驚天動地
アントンファマァは仁王立ちになって、ムォウムォウ、と鳴いていた。中年男は一瞬意識を飛ばしたけれど、地に倒れたと同時に悪夢から目覚めたみたいな声を出した。
アネモネは表情の無い顔をして、自分の肩を棒きれで叩いていた。
僕としてもシャキリとしても、あまりにも突飛な出来事であったのだけれど、シャキリよりも少しだけアネモネとの付き合いが長い僕は、やはりどこか感覚が麻痺してきているのか、今のような唐突で脈絡の無い気狂い的な行為は、もはや彼女にとっては息をするのと大差ないことだと思えた。そう思えたからこそ、僕はある種の決まり事のように誂え台詞を読むことが出来る。けれど、それはどうしようもなく空虚を孕んで、呆れるほど無意味な本物に近い偽物の言葉でしかなかった。
「御仁、御仁。大丈夫ですか、御仁?」
中年男は言葉にならない声を出して僕らを見上げていた。まるで諂うような表情を向けて、唇の端を曲げた。突然に暴力を振るわれて気が可笑しくなったのか、いつまでもヘラヘラとした表情を変えることはしなかった。
僕は地面に膝をついて、うつ伏せに倒れている中年男を抱き起そうとする。中年男はにんまりとした笑顔を僕に見せて「大丈夫ですので、ええ。大丈夫ですから、どうもどうも」と言って、両掌を地について自らの力で起き上がろうとする。笑顔は寸分の狂いも無く彼の顔に固定されたみたいだった。
「おい、はやく謝らないか」
アネモネは僕の言葉を精査するように目を細めながら中年男を見下ろした。ぶらんと垂れ下げていた腕を組んで、木の棒で殴りつけたと言う事実を原因から結果まで順繰りに回想するみたいに何度か頷いた。そして、やはり自分は悪く無い、と言いたそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「この、薄汚いふっかけ男! 足許を見るんじゃないわよ、なんて小賢しい男なの! まったく! まったくもう!」
中年男は一度表情を硬くして、またニヘラとした笑い顔をつくった。地面に突っ伏して、豚みたいに泥に塗れながら揉み手を行う。「えへぇ、えへぇ」と媚びた息を漏らすと、なにかに操られたみたいに話を始めた。
「ええ、そうなんでさぁあ、ええ。五〇〇〇スペンスなんてえのは嘘っぱちでありますからねえ、せいぜい四五〇〇、いえ七五〇スペンスでしょうねえ。ええ、どうもどうも。しっかしねえ、お嬢さん方。言い訳のほおをさせて貰いますとねえ、ええ。まさか本気にされるとは思っていませんでしてねえ、どうもどうも。ボカぁねえ、冗談のつもりだったんでさぁあ。本当ですよ! この期に及んで偽りなんてえ事はありませんとも。ええ、どうもどうも。お詫びと言っちゃあなんですがねえ、アントンファマァをもう一頭……いやあ、もう八頭ばかりぶっ殺して持ってってくださいませんかねえ。いえね、いいんでさぁあ。ボカぁそれだけ罪深いことをしたんでねえ。かまいません、かまいません。持ってってくださいな、後生でありますから、ええ」
「いらない!」アネモネは大声で言った。
中年男は「えぇ! まさか!? ええッ! 驚天動地!」と声を荒げた。彼は突っ伏したまんま体をくねらせて、尺取り虫のように地面を這いずり回った。
「いらないったら、いらない!」アネモネは再び言う。
「後生ですから! 後生ですから!」中年男はそう言って目を剥いた。地面を考え無しに這いずっていたかと思うと、 突然進路を変えてアネモネの足に縋りついた。「わかりましたとも、お嬢さん! ではね、ではですよ!? アタシの尻を思いっきりブッ叩いてくだせえ! 後生でありますから! 足蹴にしてくださってもかまいませんとも。ええ、本当ですよ! アタシの鼻の辺りを蹴り上げてくだせえ! 爪先でですよ、お嬢さん! ボカぁそうしてもらわねえと、今晩寝れやしません! ええ! どうもどうも!」
アネモネは「気味が悪い、気味が悪い」とまるで呪文のように呟き、鳥肌が立った腕を頻りに擦りながら僕とシャキリの顔を交互に見た。シャキリは仮面の目を両手で塞いで「……うぅむ」と唸った。
僕は本物の気狂いを目の当たりにしたと言う心地で、上手く言葉を見つけることが出来ずにいる。中年男の本物とも偽物とも取れる見事な気狂いっぷりは、一朝一夕で得られるものでは無く、何度か定期的に、それも比較的短い間隔で演じてきたように小慣れた風だった。
