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ハンスと女の子の逃避的半里行

 風が流れていく音が耳の裏側に溜まり、黒革のブーツで蹴った小石は、チチチと鳴りながら四方に散った。 滝の音が近くなった。歪な形の変成岩が地中から突き出し、林立する樹木の間に屹立している。

 地面は横に揺れ、縦に震動する。イバラはヘビのように地を這い、木ヅタや植物のツルは鞭のように撓りながら鋭く空気を切った。


「なあ! どこに行くつもりだ!」


 後ろを振り向いたり、流れる景色も、揺れる地面や迫る植物たちにも気を払う余裕なんて無く、滑るように地を駆けている彼女の背中を追っていた。


「どこへも行かないわ。 ただ走るのよ」


「バカ言うなよ! 人には疲れってもんがあるんだぞ! 知らないとは言わせないぞ!」


「バカなんて走る女の子を追いかけながら言うセリフじゃないわよ、ハンス。 優しい言葉で言うのよ、男の子なのだから」


 そう言って後ろを振り返った彼女の顔は、筋肉が緩んだみたいに表情がなかった。元々焦りや恐怖の感情を持って産まれて来なかったと言われても、今ならそれをすんなりと受け入れてしまえそうだ。


「バカじゃ無かったらなんだって言うんだ? トンチキか? ウスノロか?」


「いずれも適切ではないわ。 そうね。 うわあ、とか叫びながら追いかけるのが妥当かしら」


「きみも状況を分かってるんじゃないか! 軽口を叩くなよ!」


「細かい人ね。 なんだか芝居がかっているわよ、あなた」


 彼女との会話は僕の心臓の鼓動を早める。それでも苦しさは感じさせず、まるで感覚や神経が鈍麻したみたいに、僕の体は痺れの中に落ちていく。

 轟々と落ちる滝の飛沫を肌に感じ、彼女は額の汗を拭いながら、ひと心地ついたと言いたそうに肩をすくめた。

 僕は膝に手をついて深く呼吸をする。不思議と呼吸の乱れは無く、ただある種の決まり事のように息を整えるフリを続けた。その代りに彼女の言葉に掌握された僕のカラダは、胸や息の苦しさという当たり前のセオリーを越えて、足や肩の筋肉を岩のように硬く重くしていた。


「ひとまずは大丈夫そうね。 ここへ来た途端に植物たちも追って来なくなったわ」


「追って来れないんだよ、ここは木ヅタやツルの射程外なんだろうなあ。 でも安心するのはまだ早いぞ。 こうなったらなにが起こっても不思議じゃあないからな」


「では、どうするの?」


「おい! 僕に聞くなよ! きみはあれだ、考え方が一直線過ぎるんだよ」


「どうして?」彼女は首を回して、キョロリと辺りを見渡した。


「逃げてる途中に考えないか? 次はどうしようとか、どこに逃げようとか。 きみの場合は逃げようと思ったら逃げることしかしないんだよ」


「その方がわかりやすくて好きよ。 ねちゃごちゃ考えてても仕方がないもの」


 そう言ってから滝壷の方へ歩いて行き、足下を注意深く熟視した。その場でしゃがみ込んで、膝を突く位置を目算するように何度か頷くと、転がっている小石を乱暴に払った。


「ねちゃごちゃじゃないよ。 鳥を捕ったら焼いて食べるだろ、きみはその焼くってのも羽を剥ぐのも血を抜く行為もわざわざ省略して食べようとしているんだよ。 そんなの畜生と同じじゃないか」


 彼女は水の中に両腕を浸けたあと、左手を高く上げて目を細めた。唇をぶるぶると震わせると、背中の羽が滑らかに動いた。


「ねちゃごちゃねちゃごちゃと言わないでちょうだいよ、ハンス。 あたし、うるさい人は嫌いなのよ。 あなたがそれ以上ねちゃごちゃと言ったらもう助けてあげないのよ」


「なんだって!? 僕がいつきみに助けられたってんだ! 僕は助けられてなんかいないぞ! 僕がきみを助けたんじゃないか! 二回だぞ! 二回も助けたんだ!」


「細かい人よ、あなた。 そのうち一日の歩数を一歩の狂いも無く数え出すんじゃないのかしら」


「きみは僕を怒らせたいのか!?」


 彼女は左手首を水の中に浸け、右手で擦った。反対も同じように擦ったあと、宙にかざした。手首についた水の膜が粒になって彼女の二の腕を伝い、短い袖の中に消えていった。


「それが正解なの?」


 彼女は向き直り、僕の目の奥を真っ直ぐ見つめる。手を行儀よく膝の上で揃え、時々親指で人差し指の爪を弾いた。


「それはどういう意味さ?」


「皮肉への反応はそれが正解なの?」


 僕が「ふん!」と鼻を鳴らすと、彼女は首を傾げた。素早い瞬きを数回繰り返したあと、手首を宙にかざした。滝壷の水を手ですくって左手首にそれをかける。何かを考えるように右の頬を膨らませて、また滝壷の中に両腕を浸けた。


「きみはさっきから何をしているのさ?」


「手首に赤いブツブツができているのよ。 気味が悪いわ……」


 彼女は僕に背を向けたまま、ひとり言のように呟き、それは水が流れるように直瀑の音と共に滝壷の中に沈んでいった。


「髭ツルの棘のせいでかぶれたんだよ」


「詳しいのね」


「ヤヌザイが教えてくれるんだ」


「あなたは勉強が好きなの?」


 彼女は黒革のブーツを脱いで水の中に足を浸けた。足の指をギュッと閉じたあと、ゆっくりと開いていく。その動作にはネコ科動物の伸びのような気怠さがあった。

 僕は彼女の直ぐ隣に座って、水の中でつやつやと光っている向こう脛を観察した。


「好きじゃないよ。 ヤヌザイが喋ったことを覚えただけさ。 僕の意志とは関係なくね、そういう知識みたいなものが勝手に僕の心臓に貼りついていくんだ」


 彼女は「ふうん」と鼻を鳴らし、「知識欲とかいうのが欠けているのね」と付け加える。その後にぎこちない動作で尻を浮かせて右足を高く上げた。足の指にはパープルの小石を挟んでいる。それを右手の指で摘まみ、太陽の光で透かした。


