すこし早すぎる再開
不確かな足下と肩に担いだ樽は無感動な奴隷にとっての確かな生の実感であり、額から汗の粒が滴る度に脳裏に迫るのは、やはり奴隷の教義だけだった。
空からワイバーンに乗った女の子が落ちてきたことで僕の奴隷の教義は一度靄の中に消えた。教義は僕にとって頭と同じ意味を持っていながら、それを容易く塗り潰してしまうほど、衝撃的な出来事だった。
「無理もない」と呟き、「頭は意識しなくても動くんだ」と独りごち、それでも溜飲は下がること無く上がり続ける。次々と溢れる言葉をひとつずつ飲み込みながら、どれもこれもまるで言い訳じゃないか、と心で考えると、直ぐに頭の中から「彼女に飲まれはしなかったから問題ないよ」と声が出る。
巨大な羊歯は渦を巻き、奇数羽状の葉の先端に黄色い分泌液の玉が乗っている。地面から隆起した木の根を避けながら、肩や顔を掠める木の葉に悪態を吐く。
木目の模様を食べ物や動物に例えながら、悪路をゆっくりと歩き、時々立ち止まって辺りを見回して、またゆっくりと歩き出す。単調に歩き続けると自分の体に染みついた歩調に段々と重なって行く。立ち止まることで辻褄を合わせ、樽を下ろさないことで教義との辻褄を合わせる。
無駄な時間だ、と思いながらも、今の僕にはその無駄な時間こそが取り留めの無い日常に戻るための大事な時間だった。先を歩いているはずの黒い羽の女の子とは、もう顔を合わせたくなかった。普段なら気にしないことにも過敏になって、頭が上手く動かなかった。心の中に浮かんだ言葉がくっきりと輪郭を持って僕の頭の中に迫ってくる。曖昧に動かしている足も純粋な教義から来るものでは無く、揺らぐ教義の形状を僕の心が補正し続けているからだ。その事実が更に僕の頭を歪な形に変えて、また僕の心は粘土を捏ねるみたいに教義をあるべき姿へ取り繕う。それらは無限に作用し合う半永久機関。「自分のションベンを飲み続ければ水なんていらないな」なんて言う、ヘイグの馬鹿話を思い出した。僕はその時「汗や何やかやが分泌されるから少しずつ状況は変わるんだ」と言った記憶がある。過去の僕が言った言葉は奴隷の教義にはまったく当てはまらない、そう思ったのもやはり僕の心だった。
滝の音が遠くなり、木枯らしが吹いて、木の枝から木の実が落ち、足下の砂粒がさらさらと動き、時間を暗示するように山の風景は視界の端から後方へ流れていった。幾許かの時間は目に見えない速度で過ぎていき、僕だけがそこに取り残されたように漫然と教義教義と自分の世界にしがみついている。
いつのまにか太陽は真上にいた。葉の隙間から光が射し、ズタズタに千切れた太陽光はやけに痛々しくあった。その逆に虫食い穴のような影は地面に冷たく落ち、生き生きとしていた。その中でも一際大きく黒い影は、まるで僕を誘うように揺れている。
「ハンス。 ねえ、ハンス」
僕の頭の上で女の子が浮いている。浮いてはいるが、浮こうと思って浮いているわけでは無さそうだ。彼女の意思や黒い羽は関係無く、高木の幹に絡みついた木ヅタや半寄生ヤドリギの若いツル、細い紐状の巻き髭ヅル、木質化したイバラ、凝固した血液と同じ色をしている多肉全寄生植物の長く細く伸びた雄しべ、それらが彼女の手足を拘束している。
「なにを…… しているんだ? きみは?」
「ハンモックで昼寝をしているように見えるのかしら? 見ようによってはそうね。 少なくとも彼らと戯れているようには見えるかもね。 そうおもわない?」
「ああ…… そうかもしれない。 真上から見たり逆立ちしながら見たり、人差し指と親指でつくった輪っかから覗いて見たりすれば…… 或いはそう見えるかもしれない」
「イヤだわ、ハンス。 皮肉なのね? だってそうよ、わざわざそうやってモノを見る人なんていないもの。 イヤな人よ、あなた」
ツタやツルが巻き付いた手足をキリキリと動かしながら言う。言い終わって細めた目や膨らませた頬に鑑みて大きく手足を動かしたかったのだろうと思った。
「皮肉に気付かないフリをするのがルールだろ。 きみの反則負けだ」
「あたしは勝負なんてしていないわ」そう言いながら、やはり手足をキリキリと動かした。
「どうにかして欲しいのよ、ハンス。 彼らに掴まれているところがなんだか痒いのよ」
巻き髭のツルには茶色の細かい産毛が生えており、さらに産毛の中程にはバーブと呼ばれる返しがついている。毒性はないが場合によっては皮膚が炎症を起こしたりする。
「ちょっと待っててくれよ。 ツルはナイフで断てるけど、ツタは石で叩き潰すしかないよ。 ヤヌザイを呼んできた方が早いな」
「今すぐ助けて欲しいの。 この紐のついた虫がすごい気味が悪いのよ。 お願いよ、ハンス」