「御仁、御仁。アントンファマァはいりません。お金もきっと払いますので、本当ですよ。一一六スペンスは置いていきます、残りも必ず払いますので、だいたい六〇〇スペンスほどですか。払いますよ、約束します」
「六三四スペンスでございますよ、お方様。ええ、どうもどうも」中年男はそう言って手を揉んだ。そして尺取り虫のように這いながら僕に近付いた。
僕は思わず一歩後退った。アネモネは中年男に対して、吐瀉物でも見るような目を向けていた。もちろん僕も顔には出さないように努めてはいるけれど、凡そアネモネと同じような気分だ。
そして中年男自身も、自分を吐瀉物に見せることを厭わないと言った感じだった。「えへぇ、えへぇ」と僕らの周りの空気を淀ませるような吐息を漏らして、いつまでも薄気味悪い笑顔を崩そうとはしなかった。
「なんでしたらねえ、お方様がた」中年男はそう言って黄色い歯を一杯に覗かせた。「金なんていりやしませんよ。ええ、どうもどうも。ほんっとうに悪いことしましたからですねえ。なぁに、二言はありませんとも、冗談じゃありませんよ? ボカぁこのまま、ここで一晩寝ていくんでねえ、何分気持ちがよろしいのですよ、ええ。もう放って置いてくださってもかまいませんとも。さあ、おゆきなさい、おゆきなさい。ええ、どうもどうも」
アネモネは表情を引きつらせて「いきましょうよ」と言った。もちろん彼女に悪びれる様子なんて微塵も無く、ただこの場から早く離れたいと願っているようだ。
中年男は相も変わらず、未開の地にある原住民が住む村に陳列されている木彫りのオブジェのような表情で我々の顔を見上げた。
僕は少しだけ考えて、やはりお金は置いていくことに決めた。一一六スペンスを中年男に握らせる。彼は手の中のスペンス紙幣を例の表情で見つめて、まるで何か忌々しいものでも見たかのように小鼻を膨らませた。
「御仁やっぱり置いていきますよ。残りは必ず……」
僕が言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、中年男は地面を転がり始めた。
「ああ! 痛い痛い! 痛いなあ! 打撲ですか、こらぁ!? ずいぶんと殴られましたからねえ! 四発ほどですか!? まったくヒドイ痛みだ、こらぁ!」
本当は一発なのだけれど、あまりの気狂いっぷりに、僕は訂正することを諦めて彼を無言で見守るしかなかった。
「お見苦しいところをすみません! お見苦しいところをすみません! さあ、はやく行ってくだせえ! アタシにはもうかまわないでくれてよろしいですよ! ほんとうですよ、これ以上アタシを見ないでくだせえ! アタシもこんな姿を見られて、そらぁもう恥ずかしいのでさぁあ、ええ! お目を隠して行ってくだせえ! 後生ですから!」
僕は気狂いを見下ろして「残りは必ず返しますので」と改めて言った。それから、ほんの気持ちではあるけれど、巾着からリーフコーラルを出して、そっと気狂いの目の先に置く。続いてアネモネの羽を申し訳程度に毟って、リーフコーラルと同じように置いた。
気狂いは遜った眦と口の端はそのままに、鼻だけは全く別の生き物か、意思とは独立した器官であるかのように、みるみる赤紫色に染めていった。
僕は彼から視線を逸らして、シャキリの顔、もとい仮面を見つめた。そうして、シャキリの肩に手を置いて「悪く思わないでくれよ」と一応断り、一思いに仮面を剥いだ。シャキリは「……おぉ!」と声を漏らし、咄嗟に顔を隠した。彼の顔は思っていたよりも白く、睫毛がとても長かった。それに、なかなか小奇麗な顔をしている、と僕は思う。
中年男はシャキリの顔を見て「ひえぇッ!」と悲鳴のようなものを上げ、顔を赤くした。僕はそれがどう言う反応だったのか何てことは一切考えず、速やかに彼の眼前へシャキリの仮面を置いた。
「それは保証みたいなものです。必ず返しますので、それまで取っておいてください。本当にすいません、お金は絶対に忘れませんから。約束です」
僕はそう言って出来るだけ早く足を回転させる。しかし、足音は静かに、夕日が沈む時のように穏やかに。アネモネは対照的にバタバタと足の裏全体を使って歩いた。シャキリは大きなカバンに上半身を突っ込んで、次に出てきた時には新たなデザインの仮面を被っていた。
「後ろを振り返るんじゃあないよ」僕はふたりに言う。
アネモネは「当り前じゃないの、気味が悪い」と言った。シャキリは肩を怒らせながら歩いて、僕の言葉には返事をしようとしなかった。




