん」
呼びかけられた輝夜は、ようやく顔を上げて洋子を見た。
「洋子さん。大丈夫です。心配なく、お続けなさい」
「はい、あ、でも」
「あっ、もう、そろそろお店出さなあかん時間やわ。輝さん、今夜の御代、ここに置いとくね。洋子さん、帰りはるんやったら、途中まで一緒に行かへん?」
「あ、はい、では、ご一緒に。鬼灯さん、それでは失礼します」
輝夜は、それにこたえるように無言で頭を下げると、また作業に取りかかった。
店を出ると、月のない夜を二人で歩き始めた。
「あの、青炎さん、鬼灯さんって、どんな方なんですか」
「輝さん? あの人は、ほんまに信用できる人やで」
「青炎さんの古くからのお知り合いなんですか?」
「わたしが輝さんに会ったのは、そう去年の今頃やったから、ちょうど一年くらいのお付き合いかな。一年前のわたしは、ほんまにもう、不幸のどん底やったんやけど、たまたま輝さんに出会って救われてん」
「救われた?」
「そうやで、そやから、輝さんの言わはることに間違いはないねん。洋子さんも、きっと救ってもらえるから、心配せんとき」
「ええ、でも、あのろうそくに、そんな力があるのでしょうか?」
「ある」
そう言うと、青炎は立ち止り、神妙な顔つきで洋子を向き直った。
「輝さんの作るろうそくは、そのへんで、普通に売ってるろうそくとは、違うねん。洋子さんさ、月読って、知ってる?」
「月読ですか。いいえ、知りません。それは何ですか?」
「なんでも、大昔からある技法でね。月の光の不思議な力を、物に封じ込めるという技があるんやて。それができるのは、月読という一派だけで、一族それぞれに、物は違うらしいんやけど、輝さんは、ろうそくに封じ込めるという、月読の蝋燭師やねん」
「なにか、おまじないみたいですね」
「そんな、子供だましみたいなもんとは、ちがうんやで。ちゃんと、効き目があるんよ。特別なろうそくやから、輝さんとこのお客さんは、古くからあるお寺とか神社とか、老舗の占い師さんたちやねん。一般の人相手の商売やないから、あんな人通りのない所でも続けてられるんよ。実際、わたしはそれに救われたし、今も、輝さんのろうそくを使って占いしてるから、百発百中当たるねん。まあ、わたしは恋占いが専門なんやけどね。その占いの仕方も、輝さんに教えてもろうてんよ」
「青炎さんは、どうして、わたしを鬼灯さんに、連れて行ってくれたのですか」
「そやなあ、洋子さんの必死さが伝わったからかな。どう見ても、悪い人には思えなかったし、よほど、切羽詰ってるんやなと、思うてん。それにね、占いしてて、恋占いの時以外は,『断るか、自分のところに連れて来なさい』と、輝さんから言われてるのもあるねんけどね。でも、やっぱり、紹介してよかったと思ってるんよ。話を聞けば洋子さん、わたしと、似てるわ。わたしも、バツイチで天涯孤独やねん。子供は一人いるんやけどね。生活に困って、夜の仕事もしたことあるし。そやから、身につまされたんよ。輝さんが引き受けた以上、悪いようには、しはらへんわ。信じてやってみいな。ほな、わたしはここで。お互いがんばろうな」
そう言って、洋子の背中を軽くはたいて、青炎はトンネルへと入って行った。
(まあ、やるだけやってみよう。今は、これしか頼るものはないんですもの)
洋子は、青炎の後ろ姿を見送ると、半信半疑のまま、家路についた。
《上限の月 戌の刻・洋子宅》
青炎や輝夜に会った満月の夜から、二十と二日が過ぎた。このところ、幸代の毒舌はまったく無くなり、むしろ遠い目をして、何かふさぎこむようになってきていた。
(いよいよなのかしら)
洋子はマッサージしながら、幸代の様子を伺っていた。
「洋子さん、マッサージはもういいわ。カーテンを開けてくれないかしら」
「えっ。あ、はい、お義母さん」
この部屋のカーテンを開けるのは、幸代が倒れて以来、一年ぶりのことだ。
「ああ、きれいな、お月様ねえ」
幸代は、上半身を起こしてベッドに座り、窓の外を見入っている。洋子もつられて覗いて見ると、西の空に上限の月が明るく輝いていた。
「ええ、ほんとに」
短くなったろうそくが、窓から差し込んできた、月の光に照らされたとたん、炎がひときわ大きく立ち上がり、揺らめいた。
