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ヘイグの弟

「いつ発つんだ?」


 僕はそれについて考えを巡らせながら、火の傍に座ってシシの肉を食べている女の子を見下ろした。アネモネのこともあるけれど、彼女はたぶんある程度の時間なら待ってくれるはずだ。もちろん、彼女のある程度がどの程度か何てわかりやしないけど、どうも僕には待ちぼうけて癇癪を起しているアネモネの姿が想像出来なかった。


「明日の朝には…… 出ようと思います」


 そう言って、改めてアネモネとヤヌザイのやり取りを思い出して、少し不安な気持ちに駆られた。なぜなら、癇癪を起したアネモネを想像する事が出来なくても、黙って行ってしまうアネモネの姿を簡単に想像する事が出来たからだ。

 ヤヌザイがアネモネに一日と言った以上、それは彼女にとってはどうしようも無く一日でしかないのだから。


 親方は僕の様子に気付いたのか「なにか問題か?」と言った。正確には口がそう動いた。その時ちょうど、男たちが雄叫びを上げ、親方の声に重なったのだ。親方はその場にあった声量で話をすることが出来るけれど、不意な音量の調整が苦手なようで、末尾が結ばれるまではずっと同じ調子で喋り続ける。

 だけど、僕はもう慣れっこだ。唇を動かさずに喋る癖も含めて。幾らか時間が掛かりはしたけれど、今ではもう親方が発する表面的な事柄は全て理解出来るつもりだ。

 僕は女の子の小さな後頭部を見つめながら、これから彼女に起こる苦労を今の内に労ってやりたい気分になった。


 僕は親方に、夜のうちに出る、と言うことを改めて告げた。親方は「与えられた時間は有限だ」と言った。僕もそうだと思う。時間は前進するだけで、後退する事も立ち止まる事もしないのだから。


「親方、次はいつ戦場へ?」


「明日には出なければならない、ムセイヲンで内乱が起きる。 そうだな、ノウザンクロスから南東に行ったところにある。お前は直ぐにノウザンクロスへ行くのか?」


 僕は「わかりません」と答える。


「行くにしても、しばらくは近付かない方がいい」


「ええ」そう返事をしてから、僕は考える。ノウザンクロスの空にトアペイロンの道が現れる光景を。


 トアペイロンはアルケーと言った。そして、アルケーは万物の根源。流星群や流星雨がトアペイロンなのか、トアペイロンが流星群や流星雨に乗ってやって来るのかはわからない。僕やクレヴァリーの産まれ故郷であるアポロンと、ノウザンクロスのトアペイロンが、どのようなロゴスで繋がっているのかもわからない。僕は今から、わからない尽くしで旅へ出るのだ。

 唯一持っていた権限を親方に渡した。それは殊更僕にとっては大事なモノでは無かったし、親方にとっても同じだろう。しかし、親方はそれで良いと言った、僕も了承した。つまり、取引は完了された。もう僕らの間に枷は無いということだ。

 何もわからない事だらけだけど、とにかくゴールデンパレスへは行かなくてはならない。僕たちが本当に対等な立場であるのなら、約束は守られるべきなのだから。


「ゴールデンパレスへはどう行けばいいのでしょう? わからないのです」


 親方はかぶりを振り、空を見上げる。濁っている目が更にくすんで、黒目が針孔のように小さく収縮する。


「月は空に貼り付いているように見えるがな、実はもっと高いところにあるんだ」


「船では行けない?」


「浮力が足りない、船は雲の上が限界だ」


「フリョク?」


「浮く力だ」親方はそう言って、女の子をゆび指した。「あれはチチャと言う娘だ。 出る前に少しだけ仕事を教えてやってくれないか?」


「もちろんです。 僕もこのまま出るのは忍びなかった」


 親方は不揃いな髪を風に靡かせながら「けっこう」とだけ言った。

 恐らくこれが別れの言葉になるのだろう。


「では、親方」


「ああ、ハンス」


 僕たちの別れは永遠に続くものでは無く、一つの区切りのようなものだ。黄金の鉱石を手に入れたら必ず戻ってくる。「おはよう」や「おやすみ」となんら違わないのだから、僕らの挨拶はこの程度で十分だ。


