ハンスのこと - 3
砂ナメクジが入った風船を手の上で弾ませながら僕は荷車を曳いた。太陽よりも遠くにありそうな丘の上で、孤独に、でもどこか誇らしげに佇むウズリンゴの木。僕は彼に用事があったし、彼も僕に用事がある。
ウズリンゴはかなりの綺麗好きで、葉っぱや枝に埃や塵が積もるとストレスになるらしい。遮るものが無い草原は、時々にわか風を吹かせたりするけれど、朝露に纏わりつく砂塵は風ではなかなか飛ばせない。だから僕は砂や埃を食べる砂ナメクジを彼にプレゼントする。
ウズリンゴは僕を見つけると、鳥が羽ばたくように葉を打ち鳴らした。僕は風船を割り砂ナメクジを木の幹にくっつけた。彼は有り難がる様子も無くもぞもぞと動きだし、トカゲの舌のように枝を震わせる。トカゲの舌のようなそれは、枝葉の隙間を縫うようにニョロニョロと動き、実っていた果実をもぎって僕に差し出した。
「ありがとう」蜷局を巻いたヘビのような果実を見つめながら僕は言う。
「もうすぐで羽馬の堆肥ができそうだ。きみはいるかい?」
ウズリンゴはかぶりを振るように葉っぱを鳴らした。
草原の終わりは緩やかに始まる。所々に岩肌が見え始め、亜灌木が点在していく。続いて亜灌木の層を抜けると木質化した灌木が群生する。次第に常緑の広葉樹が増え始め、それらは肩を寄せるように山の傾斜に向かって密生する。
急な登り勾配になっている山道は、剥き出しになった山肌と相俟って踏ん張りが効き辛い。僕は空転する車輪に体力を奪われながら山を登った。木々の遮光があるとは言え、もうすぐ緑が深まり虫がさざめきだす季節だ。額から流れる汗は僕の頭と心を清潔に保ってくれる。
勾配を登りきると開けた場所に出る。鳥が囀ると呼応するように山が鳴った。道を隠すように茨の木が絡まり合っている。僕は切り株の椅子の近くに荷車を止めた。
「ヤヌザイ、ヤヌザイ! 僕だ! ハンスだ! 道を開けてくれ!」
僕は大声で叫んだ。鳥が囀った時と同じように山が鳴った。鱗のような木漏れ日は僕の視界を暗くしたり明るくしたりする。まるで悪戯でもしているかのようだ。
僕は切り株の椅子に腰掛けて、ウズリンゴから貰った果実を食べた。小気味良い音が鳴る。甘味はそう強くない。しかし、風味が抜群だ。艶と光った皮の若く溌溂とした爽やかさは草原に吹く風とよく似ている。クリーム色をした果肉の仄かな甘味が風味を鼻孔まで誘い、そしてその作用をより流動的にしている果汁。果汁を内包しているかのような粒子の集合体は、歯先に触れるとジャクジャクと弾けて、口腔がウズリンゴの果実で一杯になる。
僕は夢中になってウズリンゴの果実を食べた。気がつけばもうヘタだけになっていた。口の中でずっとしゃぶっていたいと言う衝動を抑えながら、いつまでもウズリンゴのヘタを手に握っていた。
「ハンス、いるのか?」
特徴的なしわがれた声、ヤヌザイだ。彼の声は見た目よりも歳をとっている。僕は道を塞いでいる茨の木の方へ視線を移す。
「ミモウザ、道を開けろ」
ミモウザと呼ばれた茨の木は歯軋りのような音と共にスルスルと解けていく。木の根元の土がマグマのように隆起し、乾いた破裂音を鳴らす。気根の中にある空気を胞する器官が、空気圧を調整する事で彼らはある程度動けたりする。破裂音は気胞で擁することが出来ない空気を放出する最後の帳尻合わせのようなものらしい。
「ヤヌザイ、腐葉土を持って来た。 代わりにオリの実をくれないか?」
「ああ、ありがとうハンス。 いくらでも持って行ってくれ」
ヤヌザイは荷車に載せてある腐葉土の入った袋を毛むくじゃらの手で引っ張り上げた。僕は卵を包んだ布を空の樽の中に放り込んで胸に抱いた。
「卵もあるんだ、八個ほど。 何か交換出来る物はないかい?」
沈思するように、うーん、と頭を捻るヤヌザイ。僕はそんな彼の横顔を見守った。待っていれば必ず答えが返ってくる。彼は絶対に言い訳のように言葉を捏ね繰り回したりなんかしないし、妙な例え話も始めない。出来るだけ簡潔に、コインの裏表を当てるように答えをくれる。故に今みたいな簡単な問い掛けにも深く考え込んでしまったりするけれど、僕はそんなヤヌザイの潔癖的な言葉の扱い方に好感を持っている。
「悪いなハンス。 交換出来そうな物は特に思いつかない。 おまえが欲しい物を見つけたらそれと交換しよう」
僕は「ありがとう」と言った。
ヤヌザイはデミだ。デミサピエンス獣人科霊長目、彼は分類学とか言う学問ではそう区分されるらしい。この大陸に住む人達の一割ほどはデミで、ヘイグや親方もそれにあたる。
ヤヌザイは全身が焦げ茶色の体毛で覆われている。地肌は黒で鼻が吊り上がった、横にも縦にも大きいサルのようなデミだ。ヘイグや親方は見た目は僕と変わらない人間の姿をしているが、事象や現象や物体や生き物のような何らかのモノを使役する。
山に入るにはこの辺り一帯の山地を使役するヤヌザイの許可が必要で、許可無く立ち入った場合はどうなるかわからない。おそらく何がどうなっても最後には土になるのだと思う。それはヤヌザイ自身が望んだことで無くても、彼の自意識とは関係無く契約が結ばれ、行使されることもある。
僕はただの人間だ。この世界に無条件で僕の味方をするものは存在しない。けど僕は使役する。奴隷の教義を。そして、奴隷の教義もまた僕を使役しているのかもしれない。産まれながらに。