「武史とこうして、一緒に月を見たことがあったかしら。いえ、きっと、無かったわね。私は、忙しく飛び回っていたから」
洋子は何と言っていいかわからず、黙ってそばに座っていた
「武史の父親は、あの子が七つの時に病で亡くなったの。私もまだ若かったから、親戚から再婚話が出たりもしたのだけれど、武史は、新しい父親ができるのを嫌がってね。私も、主人以外の人は考えられなかった。幸い資産はあるし、それで暮らしのほうは何とかなるから、一人でがんばろうと思ったの。
でも、私は世間体ばかり気にしすぎていたのよね。武史が、片親だからといって人に見下されないようにと、そればかり考えていたわ。あの子には毎日のように塾や習い事をさせたし、私自身はPTAだの婦人会だのと飛び回って、無駄に忙しくしていたの。武史のためと言いながら、自分が人に馬鹿にされまいと、そればかり考えていたのかもしれないわ。そばにいてやらなくちゃいけない時に、私はいてあげなかった。それでも、武史は淋しいとも言わず、私の期待に応えようと、健気にがんばってくれていたのよ」
(どうして急に、わたしにそんな話をするのかしら)
洋子は、怪訝に思いながらも、じっと聞き入っていた。
「でもね、いつの間にか、私は、武史の気持ちがわからなくなっていたの。気がつけば、あの子は私の手を離れていた。私は、武史の気持ちを取り戻そうとやっきになったわ。でも、もう、その時は遅かったの。武史の前に、貴女という人が現れていて」
「えっ、わたしですか?」
「私には、まったく甘えたことのない武史が、貴女にだけは、心底気を許して甘えている。その姿を見たとき、愚かにも私は、嫉妬してしまったの」
幸代は、洋子に向き直り、ベッドの上で居住まいをただした。
「洋子さん、今までひどいことばかり言って、ごめんなさいね。お金のことも。あの時は、ああでも言わないと、貴女がいなくなると思ってしまったの。私ね、入院していた時、お見舞いにきた人が、私のことを『今までえらそうにしていたのが、あんなになって哀れよね』と、陰口をたたいているのを聞いてしまったのよ。あれから私、今の自分を、人に見られるのが怖くなってしまったの。今まで、人からは妬まれたことはあっても、蔑まれたことなんて一度もなかった。だからもう、治らないなら死んだほうがいいと思ってしまったの。この部屋から一歩もでないで死んでやると。そのくせ、いざ一人になると、あなた方に見捨てられるんじゃないかと怖くて寂しくて。不安になると、ついつい時間もかまわず、あなた方を呼びつけてしまっていたわ。夜中でも、駆けつけてくれたあなたたちに、感謝するどころか、泣き言や嫌味ばかり言ってしまって。そんな歪んだ私に、愛想を尽かして武史は出て行ってしまった。私は息子にすら、捨てられてしまった。わかっていたけれど、そう思いたくなかった。それでその怒りや悲しみを、すべて貴女にぶつけてしまっていたのよ」
「お義母さん」
「それなのに、貴女はこんなにも献身的に、私に尽くしてくれて。貴女は、菩薩様のような人だわ。武史が貴女を選んだ理由、今は、痛いほどよくわかるの。武史が戻らないのは、私のせいなのよ。私のわがままで、あなた方まで不幸にしてしまうところだった。洋子さん、今までのことは、心からお詫びします。武史のことも、私がなんとか改心させますから、どうか、私たち親子に、もう一度やり直すチャンスを与えてやってくださいな」
そう言うと、幸代は、深々と頭を下げた。
「お母さん、そんな、いいんですよ。どうか、頭を上げてください」
洋子の鼻の奥が、つんとしたかと思うと、目に熱いものが込み上げてきた。
それらは、洋子の心の奥底に溜まった澱を、たちまちのうちに消し去っていった。
洋子は、幸代の丸い背中を、優しくなでて慰めた。
しかし、次の瞬間、はっと思い出した。
(あっ、ろうそく)
見ると、短くなったろうそくは、最後の大きな揺らめきを見せたかと思うと、ふっと消えた。
(いけない。毒、毒をなんとかしなければ)
「お義母さん、ろうそくが無くなってしまいました。急いで買ってきますね」
(変に思われてもいい 。とにかく早く、早く、なんとかしなくちゃ)
洋子は、取るものもとりあえず、家を飛び出した。
《上限の月 亥の刻・鬼灯堂》
ガタン!
