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リス・ジェラルドに会いにいく

 奴隷となって七年間の人生で、僕は初めて空の感触を体に感じた。風や空気や仄白い太陽の光は僕の心に存在するはずの恐怖感や緊張感を無理矢理に外へ押し出した。

 彼女に握られている手首は相変わらず僕の重さを暗示し続ける。それは彼女自身が感じている重さで、つまり僕の奴隷としての重さと言ってもよかった。


 彼女は僕を殺すと言った。このまま互いが手を離せば間違い無く僕は死んでしまう。しかし、彼女も僕も手を離そうなんてちっとも思ってはいない。

 彼女が言って、僕が受け入れた「殺す」という言葉、それは誰かに突つかれても簡単には形を変えない柔軟で懐の深い概念だった。ヤヌザイが聞いたら首を捻って顔をしかめるような不潔な言葉遊びだ。だが、捏ね繰り回した不潔な言葉だからこそ、簡単には揺るがないより普遍的な概念になったのだろう。そう思うと僕は僕だけの魔法、デミでは無い僕が唯一使役できる天啓を得られた気分になった。奴隷の教義に凝り固まった頭も、得た天啓へと自然に収束していく。

 同時に今までの僕の矛盾を眼前に突きつけられるような白々しい心地もあった。望まないことを面の皮に貼り付けておきながら、その実僕は色々なことを望んでいた。風を使役するヘイグのように空を自由に飛ぶことを望んでいた、ヤヌザイのような清潔さを望んでいた。それなのになぜだろう、自分の中で反発し合っていた羨望と諦めの感情が今はやけに気持ち良く感じる。


 僕は、僕は彼女に殺されたい。それは間違いなく僕自身が望んでいることだ。僕にしがみついている奴隷の僕は、このまま力尽きて地へ叩きつけられるのだろう、そんな予感を腹の中に感じる。臓物がすべて心臓に纏わりつくような、ふわふわと、しかし針で刺すような痛みも時折感じた。


「ハンス。 ねえ、ハンス? あなた本当は生きていたいと思っていない?」


「そんなことはないさ。 すごく気分がいいんだ」


「それは…… つまりこのまま地面に落としてもいいってことかしら?」


 僕は首をもたげて彼女の表情を伺った。まるで悠々と散歩でもしているかのような余裕が見て取れる。それはとどのつまり、例に漏れず良くないことが起きようとしている。


「おい! 馬鹿言っちゃあいけないぞ! 生かす殺すは僕の体のことじゃあないんだよ! わからないか!?」


「ええ、わかっているわ。 念のためなのよ。 どういう意味かわかるでしょ? あなた気付いていた? 今地面に向かって落ちていってるのよ? 胸やお腹がふわふわしているでしょ? ねえ、わかるでしょ?」


「まだ何十秒も飛んでいないぞ! 疲れたとは言わせないぞ、ちくしょう!」


「背中が重いのよ、羽の付け根がコチコチになっているのよ。 休憩しないとダメよ、もう十秒と飛べないのよ」


「随分と余裕な顔で言うじゃあないか!」


「状態をその通りに表すのは嫌いなの。 なんだか操り人形みたいじゃなの」


「とにかく頑張るんだよ! 進路を少し北に変えるんだ!」


「ヤヌザイのところにいかないとダメよ。 それに北ってどっちよ」


「北は右だよ! あの背の高い木の方へ飛ぶんだ!」


 僕は一際背の高いバンネン樹を指した。他の高木よりも頭一つどころか二つも三つも飛び抜けている巨木。それは大巨人が扱う槍のように天を串刺しにしている。


「大きい木ね、ハンス。 でもダメだわ、あんなに先が細こい木じゃ休憩出来ないわ」


「大丈夫だよ、行けばわかるさ!」


 彼女は返事の代わりに僕を掴んでいる手に力を込めた。やはりまだ僕の重さは僕の中にあったが、彼女はそんなものなんて感じ無いみたいに無感動を続けている。

 黒く大きい羽を力強く羽撃かせながら瞬く間に上昇していく。地上に投影されていた僕たちの影がどんどん小さくなった。あの影は奴隷の僕だ。質量の無いまやかしの存在だ。今日まで僕の後ろを歩き、時に先導するように前を歩き、隣に並んで歩んだ憎め無い奴だ。「僕は新しい影を見つけるから君も新しい体を見つけなよ」と、僕は小さくなっていく影にだけ聴こえる声で呟いた。