彼女が紐のついた虫と呼んだのは多肉の全寄生植物の雄しべだ。ハンミョウのような甲虫によく似ている。触覚もあり、ハサミのような口もあり、足もちゃんと六本生えている。甲殻の下には黄色い筋が入ったスケルトンの羽もある。雄しべは本物の虫のように羽音を鳴らして飛ぶ。ネズミのような小動物に喰らいつき、口から出る分泌液は動物の運動抑制の働きを混乱させ、筋弛緩や痙攣を引き起こす。土壌から吸い上げた外毒素を多肉の花弁に内包した溶解水と結合させるため、分泌液が枯れることは無く、一度喰らいつけば、その行為は対象が死に至るまで継続される。
おそらく彼女も例外では無く、このまま放っておけばやがて命は終わるだろう。
「わかったよ。 少し待ってろよ、それでいいかい?」
彼女はおもねる様子もなく「ええ」と短く返事をする。
僕は樽をその場に置き、彼女との衝撃的な出会いの余韻が残る滝の方へ駆けた。
滝の近くで手頃な石を拾って再び元の場所に戻って来ると、樽の中に入れておいたプランタ水ウサギが多肉全寄生植物の雄しべに喰われていた。僕はプランタ水ウサギを卵と交換するつもりでいたのだけれど、別段に残念とは思わなかった。
高木に巻き付いた木ヅタを石で叩き潰すと、宙に浮いている彼女の体がグラっと揺れた。石を力一杯振り下ろすたびに額と背中から汗が噴き出した。僕の挙動に合わせて汗の粒が皮膚を伝い、流れる汗粒はまた別の汗粒を巻き込み、刻々と肥大しながら流れていく。
木ヅタを全て叩き潰すと、幾分か彼女の手足は可動域を広げたようだった。
「君はその…… 空は飛べるのかい?」
僕は彼女の足に巻き付いたツルをナイフで切った。
「なんでそんなことを聞くの?」
「なんでって、きみの両手に巻き付いたツルを同時に切れないからだよ。 片方だけ切ったら、きみの体は振り子みたいに横へ飛んでくよ」
「そうね、大丈夫よハンス。 切ってちょうだい」
「飛べないのならツルに少しずつ切り込みを入れていけば、もしかしたらきみは振り子にならずにすむかも」
「安心してハンス。 問題ないわ」
僕はナイフの切先をズボンで拭いた。「切るよ?」
ようやく体が自由になるというのに、それについて特別な感慨も無さそうな声で「ええ」と返事をする。
僕はツルにナイフを当てて、ゆっくりと引いた。
彼女の重みに充てられたツルは、ヂヂっと音を発てながら勢いよく裂けた。
その直後、肉を強く打ち付けたような鈍い音が鳴る。
「あイタ!」
彼女は高木の幹に激突したようだ。自由になった右手で顔を押さえながら、喉から唸り声を出している。左腕は尚もツルに捕らえられている。彼女の体は幹の側面で数回跳ねて、やがて止まった。
「きみ! 飛べるんじゃないのか!?」
「鼻をぶつけたわ、ハンス。 血が出てる、あたしの鼻から血が出ているわ!」
「きみが飛べるって言ったから、僕はツルを切ったんだぞ!」
咄嗟に出たのは言い訳みたいな言葉だった。何故か彼女を直視することが出来ず、僕は手に持ったナイフを睨んだあと、顔を伏せてしまった。
「あたし、飛べるなんて一言も言っていないわ」
「大丈夫って言ったろ!」
「鼻から血が出ていること以外は大丈夫よ。 あたしの気分も太陽の位置も重力も物理法則もすべて正常に動いているわ。 安心してちょうだい」
僕は彼女の元に駆け寄り、左腕に巻き付いたツルを切った。
「きみは飛べないのか?」
「飛べるわよ。 ただ、すごく疲れるの。 それはもうすごくね」
「鼻の血を止めたほうがいい」
「そうね。 ナイフを貸してちょうだい」
僕はその意図を理解出来ないままナイフを手渡した。彼女はプランタ水ウサギに噛み付いている雄しべをナイフで切った。
「そいつを助けたつもりか? それとも食うのか? もう毒がまわってるから食べれらないよ」
彼女はプランタ水ウサギの両耳を掴んで持ち上げる。じっくりと観察したあと、プランタ水ウサギの首のあたりで血が流れる鼻を拭いた。
「きみは…… ちょっと。 いや、かなり…… 頭がおかしいのかもしれない……」
「どうして?」
僕がそう言った理由に気付いていないみたいに、彼女は首をかしげて、また同じように鼻を拭いた。
「なんでウサギで鼻を拭くんだよ! すこし…… いや、かなりおかしよ」
「ウサギで鼻を拭いてはいけないルールなんて無いわ。 それに袖で血を拭いたら服が汚れるもの」
僕の足元が少し揺れた気がした。彼女もそれに気付いたのか、人差し指を立てて口元に当てる。木々が鳴り、地面に落ちた斑の影が形を変える。鳥が一斉に飛び立ち、震えた鳴き声をあげた。地面が縦に震える。
「逃げましょう、ハンス」
僕の口から「え?」と間の抜けた声が零れ落ちる。
「山があたしを捕まえようとするのよ。 趣味が悪いわね、まったく」
彼女は滝の方に向かって勢いよく走り出した。僕はどうすることも出来ず、それを静観していた。少し行ったところで彼女は僕の方を振り返り「はやく!」と大きな声で言った。
彼女の言葉の意味を頭の中で考える前に、僕の心と体は彼女と共に走り出していた。