「助けて。お願いです。助けてください」
よもや、砕けんばかりの勢いで、店の格子戸を開けて飛び込んだ洋子は、とにもかくにも大声で叫んだ。履いていたはずの、つっかけ草履が脱げ、靴下は真っ黒に汚れていたが、それにすら気づいていなかった。
「どうされました」
奥の間から、ゆるりと、輝夜が出てくるのが見えた。
「お義母さん、お義母さんを、助けてください」
「洋子さん、落ち着いてください。お義母さんが、どうかされたのですか?」
「わたしが、わたしが、間違っていたんです。お義母さんを殺そうなんて、恐ろしいことを考えて。もう二十日も、あのろうそくを灯しているんです。解毒剤、あの毒を消す解毒剤はありませんか?」
「解毒剤? ああ、あれには、毒など入っていませんよ」
必死の形相で問いかける洋子に、輝夜は、場違いなほど呑気に答えた。
「えっ、でも」
「あのろうそくには、気持ちの安らぐ野草を練り込んでいるだけです。アロマキャンドルと同じですよ」
「じゃあ、どうして、急にお義母さんは変わられたのですか? 青炎さんは、輝夜さんの作るろうそくは特別だから、効き目があるって」
「お義母さんが、変わられたとしたら、それはあなた御自身の力ですよ。あなたが、本心はどうあれ、誠心誠意尽くされたことが、お義母さんの頑なな気持ちを解かしたのです。そしてまた、お義母さんの気持ちが、あなたを正気に戻した。それだけのことですよ」
「じゃあ、じゃあ、お義母さんは、死なないのですか?」
「もちろんですよ。あの、ろうそくではね」
それを聞いたとたん、洋子はへなへなと腰が抜け、縁にへたり込んでしまった。
「ああ、ああ、良かった」
「大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとうございます。もう大丈夫です」
洋子が立ち上がると、輝夜が下駄箱から取り出した履物をそろえて、前に置いた。
「こんな、男物しかありませんが、よかったら」
「まあ、すみません。わたしったら」
赤面する洋子に、輝夜は、小さな紙包みを差し出した。
「それから、これをお持ちなさい」
「これは?」
輝夜は、紙包みの中の、まん丸いボール型のろうそくを見せてくれた。
「水に浮くろうそくです。あのろうそくと同じ、気持ちの安らぐ野草が入っています。これなら眠ってしまっても、安全に使えますから、あなたもこれで、ぐっすりおやすみなさい」
「ありがとうございます。なんと、お礼を申し上げたらいいのか」
「洋子さん、まだですよ。満月まであと九日。その日こそが、あなたの満願成就の日ですから」
「はい」
洋子は、輝夜に深々とお辞儀をすると、家路に急いだ。
《満月 二度目の十五夜 戌の刻・ 洋子宅》
「お義母さん、お茶が入りました。今日はデザートに、無花果のケーキを焼いてみたんですよ」
「あら、洋子さん、ありがとう。どれどれ、うーん、これは、とっても美味しいわ。貴女は、本当にお料理上手ねえ。私の奥さんにしたいぐらいだわ」
「まあ、お義母さんたら」
「おほほほ」
「うふふふふ」
二人のなごやかな笑い声が、部屋中に満ちた時、リビングのドアが突然、開いた。
「な、なんだ、これはいったい、どうしたんだ ?」
「あら、武史」
「武史さんですって?」
洋子が振り向くと、そこには、久しぶりに見る武史が、目を丸くして驚いていた。
「武史、ほら見て。私は、こんなに元気になったのよ」
昔のように、きちんと身支度をした母親が、車椅子に背筋を伸ばして座っているのを見て、武史はまるで信じられないものを見たかのように、唖然としていた。
「今週から、リハビリを始めたの。頑張れば、また歩けるようになるって、先生から太鼓判もいただいたのよ、ねえ、洋子さん」
「そうですよ、お義母さん、あんなに、頑張ってらっしゃるんですもの。御回復は、きっと、お早いですわ」
「母さん、洋子」
「武史、これもみんな、洋子さんのお陰なのよ。どれだけ、洋子さんが尽くしてくれたか、感謝してもしきれないわ」
「まあ、お義母さん、そんな」
「そうか、そうだったのか」
突然、武史が、洋子に頭を下げた。