 チチャは火の前でシシの肉と雄鶏の肉を見比べながら、鼻を近付けたり、歯に挟んだりしている。

 僕は彼女を手招きして、厩舎に向かって歩いた。駆ける足音が僕の直ぐ後ろで止まり、歩調を改めるような不格好な足音が聞こえた。


 僕は先ず、チチャに動物の世話の仕方を教えた。餌の量や蹄鉄の替え方、荷馬車の取り付け方、羽馬の宥め方や鶏の捕まえ方まで。

 次に蟻塚のように積んだ堆肥に被せていた布を剥いで掻き混ぜる。彼女は顔を顰めて手で覆った。微かなアンモニア臭のせいだろう。


「鼻がツンとする臭いがなくなれば完成だ」


 チチャは返事をせずに頷くだけだった。


「この堆肥が出来たら山に住んでいる大きなサルのヒトに渡して欲しいんだ」


 チチャは頷く。


 僕はオール状になった棒を彼女に渡した。「君も混ぜてみると良いよ」


 彼女は少し嫌そうな顔をしたが、棒を受け取ると堆肥を混ぜ始めた。しばらくすると棒を堆肥に突き刺して、腰を伸ばす。彼女の口から微かな吐息が漏れた。

 僕はざんばらに切られたチチャの襟足を眺めた。後頭部まで黒く日に焼けている。チチャは健康的な女の子のようだった。もちろん憶測ではあるけれど、彼女ならここでも上手くやっていけるのではないか、と僕は思う。


 次に掃除の仕方を教えるために、廃城の中を案内する。基本的には男たちの寝床になっていて、他は貯蔵庫があったり、簡易的な奴隷の部屋があったりする。

 そして、案内の途中に美しい目玉焼きの焼き方も教える。卵白を分離させるやり方だ。しかし、彼女は興味が無さそうに聞いている。アネモネと違うのは本当に興味が無さそうなところだ。


 僕らが表に出ると、待ち構えていたような、ヘイグの姿があった。彼は僕と視線が交わると、白い歯を見せて笑った。


「さっそく仕事を教えているのか、ハンス」彼はどこか嬉しそうだった。


 僕は「そんなところだ」と言う。デタラメを言ったつもりは微塵も無い。


「獲物の解体の仕方はもう教えたか?」


「まだだよ」ヘイグに言う。その後、僕はチチャに向いて、太った大男をゆび指した。「屠畜はカーヴァーに教わるんだ。 あの大男は僕より上手だからな。 それに僕は今日でここを出るんだ」


 ヘイグはチチャを押しのけて僕に詰め寄った。彼女は尻餅をついて、息の詰まった声を上げる。ヘイグの挙動には困惑が見て取れた。そして、表情は直ぐに怒りのようなものに変わる。ヘイグはいつも僕を思い通りにしようとする。


