僕はアネモネと旅にでた
アネモネは右に左に進路を変えながら、ギリギリのところでヘイグの攻撃を躱している。時々なにかに引っ張られるように急降下して、その度に黒い羽をバタつかせて上昇する。
僕は城郭の上へ登る階段まで急いだ。親方とふたりで登った階段だ。特に持っていく荷物も思いつかないので、着の身着のままでいい。それは僕の産まれた時の姿なのだから。
男たちは呆気に取られたまま、それぞれがただ宙を見上げたり、腕を組んだり、歯に挟まった肉の欠片を指で穿ったりしている。
僕が階段を上がり切った時、アネモネは旋回しながら空を登った。力を貯めるみたいに肢体を撓ませた後、宙を滑るように降下する。
ヘイグは突風のようにアネモネの真下から迫り、鈍く光るダガーを鋭く振り抜く。
アネモネは咄嗟に翻り、三日月のような残光を放ったヘイグの一閃を躱した。
彼女は空中でバランスを崩し、体ごと城壁に激突する。ヘイグは何か叫びながら、大の字になって落下していく。拳で地面を叩くような、仕草があった。
城壁に跳ねたアネモネはそのままの勢いで壁を蹴って高く舞い上がった。旋回しながら高度を上げていき、僕に向かって滑空する。
僕は一直線に走った。ヘイグは地面に着地すると、一呼吸置いてから再び風に乗った。男たちは急に慌て始めて、慣れない手つきで羽馬に鞍を取り付ける。
大男のカーヴァーは近くに繋いであった、羽馬のもやいを解いて、重い体を預けた。羽馬が首を振りながら屈撓すると、大男は呆気無く落馬する。カーヴァーは馬の尻に縋って何とか起き上がるも、羽馬が振り上げた後肢に顔面を蹴り上げられ、華麗に傾倒した。
前方に見えた親方の姿は、まるで泥で作られた人形のようだった。唇を真一文字に結んだまま、針孔のような瞳孔で、一点を見つめている。風に靡いた髪が掛かって目を細める親方を見て、辛うじて生きているのだとわかった。
僕が親方の後ろを通り過ぎる時にも、それは変わらない。動かない、喋らない。ただアネモネとヘイグが宙を舞っている様子を見ているだけだ。
僕も何も言わない。これ以上の挨拶は、約束を反故にすると言う宣言と同じだから。
僕は城郭の淵まで一気に駆ける。空を仰ぐとアネモネが僕の動きを見張っているのが見えた。僕は縁に足を掛けて、体を外に蹴り出した。視界が揺れて、眼前にある夜の草原が滲み、細部の残像が斜線のように乱れる。
不意に体が空中に固定されたように留まる。右の手首には僕の重みがある。
「長くは飛べないわ」アネモネが言う。
「ヘイグが追って来るぞ」
彼女は構わず前だけを見ていた。目線のずっと先にある景色が繰り出されて、目線の直ぐ傍にあった光景が後ろに流されていく。僕はそれを目に焼き付ける。
「ハンス! 手を伸ばせ! こっちに戻ってこい!」
ヘイグは僕に向かって、一杯に手を伸ばす。怒っても、困惑しているようにも見えない表情が、ただただ僕を嫌な気持ちにさせる。幻惑や微睡から伸びた手のようだ。一度触れてしまえば、もう二度と身動きが取れ無くなりそうなほど、重く不気味なものだった。
「戻らないよ、ヘイグ。 僕らはもうお別れだ」
「早くしろ! 狩りへ行くんだろ!?」
「狩りへは行かない」
「話合おう、ハンス。 さあ、こっちへ」
「君と話すことは何もないよ」
ヤヌザイの山がどんどん遠くなっていく。僕らは夜を追いかけるように飛んで行く。
ヘイグはもうダガーを構えてはいなかった。その代わりに、何としても僕を連れ帰ると言う意思の篭った眼差しをしている。彼の中では確定された事実であるかのように。
「どうしてだハンス?」ヘイグはそう言って頬を緩めた。「今まで楽しくやって来たじゃないか。 俺が兄貴でお前が弟だぜ、これからもずっとそうやって行くんだ。 それをどうして急にそんな奴に…… 手を伸ばせハンス、そうすれば全て元通りだ。 誰もお前を咎めやしない、単なる気の迷いとして笑って済ませようじゃないか」
「勝手なことを言うなよ! 僕は君の奴隷じゃないんだ!」