「知識なんて必要ないよ。 あんなのはひけらかすためだけに存在するんだ」


「どうして?」


「僕がそう思うからだ」


「あなたが思ったすべてが理になるなんてことはないわよ、ハンス。 あなたもあたしも自然の一部なの、そうでしょ?」


「当たり前なことを言うなよ。 きみが何を言おうが僕はそんな言葉には騙されないぞ」


「あたしがあなたを騙すなんて、そんなことをするつもりはないわ。 何に怯えているの?」


 パープルの小石を後方に放り投げた彼女は首を後ろに大きく反らしながら小石の行く先を目で追った。

 僕も同じように小石の行方を追ったのだけれど、地面に着地する瞬間に、小石の存在がこの世から損なわれたように突然消えて無くなる。僕の意識の中に残ったのはカチャリという乾いた音だった。


「ねえ、ハンス。 あなたは何者なの?」


「僕は奴隷だよ、同時に奴隷も僕を切り離すことは出来ない」


「どうして?」


「望まないこと、よく働くこと。 これが奴隷のあり方だからだよ」


「その通りに生きる必要はないのよ」


 僕は「あるよ」と短く返事をした。鳩尾が震えて鼓動が早くなった。全身が鉄のように重くなった。


「では、あなたは木こりに産まれたら木こりの仕事をしていたの?」


「そうだよ」と僕は言った。


「僕が木こりに産まれていたら斧で木を切っていただろうし、僕が蜘蛛に産まれていたら大きな巣を張って、獲物がかかるのを我慢強く待っていただろう。 それが自然の理だ」


「違うわ、ハンス。 あなたは言葉に騙されているのよ。 言葉なんてわかりやすくて便利よ、辻褄が合えば言い訳にだって使えるわ。 でもそれは誰かに突つかれれば弾けて消えるような危ういものよ。 ハンス、もっと自然に耳を貸して。 そうしないとあなたも畜生と同じよ」


 彼女は僕の目の奥を覗く。今までと違っていたのは、彼女は直ぐに僕から目を反らしたことだった。


「僕が言葉を捏ね繰り回して言い訳をしているって言うのか?」


 彼女は何も言わなかった。その代わりに黒い羽を優雅に羽ばたかせた。


 僕は言葉を続ける。「僕は産まれてから九歳までの記憶が無いんだ。 だから奴隷であることが産まれ変わって初めての僕なんだ。 僕が何者であるかなんてわかりっこないから、言葉を繋いで穴を埋めるしかないんだ。 もう、止してくれよ。 僕は木こりにもなれないし蜘蛛にもなれないんだ」


 静寂があった。静寂の後に続くのは甲高い動物の鳴き声だった。木の葉がそよぎ、直瀑の飛沫を風が攫っていった。

 彼女は耳に神経を集中させるように目を閉じた。それほど長い時間ではない。深い沈黙のあとに黒い羽を力強く羽撃たかせる。


 樹木の枝や幹を飛び跳ねながらこちらに向かってくる幾つかの影は、突風のように距離を詰めてくる。黒かった輪郭が薄ぼんやりと明るくなる。四又で駆ける小さいヒヒの群れは速度を落とすことなく突進してくる。それと同時に僕の頭上に影が迫った。空を仰ぎ見る。僕の体は上から落ちてきた黒い影の塊とぶつかった。


 僕はそのまま仰向けに倒れ「キーキー」と喚く赤い目のヒヒに体を抑えつけられる。ヒヒの背後で白い鱗の蛇が紫色の舌を出して僕を睨んでいる。ヒヒが大声で鳴いた瞬間、白い鱗の蛇が僕の喉元に向かって矢のように飛んで来る。


「ヤメロこの! 離せよ、このサル野郎!」


 僕は咄嗟に左腕を出してヒヒの攻撃を防いだ。腕に噛みついている白い鱗の蛇は、裂けそうなほど口を大きく開けている。胸や頬に赤い雫が滴り落ちる。


「ハンス! 手を伸ばして!」


 ヒヒは怒声のような低い声をあげる。白い鱗の蛇は身体を波のように捩り、僕の腕の肉を噛み千切ろうとしているようだ。

 僕は手を一杯まで伸ばす。右の掌は黄色に燃える太陽の姿を隠した。


「いくわよハンス!」


 彼女の声と共に僕の体は重力から解放されたように軽くなった。しかし、右の手首には確かに僕の重みがある。


「飛んでいるのか?」


 彼女はつまらなそうな顔で「ええ」と返事をする。


 遠くなった地面でヒヒの群れが走り周り、時々なにか喚きながらジャンプをした。


「このお尻から蛇が生えたサルは食べられるのかしら?」


 僕は「食べられないよ」と言った。


 彼女は心の底から思っている風に「残念ね」と呟き、ヒヒの蛇尾を持って、クルクルと何度か回したあとに投げ捨ててしまった。ヒヒは泳ぐように手足を動かしながら落ちていく。


「ねえ、ハンス。 あたしがあなたを殺してあげるわよ」


 彼女は心の底から思っていなさそうに言った。


 僕はそれに「ありがとう」と答えた。

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