「洋子、すまん。夕べ、また母さんから、帰ってこいという電話があったんだ。またかと思って聞いていたんだが、母さんの声が、いつもとちがって明るかったんで、何か気になって見に来たんだよ。そうか、お義母さん、本当に良かった。洋子、何もかも、お前ひとりに押し付けて、俺が悪かった。母さんを、こんなに大事にしてくれて、ありがとうな」
男泣きに泣きながら謝る武史に、洋子は胸を打たれた。
「武史さん」
洋子も、鼻の奥がつんとなり、目がしらに熱いものが浮かんできた。
「洋子、母さん、俺、ここに帰ってきてもいいかな」
「武史さん、当たり前ですわ。ここは、武史さんの家じゃありませんか、ねえ、お義母さん」
「そうだよ、武史、洋子さんも、こう言ってくれているんだから、このままここに居ておくれ」
手に手を取って、うれし泣きしている家族の様子に当てられてか、クリスタルグラスに浮かべられた蝋燭が、うれしそうに、ゆらゆらと揺れていた。
《寝待ち月 戌の刻・鬼灯堂》
「こんばんは」
鬼灯堂の格子戸を開けると、青炎が、来ていた。
「あらあ、洋子さん、いらっしゃい。その晴れ晴れとした顔は、満願成就しはったんやね」
「はい、青炎さん。この度は、本当にありがとうございました。無事、願いが叶いましたので、今日はお礼に伺ったんですよ。この時間なら、青炎さんもいらしてると思ったので」
「ほんなら、お姑さんは、そうかあ、ご愁傷様でした」
拝むように手を合わせる青炎に、洋子はあわてた。
「ええっ、違うんです、青炎さん。義母は、生きています。むしろ、すごく元気になって、私にも、とても優しくしてくれるんですよ。それを見て、夫も帰ってきてくれたのです」
「えっ、ほんま? 旦那さん、帰って来はったん。それは、良かったねえ」
「はい、元気になった義母の姿を、とても喜んでくれて。『これも、すべてお前のお陰だ。今までのことは謝る。もう一度、やり直させてくれ』と頭を下げてくれて」
「そんで、向うの女の人とは、トラブル無く?」
「はい、わたしには、はっきり言いませんが、どうやらお金で済む方だったようです。夫との仲も、最近では冷めていたところだったようで、意外にすんなりでした」
「洋子さん、優しいなあ。これまでのこと、そない、あっさり許しはるんやね。わたしやったら、ぎゅうぎゅう言わせたあげくに、罰としてダイヤの指輪の一つでも買わせたるのになあ」
「これ、加代さん」
輝夜に、たしなめられ、加代はペロリと舌を出した。
「はい、わたしとて、一度は鬼になりました。義母を殺そうとまでしたのです。わたしの罪に比べたら、浮気されたぐらいが何だと思えるんです。今までわたしは、自分が幸せになることばかり考えていました。義母や夫のつらい気持ちを、まったく思いやってあげていなかった。だから、夫も居場所を無くしていたんだと、それに気づいたんです。これからは、わたし、強くなります。何があっても、どんと構えて受け止められるように」
「すごいなあ、洋子さん。かっこええで」
「はい、青炎さん。ありがとうございます。それから、鬼灯さん、遅くなりましたが、これをどうぞ、お受け取りください」
洋子は用意してきた菓子折りと、謝礼の入った封筒を、輝夜に差し出した。輝夜は、それらを有り難く受け取ると、入れ代わりに、見事な柘榴の花の絵付けをしたろうそくを並べた化粧箱を洋子に渡した。
「これは、子授けのろうそくです。 火を付けずともよいので、寝室に飾ってください」
「まあ、きれい。ありがとうございます」
「これで来年は、洋子さんもお母ちゃんになれるわ。それでこそ、ほんまの満願成就やね」
青炎の言葉を聞いて、洋子はふと、気になっていたことを尋ねてみた。
「鬼灯さんは、初めから、こうなるとわかっていらっしゃったのですか?」
「ええ、まあ、古今東西、昔話の『毒の粉』ですから」
洋子は、その話を知らなかったが、初めて笑顔を見せた輝夜の顔に見とれてしまい、どんな話なのかは聞きそびれてしまった。
改めてもう一度、二人に礼を言い、店を出た洋子を、寝待ち月が照らしていた。
「ああ、なんて、きれいなお月様なんでしょう。ここで一句。『子宝の柘榴を持ちて 寝待月 きみの元へと われ急ぐなり』なあんてね。さあ、うちに帰ろ」
月も、かすかに笑ったようであった。
第一夜 完