 濃緑の針葉は黒々とした樹皮を覆うほど茂り、おまけに植物が持つ質感とは思えないほど硬く鋭利である。ところどころに若い笠が実り、これらは空気が乾燥し始める季節から雪が降る季節にかけて落屑する。

 バンネン樹の笠は火が着きやすく脆かった。落屑すると地上に落ちるまでに空気抵抗で燃え尽きてしまう。バンネン樹の種子は笠が燃え尽きる時に発生する煙と共に空に昇り、雲の中にある水滴の粒に付着し、その後雨や雪と共に地上に降る。


 そうやって広く分布を広げていくバンネン樹であるが、この山にあるほど巨大なものはそうそう見当たらない。バンネン樹特異の性質として、種子が雨粒の核となり、地上に降った瞬間に若木が発芽してしまう。その後たったの数年で大巨人の盾のような歪に盛り上がった層が出来る。とりわけ火山活動によって出来た岩の山のようである。山の麓からも見える、空に向かって高く真っすぐ聳える針葉樹の足元には、台座のような広葉樹の層が存在した。バンネン樹の樹下層は非常に硬く建築資材として重用されている。そのためハンターが定期的に山へ入り、発芽したバンネン樹をチェックしている。彼らは資材として使える頃合いを見計らって抜群の時期に根元から掘り返して資材屋に売ってしまうのだ。


 バンネン樹は高レートで取引されるため、乱獲も後を絶えない。広葉樹の層に実る果実には種子が無く、繁殖は上層の針葉樹に実る笠に完全依存している。バンネン樹の広葉層は上層の針葉樹が息吹始めると人の力では加工出来ないほど高質化するため、ハンターは繁殖活動を始める前に彼らを殺してしまう。それと同時にエネルギーをふんだんに蓄える、言わば自然の食糧庫のようなものでもあり、寄生植物の餌食になりやすくその絶対数は増えにくい。


 この山はヤヌザイが使役し、管理しているのでハンターが入ることはない。それにバンネン樹を警備する軍隊リスが異常なほど強く有能だった。見た目や性質はただの樹上リスと変わらない、変わりはしないが彼らが軍隊リスと呼称される理由にはリス・ジェラルドの存在がある。

 驚くべき統率力を有するリス・ジェラルドは群れを従えてバンネン樹や他の巨大樹に基地を造る。実った木の実や果実を分けてもらう代わりに、彼らはハンターや寄生植物から木を守るのだ。

 この山ではそうそうあることでは無いが、世界各地ではリス・ジェラルド率いる軍隊と木を狙うハンターが、激しい戦いを繰り広げているとヤヌザイが話していた。


「それじゃあ、あの木で休むのは危険なんじゃないのかしら?」彼女は顔色を変えずに言う。


「大丈夫だよ、うるさくしなきゃあいいんだ。 それにリス・ジェラルドは僕に借りがあるんだ。 今日はその借りを回収しておくよ」


「動物に貸しをつくるなんてバカなヒトよ。 リスがそんなの覚えているわけないじゃないの。 頭なんて石ころみたいに小さいのよ?」


「彼は動物だけど馬鹿じゃないよ。 僕の顔だって絶対に忘れたりなんかしないし、借りも忘れないよ」


「ハンス、あなたはリスにどんな貸しをつくったのよ?」


「彼の部下が植物に捕まっているところを助けたんだ。 ギザギザの口で噛みついて離さないやつだよ」


「そんなことで貸しをつくったと言えるの?」


「異種族から見ればそう思うだろうけど、同族間では等しく命は重いだろう? リス・ジェラルドからすれば僕らの命はそう重く無いのだろうけど、彼の部下を助けた重みは、そのまま僕らを助ける理由になるはずさ」


「違うのよ、ハンス。 あたしが言っているのは、そこまで頭を回すリスが本当に居るの?ってお話なのよ」


「リス・ジェラルドを下に見たら後悔するぞ、礼儀と言うものが大事なんだ」


 彼女は「そう」とだけ言って、着陸の準備に入った。体を段々と起こしていき、正面から風を受け止めるように黒くて大きい羽を広げた。表情には疲れも安堵の色も無かったが、僕が思っている以上に疲労は溜まっているようだった。務めて無感動を装う表情がそれを物語っている。


「降りるわよ?」と彼女は言う。僕は「うん」と返事をした。


 わずか数分の空の旅は、確かに僕の中と外の世界の在り方や、世界との付き合い方を変えてしまった。心がとてもすがすがしく、胸に広がるのは今朝に見た広大な草原の景色だった。

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