「奴隷だなんてあるもんか! 俺とお前は兄弟だろ!」
「違う! 僕は君の弟でもないし、手下でもない!」
いよいよ墜落しそうに、上下動を始める。アネモネは眠たげな眼差しで「そろそろ限界よ」と呟いた。ヘイグも体を左右に揺さぶられ、加速と減速を繰り返している。
夜の風は温く、上から体を押し付けるように吹いている。
ヘイグはきっと、僕が戻らないことを知っている。そして、重厚な枷で繋がれていることも。彼はどうしようもなく僕に引っ張られているのだ。
「ハンス!」
耳を劈くヘイグの怒鳴り声は高らかに響いた。遮蔽物の無い草原で、幾重にも反響して僕の耳に届いた。それが自分の中で増幅した声だと気付いた頃には、僕はもう叫び声を上げていた。
「僕はずっと君が嫌いだったんだ! 僕は君の中に諦めを見て、僕は君の中に怒りを見出した! いいかい、ヘイグ! 僕の地獄は君の中にあるんだ!」
アネモネは溜息にも似た、深い息を吐く。
ヘイグは急に減速して、僕たちの距離は忽ち広がっていいく。彼は固く握った拳を、体の横で一杯まで広げた。そして脱力する。
「聞け、ハンス! きっと後悔するぞ! 後悔するがいい! 俺の隣に居ればよかったものを、お前がそれを踏みにじったんだ! 忘れるなよハンス、地獄は必ずやってくるぞ!」
ヘイグのその言葉もまた、僕の内側で響いて鼓膜に向かってやって来る。
後ろを振り返ったアネモネは、一息吐いて、惰性飛行に移る。高度は徐々に下がる。風を切る感覚が強くなった。
ヘイグの姿は、もう殆んど見えない。微かな人影のようなものも、ヘイグか岩なのか木なのかすらもわからない。
アネモネは体を起こして着陸の姿勢に入る。足が地面に着いて、僕らは手を離した。
アネモネが言う。「あなたのお兄さんは凄まじいのね」
「お兄さんじゃないよ、あれはヘイグだ」
「感動的じゃない別れだったわ」
「見苦しかったか?」
「とても」そう言って指を組むと、大きく伸びをする。「あんな別れ方はないわ、別れはスマートに行わないと。 いつか後悔する、あの人が言ったみたいに。 まるで敵どうしみたいなんだから、次にあの人と会うまでに改めるといいわ。 あなたには、たくさんの時間があるのだから」
僕は適当に頷いて、思いを巡らせる。ヘイグと過ごした日々はそう楽しいものでは無かった。なんなら廃城の中に置いて来てもよかった感情だ。彼の言葉が耳壁にこびり付いて鬱陶しかった。
僕の感情は旅の門出に相応しいとは言い難い。それでも気分を軽くするために、大きく息を吸い込んだ。
草原の青臭さと土の臭いは、肺の中に溜まる重い空気と入れ替えるのにはちょうど良い。ヘイグとはまたいつか会うかも知れない。蟠りを無くせるとは思わないけれど、それならそれで良い、と僕は思う。この原因がどんな結果に向かおうと、僕たちはきっと因果に繋がれている。
「そうだ、アネモネ。 ヤヌザイとフィッツたちのところへ別れの挨拶に行かないと」
「必要ないわ」アネモネはそう言って、布を結んで拵えた、簡易的な肩掛けカバンを僕に向かって投げる。
「なんだこれは?」触れると分厚くて四角いものが入っていた。僕は包みを解いた。「クレヴァリー大陸創世記だ」
「ヤヌザイからよ。 別れの挨拶はいらないと言っていたわ」
「そうか…… リスたちは?」
「キキキッキキキッ、と言っていたわ」彼女は薄ら笑いを浮かべて、僕の反応を伺う。
「それはとてもスマートな別れだな」
アネモネは詰まらなそうに「ええ」と言う。
星はやはり高い位置にあって、月も同様に手が届きそうになかった。とりあえずのところ、目的地は決まっているけれど、そこまで辿り着く手段を僕は持っていない。彼女はどうなのだろう、と一瞬だけ考えて、止めにした。彼女は行き当たりばったりなのだから。
それに僕には時間がある。じっくり探して行けば良い。
「さて、ハンス。 最初はどこへ行きましょう」
「ずっと遠いところへ」
僕はアネモネと旅に出た。