「出るってどう言うことだよ、ハンス。 一緒に狩りへ行くって言ったろ!」


「ヘイグ、僕はそんなこと一言も言ってないよ」


「説明しろ!」


「説明は不要だよ。 もう親方と取引した」


「取引だと! 勝手な真似は許さないぜ!」


 チチャは座り込んだまま、口をポカリと開けている。僕は彼女を立たせて、石窯の方へ歩いた。彼女は僕の後ろに着いて来る。もちろんヘイグも。


「おい、逃げるんじゃないぜ、ハンス。 俺が納得すると思うか!? ええ! どうなんだ!」


「僕に構わないでくれ」


「構わないでだと! 弟の癖に生意気だぞ! いつから俺より偉くなったんだ!? 言ってみろよ!」


 僕はチチャを隣に座らせて、石窯に火を入れる方法と、薪に火を着ける方法を簡単に説明する。チチャは僕とヘイグの顔を交互に眺めて、時々縮こまるみたいに肩をすくめる。


「ハンスよ、だんまりか!? なにか言ってみたらどうだ! ええ!」


「頼むから静かにしてくれ」僕は努めて小さな声で言った。


 廃城は湧いたように騒がしくなった。男たちが喧嘩でも始めたのか、熱気は湿り気を帯びてやって来る。チチャはその方向に目を向けて、じっと動かなくなった。僕とヘイグは見つめ合ったまま、お互いの動きを見張った。

 僕は彼から逃げているのだろうか。違う。僕は我慢強く耐えているんだ。彼とじっくり話をしたところで、僕の益になることはなにも無い。ならばこうやって、何も言わずに時間が過ぎて行くのを待てばいい。

 僕はそんな居心地の悪さをずっと感じて来た。そして、僕自身の奴隷としての気怠さは、ヘイグの中に在ったんだ、と今初めて理解した。


「あの……」チチャはとても小さい声で言った。視線を真っ直ぐ前に向けたまま、包帯の巻かれた手を抱いている。


「取り込み中だぞ、黙っていろ」ヘイグが言う。変わらず僕を見つめたまま。


 男たちが怒号を上げる。カーヴァーが城郭の上に居る親方に、大きく両手を振っているのが見えた。鶏たちは囃し立てるように、細かい歩幅で動き回っている。焚木の火の粉は鱗粉のように宙へ舞い、赤い地面に落ちた陰影は、狼狽えるように点滅しながら無秩序に形を変えた。

 ヘイグは吃驚して、体を棒のように伸ばす。眉は直ぐに厳めしく、角度を変えた。


「侵入者だ」ヘイグはダガーを抜いて、飛んで行く。


 ふたりの男の子がこちらに向かって駆けて来る。僕はチチャにふたりを連れて城の中へ入るように言った。

 カーヴァーが石槌を振り上げて、侵入者と対峙しているようだ。他の男たちも武器を構えて、侵入者を取り囲んだ。

 僕はこの隙に出ようと考えた。ヘイグを納得させてから旅へ出るのは不可能だ。しかし僕の思惑は早々に潰えることになった。


「ハンス! お前の知り合いと言ってる奴が来ているぞ!」歯の抜けた小男が言う。彼はトカゲのように眼球を回した。


「僕の知り合い?」


「いいから来てくれ!」


 男たちが作った輪の中心に見慣れたような懐かし影があった。むすっとした表情で赤い炎の幕に半身を染めている。アネモネは骨付きのシシ肉を観察しながら、雄鶏の肉を食べていた。


「あんまりに遅かったから迎えにきたわよ」


「知り合いか、ハンス!」ヘイグはダガーの切先をアネモネに向けながら怒鳴った。


「おい! アネモネ! 勝手に肉を泥棒するんじゃあないぞ!」


 男たちは、武器を下ろして静観する。僕とアネモネが知り合いだと知って幾らか安堵したらしい。けれど、ヘイグだけは変わらずダガーを構えている。表情はより厳しいものになっていた。


「さあ、説明をするんだよ、ハンス。 こいつは何者だ」


「それはアネモネだ。 僕はその子と旅に出るんだ」


「旅だと!」ヘイグの足元の砂粒は渦を巻きながら広がっていく。切先は変わらずアネモネに向けられたままだった。「お前がハンスを唆したのか?」


「人聞きが悪いわね」アネモネはシシの肉を一口齧って、顔を顰めながら咀嚼する。


「どのみち侵入者だ。 殺されて然るべきだ」


「よせ! ヘイグ!」


 ヘイグは追い風を受けながら、アネモネに突進する。彼が過った空間は、屈折したように歪んで見えた。

 アネモネは飛び上がって攻撃を躱し、僕に向かって大声で言った。


「早くしないと置いてくわよハンス!」

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