ハンスのこと - 2
男たちが出て行ったあと、城壁の中にいるのは僕ひとりだけになった。男たちが残したパン屑を平らげ、砂で皿の汚れを落として貯水した雨水で洗い流した。そのあと寝床を整え、床を隅々まで掃除する。
鶏に数種類の穀物と砕いた卵のカラを合わせた餌をやり、残りの卵を全て回収した。卵は全部で八個あった。これだけあれば何かと交換出来るかもしれない。
城壁の中には殆ど日が射さない。射すのは正午のほんの二、三時間の間だけだ。日当たりが悪いせいでイワトビトカゲや砂ナメクジやフタマタムカデと言った、影で暮らす生き物の棲家にもなっている。奴隷商も彼らとなんら変わらない。
この城は元々野党の寝蔵になっていて、僕たちはそれを無理矢理彼らから奪った。彼らもまた同時に影で暮らす者たちであり、度々彼らとの間に諍いが起きるのは、この世界には圧倒的に影が少ないせいだ。僕はその影に飲まれたちっぽけな存在だ。決して居心地がいいわけでは無くて、そこにしか居場所が無いと言うのも少し違う気がする。一度雨に濡れれば気にならなくなるけれど、それに近い感覚なのかもしれない。
城郭は全て花崗岩で出来ている。内城から外郭に至るまでの全てだ。空気の停滞により常時砂が湿っている状態で、それに伴って内城は自重でどんどんと沈んでいっている。この城が半壊しているのも戦闘によるものでは無く、バランスを崩した組積の花崗岩が雪崩を起こしたからだ。
組積の目地には黄色や緑の苔が生し、湿った布のような匂いを発している。城壁の四隅には錘状の暗い影と、なし崩し的に放置された瓦礫や野生動物の骨がひっそりと横たわっている。
もう殆ど廃城と言ってもいい。それでも影の生き物たちは廃城の中にある安寧と、陽の当たる所で生きている人達の干渉から逃れられる聖域に身を寄せるしかない。夜になるとそれもまた顕著に現れ、青い月明かりに照らされた城郭へ引き寄せられる影の訪問者も後を絶たない。もちろん受け容れられることは殆ど無い。それらは皆、湖面に浮かぶ月に飛び込んだ羽虫が溺れ死ぬのと同じように慈悲も無く命を消失させる。
たぶん、僕たちは光の傍の影が好きなんだ。
僕はいつものように荷車を曳いた。載せているのは袋に纏めた腐葉土と布に包んだ八個の卵と空の樽。
解放された虎口まで羽馬の足跡と荷馬車の轍が続いている。まるで荒廃の軌跡のように。
そう言えば「砂ナメクジを何匹か捕獲して欲しい」とあるヒトから頼まれていた。あわや約束を反故にしかけた僕は、特に急ぐ必要も無いのだけれど、冬眠前のリスが木の実を集める時と同じようにテキパキと、城壁を這っている砂ナメクジを五匹ほど捕まえた。
腰に提げた巾着から石灰化したリーフコーラルの死骸を取り出す。唇を軽く当て息を吹くとクレーターや亀裂から空気が漏れ、風船が出来上がる。これはリーフコーラルに寄生する泡虫藻の炭酸同化作用によるものらしい。僕は捕まえた砂ナメクジを風船の中に素早く閉じ込めた。彼らが這った後には白い粘液が付着する。砂や埃が無い事に気が付いた砂ナメクジは石ころのように体を丸めた。
城門を潜ると次元を飛び越えたように一面の草原が眼前に現れる。草原は世界の法則を無視するように空に向かって大きく広がっていく。丘陵の始まりにあるこの城は、何らかの意志によって世界から引きずり下ろされたのかもしれない。
僕は東の山を目指して歩き始める。山の向こうにある朝日が稜線を黒く蝕んでいた。緑の大地から突き出た岩の傍でオーブが戯れている。大きい方のオーブは時々ピンク色に発光して岩の周りをくるくる回っていた。
「やあ」僕は彼らに挨拶をする。出来るだけ親しみを込めて。
大きいオーブは緑色に光り、そよ風に乗って楽しそうに踊った。小さい方のオーブは恥ずかしそうに赤くなって岩陰に隠れた。
僕は草原を歩いている時いつも無心になる。
何もないからだ。虚空の中に闇が無いと虚空には成り得ないのと同じように、曇空に雲が浮かんでいないと曇空には成り得ないように。
ここには僕に何かを感じさせたり、考えさせたりするモノたちが存在しない。奴隷である僕は城壁の外に出れば奴隷で無くなる。それが何故か僕の人としての尊厳を踏み躙ることのように思えて息が苦しくなる。奴隷としてのでは無くて、人としてのだ。
人としての矜持がそのまま僕の奴隷としての教義であり、またその逆もそうだ。だから僕が奴隷で無くなった時、その時はこの草原の景色が僕の教義になるのだろう。そう思うと少しだけ胸が軽くなっていく気がした。




