ハンスと女の子
奴隷であることは僕を盲目にしているのかもしれないし、奴隷であることは僕の好奇心に蓋をすることと同義なのかもしれない。
最初は影だった。羽虫のように小さい影が落ち着きなく地面を這い回っていた。僕は集めたオリの実を樽の中に入れていく作業を熱心にこなしながら、時々大きくなったり小さくなったりする影に目をやった。
僕は卵と交換出来そうなものを探しに滝の方へ歩いていった。木陰の中に入ると羽虫のような影のことなんて直ぐに忘れた。小さな誰かが頭の中で思考スイッチの切り替え作業をしているようだ。
大量の水が水面を叩く音は距離によって性質を変えていく。背中を掻くような小さい音で始まり、大地を駆ける足音に変わり、軍隊の行進になって、夕立の雨音になって、ドラゴンの羽撃きになって、地鳴りの音に変わる。
滝のことを瀑布なんて言ったりするけれど、この滝は布なんて大層なものじゃない。一束の直瀑が滝壷に向かって落ちていく姿は瀑糸と言った方が要領を得ている。それでもやはり山が注ぐ糸は力強く迫力がある。
白煙のような飛沫は空気の中に霧散して、僕の表皮に貼りついた。林道から抜けてくる土の匂いを帯びた風と滝の飛沫は、長年のパートナーのように互いの良い所を活かしながら僕の熱を奪っていく。
僕は出来るだけ長い木ヅタを探して、目星を付けたツタをゆび指しながら目で追っていった。蝿を目で追っている時のように眼球の裏側が痺れ始めて瞬きをした。追っていたツタを見失なって、また最初からやり直した。これを何度か繰り返し、ようやく根元まで辿り着いた頃には、陽射しを直接受け続けた時のような疲労感があった。
ツタにナイフを突き立ててみたが、断ち切ることは出来ない。再び大きく振りかぶってみたが、ナイフが鈍らになりそうなので途中でやめた。人の頭ほどの大きい石を探し出して、それをツタに叩き付けた。破砕面から水分が出て、支えにしていた樹木に黒い染みをつくった。
僕は服を脱いでオリの実が入った樽の中に入れた。巾着からリーフコーラルを取り出して口の中に含んだ。下流の方から滝壺の方へ進入していき、川面から突き出た針のような変成岩にツタを巻き付け、自分の腰の辺りにも同じように巻き付けた。
一瞬太陽が隠れて、僕は何気なく空を見上げた。ワイバーンが体を捩りながら旋回し、急降下と急上昇を繰り返している。この一帯には野生のワイバーンはいない。地理分布に鑑みてそう言える。どこかの竜騎兵かなにかだろう、僕はそう結論付けて滝壷に飛び込んだ。
全身が水に浸かった瞬間に僕の体は木の葉のように回転した。鼻の入口に出来た気泡がむず痒く、手足が縄のように暴れた。滝壷の底にある毛の生えた塊を幾つか手探りで選別して、一番大きいものを両手で掴んだ。息が苦しくなるとリーフコーラルを唇に挟んで息を吹く。空気の風船が出来るとそれをゆっくり吸い込んだ。掴んだ毛の塊を手繰り、根元から一気に引き抜く。毛の塊は水の中で暴れ、僕の腕に噛みついた。思わず目を開けてしまい、瞼の裏にごわごわと水が侵入する。僕はリーフコーラルを舌の上で転がしながら、落ち着け、と頭の中で念じた。腰に巻いたツタを左手で手繰っている間も、毛の塊は僕の右腕に噛みついたままだ。己の運命を予見してか最後の悪足掻きのように噛む力を強めていく。指の先が水面から出ると、僕は足をばたつかせる。頭頂部が出て顔が出る。顔に貼りついた前髪が鬱陶しかった。
川岸に上がると僕はそのまま倒れ込んだ。瞼の裏がゴロゴロして、肺に綿が詰まっているかのように息をしている気がしなかった。リーフコーラルの作用で死にはしなかったが、水の圧力と直瀑の水流に体力をかなり奪われていた。右腕の傷は、傷と言うよりも穴みたいだ。牙を深く突き立てられていたらしい。傍らで鼻をヒクヒクさせている、プランタ水ウサギを一瞥して僕は目を瞑った。
その時、僕の眼窩に濃い影が重なった。その影は僕の閉ざされた視界の裏側で更に黒く濃くなっていく。目を開けるのが億劫だったけれど、薄目を開けることで妥協した。
どうやら僕の全身は影で覆われているようだ。プランタ水ウサギは迫る光景に怯えているのか、長い耳を垂らしている。
空からワイバーンが降って来ていた。
長い首を反らし背中を気にするように自転している。
僕は上半身を起こし、墜落しそうなワイバーンを見守った。その視線が段々地面と並行になる。
水面がリング状に盛り上がった。滝壷に新たな円形の滝が出来上がり、水が中心に向かって一気に流れ込んだ。雲を突き抜けそうなほどの巨大な水柱が立ち、跳ね上がったワイバーンは空中でバタバタと藻掻いたあと、なにもなかったように空に向かって飛んで行った。
滝壷の水面はしばらく収縮と拡大を繰り返す。底に根を張っていたプランタ水ウサギたちが浮き上がり、直瀑の水流に乗って回転していた。収縮運動は滝の水流と重なり、やがて静かに収まった。
白い飛沫の中に黒い塊が見える。目を凝らして見ていると水面の光が悪戯に輝いた。三つの真っ黒な塊が規則的に現れてる。僕の体は無意識に動き、気が付けば木ヅタを滝壷に投げていた。プランタ水ウサギと共に人影のようなものが回転していたのだ。
「生きているなら掴まれよ!」
人影は滝壷の中に飲まれた。僕は慌ててリーフコーラルを咥える。先の苦しさが脳裏を過った。
その瞬間、ツタを強く引っ張られる。僕は足を踏ん張りながら思い切って蔦を手繰る。力が抜けていくようにどんどん軽くなる。黒い頭が水面から出る。長い黒髪の女の子だ。
頭と同じ高さに黒い塊があった。それが何なのか考える暇を与えられないまま、女の子は滝壷を這うように岸に上がって来る。
女の子の背中から黒い大きな翼が生えていた。
「きみ…… 羽が生えているけど……?」
女の子はゆっくりと立ち上がった。顔には蜘蛛の巣のように黒い髪が幾本と貼りついている。それになぜだかプランタ水ウサギを右手に持っていて、それを興味深そうに観察し始めた。
僕は何も言えなかった。頭の中で「大丈夫?」とか「怪我は無いか?」とか、色んな言葉が渦を巻き、やがてそれらは全て適切で無いように思えてきた。
女の子は一通り観察し終えると、中空にプランタ水ウサギを突き出した。
「この気味の悪い生き物は食べられるのかしら?」
僕は「食べられるよ」と答えた。




